灯が決めたこと
初めて彼氏ができた灯。
喜びに浮かれるより先に、「付き合うって何をすればいいの?」と悩むところが、いかにも灯らしい第7話です。
日曜日の夜、灯は自分の部屋で、直人とのやり取りを何度も読み返していた。
歩道橋で別れてから1時間ほど経った頃、最初に届いたのは無事に家へ着いたかを確かめるメッセージだった。灯が着いたと返すと、少し間を置いて次の文章が表示された。
――今日はありがとう。お試しでも、付き合ってくれてうれしかった。
付き合う、という言葉を声に出さず読んだだけなのに、歩道橋で告白された時の緊張が胸へ戻ってくる。灯はベッドの上で座り直し、何度か書き直してから返信した。
――私も楽しかった。これからよろしくね。
すぐに既読がつき、こちらこそよろしくと返ってきた。その下へ、直人が初めて「おやすみ、灯」と送ってくる。学校では毎日呼ばれている名前なのに、画面の中に2文字だけで置かれると、いつもより近くから呼ばれたように感じた。
灯もおやすみと送り、携帯電話を伏せた。数分もしないうちにまた手を伸ばし、最後のやり取りを確かめる。
今日から直人は、自分の彼氏になった。
ただし、お試しの。
その違いがどれほど大きいのか、灯にはまだわからない。明日になれば学校で会い、これまでと同じ席へ座る。けれど同じではないはずで、何を変えれば恋人になるのかもわからなかった。
真帆なら知っているだろうか。明日、学校へ着いたら最初に相談しようと決め、灯はようやく携帯電話を枕元へ置いた。
*
翌朝、灯が玄関を出ると、陽流は門柱にもたれずに立っていた。携帯電話を見ている様子もなく、灯の姿を確かめるとすぐ歩きだす。
「今日は遅れなかったよ」
「うん。時間どおり」
「もう少しくらい褒めてくれてもいいんじゃない?」
「時間どおりに来るのは普通だろ」
いつもと変わらない返事に、灯は少し安心して隣へ並んだ。昨夜は直人から届くメッセージを意識していたせいか、陽流と歩く道が久しぶりのように感じられる。実際には金曜日にも同じように登校したのに、間に1日あっただけで妙に懐かしかった。
陽流はしばらく前を向いて歩いたあと、狭い道から大通りへ出たところで尋ねた。
「昨日、どうだった?」
「すごく楽しかったよ。プラネタリウム、天井いっぱいに星が出てね、流星群も本当に降ってるみたいだった」
「そうなんだ」
「そのあと本屋にも行ったの。直人くん、推理小説が好きなんだって。でも犯人を当てたことはほとんどないんだよ」
「それ、好きって言えるの?」
「当たらないから面白いんじゃない?」
「灯も当てられなさそう」
「まだ読んだことないからわからないよ」
直人と過ごした一日を話し始めると、伝えたいことが次々と浮かんだ。初めてクレープを食べた直人が、包装紙の中ばかり見ていたこと。待ち合わせより20分も早く来て、先に券を買っていたこと。夕方の歩道橋で告白されたこと。
最後の出来事まで話そうとして、灯は口を閉じた。
「どうした?」
「ううん。続きは学校に着いてからにする」
「なんで?」
「真帆にも聞いてほしいから」
陽流は一瞬だけ灯を見たが、それ以上は尋ねなかった。前を向き、いつもと同じ歩幅で学校へ向かう。その横顔が少し硬く見えたものの、灯は直人の話ばかりして退屈させたのだろうと思った。
*
教室へ着くなり、灯は真帆の腕を引いて廊下へ連れ出した。
「どうしたの。朝から積極的だね」
「昨日のこと、聞いてほしいの」
「その顔なら、楽しかったみたいだね」
真帆は壁際へ寄り、話す準備をするように腕を組んだ。灯が待ち合わせから順に話し始めると、直人が20分前から待っていたところで感心し、服を褒められたところで楽しそうに笑う。プラネタリウム、本屋、クレープと続き、歩道橋で告白されたと話した瞬間、組んでいた腕を解いた。
「やるね、倉田くん。それで灯はなんて答えたの?」
「直人くんと同じ好きなのか、まだわからないって言った」
「うん。それで?」
「もし嫌いじゃないなら、お試しで付き合ってみないかって。もっと直人くんを知るチャンスがほしいって言われたの」
「へえ。それでオッケーしたんだ?」
「うん。悪い人じゃないし、嫌な感じもしないから。それに昨日もずっと楽しかったし、もっと知ったら好きになるのかなって」
灯が答えると、真帆は嬉しそうにも心配そうにも見える顔でしばらく見つめた。
「灯がそう思ったなら、いいんじゃない?」
「でも、付き合うって何をすればいいのかな。直人くんも初めてだって」
「そこから2人で考えるのも、お試しなんじゃない?」
「そういうもの?」
「私だって付き合ったことないから知らないよ」
「真帆なら何でも知ってると思ったのに」
「私を何だと思ってるの?」
真帆が笑い、予鈴までの時間を確かめる。灯は教室の中へ視線を向けた。陽流はすでに自分の席へ座り、机の中へ教科書を入れている。
「じゃあ、このあと陽流にも話してくるね」
「待って」
真帆が灯の肩を掴んで止めた。
「灯、倉田くんと付き合うこと、湊くんには言わないほうがいいよ。私から話しておくから」
「え? なんで? このあと陽流にも話そうと思ってたのに」
真帆は返事の代わりに灯の両頬を指先で軽くつねり、そのまま左右へ引いた。
「本当にこの子は何もわかってないよね」
「やー、なんでつねるの」
「少しはわかるようになるかと思って」
「つねってもわからないよ」
灯が両手で真帆の手首を掴むと、ようやく離してくれた。頬をさすりながら理由を尋ねても、真帆は「私から話したほうがいいと思う」と繰り返すだけだった。
「陽流、怒るかな」
「怒らないよ。だから困るんだと思う」
「何が?」
「それも自分で考えて」
真帆は灯の背中を押して教室へ戻した。ちょうど後ろの扉から直人が入ってくる。目が合うと、直人は一度だけ照れたように視線を逸らし、それでも灯の席まで来て立ち止まった。
「おはよう、灯」
「おはよう、直人くん」
昨日までと同じ呼び方なのに、2人とも少しだけ声が硬い。真帆はその様子を見て口元を緩めたあと、陽流のいる教室の後ろへ目を向けた。
*
2時間目と3時間目の間の休み時間、真帆が陽流の席まで来た。
「湊くん、ちょっといい?」
「何?」
「ここだと話しにくいから」
陽流は開きかけていた教科書を閉じ、真帆のあとを追って廊下へ出た。階段の踊り場まで行くと、教室のざわめきは扉1枚を隔てた向こうへ遠ざかる。真帆は手すりの前で足を止め、何から言うべきか迷うように陽流を見た。
灯が朝、直人との一日を楽しそうに話していた。その続きを真帆にも聞いてほしいと言って止めた。何を聞かされるのか、陽流にもわかりかけていた。
「灯、倉田くんと付き合うことになったよ」
予想していた言葉のはずなのに、頭の中で意味になるまで時間がかかった。
「……付き合うって?」
「そのままの意味。倉田くんに告白されて、お試しで付き合ってみることにしたんだって」
「そうなんだ」
それだけ答え、陽流は閉じた教科書の角を指で押した。強く押しすぎて表紙が少し曲がり、慌てて力を抜く。何か言わなければならないと思うほど、次の言葉が出てこなかった。
「灯を責めないでね。私が湊くんに話すからって、灯には口止めしたの。そのほうが少しはショックが小さいかと思って。余計なお世話だった?」
「責めるわけないよ。灯がそれでいいなら、別に」
自分の声は、思ったより普通に聞こえた。真帆が何も言わず見ているため、陽流は教科書を持ち直して階段へ足を向ける。
「湊くん」
呼び止められ、半分だけ振り返った。
「大丈夫?」
「何が?」
真帆は少し困った顔をした。陽流は答えを待たず、教室へ戻ろうとしたが、数歩進んだところで足を止める。
「でも、まあ……ありがとう。俺に先に言ってくれて」
礼を言い、今度こそ歩きだす。本人から直接聞くよりは、真帆から聞けてよかったのかもしれない。灯の顔を見ながら、おめでとうと言えた自信はなかった。
*
昼休みになると、直人は弁当を机へ出したあと、隣にいる灯へ尋ねた。
「今日、一緒に食べてもいい?」
「うん。付き合ったら、お昼も一緒に食べるんだよね?」
「たぶん。俺もよくわからないけど」
朝から何度も交わした会話と同じように、2人とも探りながら進んでいる。灯は自分の机を少しだけ直人のほうへ寄せた。いつも昼食を一緒に取る真帆にも声をかけると、真帆は購買へ行く約束があると言い、鞄から財布を取り出した。
「小坂も一緒でいいんだけど」
「初日くらいは2人で食べたら? でも灯を毎日借りるのは禁止ね」
「借りるって、灯は物じゃないだろ」
「よくできました」
真帆は満足そうに頷き、教室を出ていった。灯が弁当箱を開くと、直人は自分の椅子をこちらへ向ける。学校で隣り合って教科書を見たことは何度もあるのに、向かい合って昼食を食べるだけで、周囲から見られている気がした。
「毎日じゃなくていいからね」
「私と食べたくないの?」
「違うよ。小坂とも食べたいだろうし、俺だって湊たちと食べる日もあるから」
「そうだね。付き合ったら、ずっと2人でいなきゃいけないのかと思った」
「それだと、お試しの前に疲れそう」
直人が笑い、灯も肩の力を抜いた。恋人になったからといって、急に何もかも変えなくていい。昨日までと同じ場所に少しだけ新しい時間を増やしていけばいいのだと思うと、お試しという言葉が心強く感じられた。
弁当に入っている卵焼きの味つけや、次の体育が外なのかといった話をしながら食べる。直人が箸で掴んだミニトマトを落としかけ、灯が笑った時、反射的に教室の後ろへ目を向けた。
陽流は男子数人と机を囲み、こちらへ背を向けている。笑い声は聞こえたが、その輪の中で陽流が笑っているのかは見えなかった。
「灯?」
「ううん、なんでもない」
直人へ向き直ると、彼も一度だけ教室の後ろを見た。
「湊には、もう話した?」
「真帆が話してくれたよ。私から言わないほうがいいって」
「小坂が?」
「うん。どうしてだと思う?」
直人はすぐには答えなかった。落としかけたミニトマトを今度こそ口へ運び、よく噛んでから弁当箱へ視線を落とす。
「たぶん、小坂なりに考えたんじゃないかな」
「何を?」
「俺にもわからないよ」
直人はそう言って笑ったが、真帆とは違い、灯の頬をつねることはなかった。
*
放課後、直人は鞄へ教科書を入れ終えてから、灯の机の横へ立った。
「今日、一緒に帰らない?」
「うん。帰ろう」
答えたあと、灯はいつものように教室の後ろを見た。陽流はまだ席に座り、鞄の中を整理している。灯が声をかけようとすると、それより先に顔を上げた。
「今日は2人で帰りなよ」
「陽流も一緒に帰ればいいのに」
「付き合い始めた日に、俺までついていくのは変じゃないか」
「直人くんはいいよね?」
突然尋ねられた直人は、陽流と灯を交互に見た。
「俺は一緒でもいいけど」
「ほら」
「俺はいいよ」
短い返事が思ったより強く聞こえたのか、灯の表情が止まった。陽流はすぐに視線を逸らし、机の中へ残っていたノートを鞄へ入れる。
「初日くらい2人で帰ればいいってこと。俺のことは気にしなくていいよ」
「……わかった。じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
直人と灯が教室を出たあと、陽流は開いた鞄をしばらく見下ろしていた。入れるものはもう何も残っていない。それでも2人の足音が廊下から消えるまで、立ち上がれなかった。
教室に誰も残っていないことを確かめ、陽流は椅子へ座り直した。机の上へ両腕を重ね、そのまま額を押しつける。誰も見ていないなら、平気なふりを続ける理由もなかった。
「はぁ〜……つら」
机の中へ落ちた声は、自分にしか聞こえなかった。
*
帰り道、灯と直人は昨日と同じように並んで歩いた。休日の私服ではなく制服に戻り、鞄の重さも学校帰りのものになっている。それでも今日は、昨日までと同じ友達ではない。
「湊、怒ってたのかな」
「ううん、別に怒ってないよ。陽流はああいう言い方する時があるから」
「ならいいけど」
「明日は3人で帰ろうね」
灯が言うと、直人は少し困ったように笑った。
「灯がそうしたいなら」
並んだ手が歩くたびに近づいたが、直人は繋ごうとはしなかった。昨日プラネタリウムで残されていたわずかな距離と同じように、灯が自分から近づける余白を残している。そのことに気づき、灯は直人と付き合ってみようと決めたことを間違いだとは思わなかった。
*
陽流が家へ帰ると、見慣れた大きなスニーカーが玄関に置かれていた。
3歳上の兄、遼介は高校の部活動が休みらしく、居間のソファへ長い脚を投げ出していた。陽流より背が高く、よく似た整った目元をしているが、表情は対照的によく動く。短い髪を無造作にかき上げ、帰ってきた弟を見るなり、つけていたテレビの音量を下げた。
「おかえり。ずいぶん暗い顔してんな」
「普通だよ」
「普通のやつは、帰ってきて兄貴の顔を見たくらいでため息つかないだろ」
「兄貴がいると思わなかったから」
「ひどい弟だな」
遼介は笑いながら起き上がった。陽流は話を続ける気になれず、鞄を持ったまま階段へ向かう。その背中へ、遼介が思いついたように声を投げた。
「そういえば、この前、灯ちゃんを家の前で見かけたぞ」
陽流は階段の前で足を緩めた。
「それが何?」
「しばらくちゃんと会わないうちに、ずいぶん可愛くなったな。小さい頃は、お前と2人まとめて面倒見てたのに」
「隣に住んでるんだから、会おうと思えばいつでも会えるだろ」
「俺は朝早いし、帰るのも遅いから、意外と会わないんだよ。お前は今でも一緒に学校行ってるんだろ?」
「まあ」
「学校でも同じクラスなんだよな?」
「うん」
「家が隣で、学校でも同じクラスか。相変わらず仲いいな」
「普通だよ。小さい頃からずっとそうだったし」
「なんだ陽流、そこまで一緒にいて、まだ灯ちゃんと付き合ってなかったのか。あんな可愛い子、うかうかしてたら取られちゃうぜ? 男なら告れよ」
いつもなら聞き流せる軽口だった。
陽流は階段の1段目へ足を置いたまま、しばらく動かなかった。振り返らず、鞄の持ち手を握り直す。
「……もう取られたよ。灯、別の奴と付き合ったから」
遼介の笑い声が止まった。
テレビから聞こえる明るい音だけが、急に広くなった居間へ流れている。遼介は何か言おうとして口を開き、結局いつもの調子には戻らなかった。
「……そうか。悪い」
「兄貴が謝ることじゃないよ」
陽流はそのまま階段を上った。遼介は呼び止めず、自室の扉が閉まる音を居間から聞いていた。
鞄を床へ置き、陽流はベッドへ腰を下ろした。カーテンの隙間から、塀を挟んだ隣家の2階が見える。灯の部屋にはまだ明かりがついていなかった。今頃は直人と別れ、1人で家へ向かっている頃かもしれない。
直人なら灯を大事にする。告白する前からわかっていたし、今日の昼も放課後も、灯の顔は楽しそうだった。自分が何も言わないまま、直人はきちんと気持ちを伝えた。その結果を責められる相手は、どこにもいない。
灯が決めたことだから。
灯が笑っていられるなら、それでいい。
そう思おうと決めたのは、自分だった。
やがて隣家の窓に明かりがつく。陽流はカーテンを閉め、灯の部屋を視界から隠した。
何度言い聞かせても、胸の痛みだけは少しも消えなかった。
直人はきちんと想いを伝え、灯は自分で決めました。
陽流は何も伝えなかった。誰も悪くないからこそ、その痛みには行き場がありません。
次話「今までどおり」へ続きます。




