それってデート?
熱が下がり、灯はいつもの教室へ戻ります。
そこで待っていたのは、言わなくても気づく優しさとは少し違う、直人の丁寧な優しさでした。
灯が学校へ戻ったのは、熱を出してから2日後だった。
玄関を出ると、陽流はいつものように門の前で待っていた。顔を見るなり近づいてきて、挨拶より先に灯の額へ手を当てる。灯は避けることもなく、ひんやりした手の甲を受け入れた。
「もう熱ないよ」
「本当に?」
「昨日の夜からずっと平熱。お母さんにも行っていいって言われたの」
灯がそう答えても、陽流はまだ額へ触れたままだった。やがて自分から近づいていることに気づいたように手を引き、確かめるなら体温計のほうが正確だったと今さら言う。
「陽流が確かめたかったんでしょ?」
「また学校で倒れられたら困るから」
「もう大丈夫だってば」
灯は両腕を軽く広げ、その場で一度回ってみせた。陽流は転ぶからやめろと肩を支えかけ、すぐにその手を引っ込める。
灯には、どうして陽流のほうが落ち着かないのかわからなかった。
「あの日、ずっといてくれてありがとう」
「気にしなくていいよ」
「でも、ちゃんと言ってなかった気がして」
「言ってたよ。熱で覚えてないだけじゃないか?」
「じゃあ2回目。ありがとう」
灯が笑うと、陽流は視線を逸らして歩きだした。返事はなかったが、その歩幅は灯が無理なくついていける速さだった。
*
教室へ入ると、直人が真っ先に灯の席まで来た。
「もう大丈夫?」
「うん。心配かけてごめんね」
「元気ならいいよ。これ、休んでた分」
差し出されたノートには、灯が欠席した授業の板書だけでなく、宿題の範囲や教師が口頭で付け加えた内容まで、教科ごとに付箋でまとめられていた。普段の直人のノートより整っているように見え、灯は何度も頁をめくった。
「これ、全部直人くんが書いてくれたの?」
「途中から小坂にも確認してもらった。俺だけだと間違ってるかもしれないから」
「そんなことまでしなくてよかったのに」
「隣の席が困ってたら、助けるだろ」
直人は照れたように笑い、自分の席へ戻った。その言葉を聞いていた真帆が、灯の机へ寄りかかりながら小声で「倉田くん、よくできました」と評する。灯がノートを胸元へ抱えたまま頷くと、真帆は少し離れた席にいる陽流へ目を向けた。
「湊くんは、家まで送ってくれたんだよね」
「うん。お母さんが帰るまで部屋にいてくれた」
「部屋に?」
「久しぶりに入ったからって、変に緊張してたけど」
「へえ。湊くんが?灯の部屋で?」
真帆は何かを想像するように目を細めた。灯が、水を持ってきてくれただけで何もなかったと付け加えると、「私は何も聞いてないよ」と笑う。その顔が妙に楽しそうで、灯は余計なことまで話した気がした。
朝の会が始まり、授業が進むうちに、休んでいた2日間はすぐ日常の中へ埋もれていった。隣には直人がいて、わからないところを教えてくれる。休み時間には真帆が来て、陽流は離れた席から時々こちらを見る。いつもの教室へ戻っただけなのに、誰かに待っていてもらえたような温かさが胸に残った。
*
昼休み、灯は真帆と図書室へ向かう途中で足を止めた。
廊下の掲示板に、夜空を大きく印刷したポスターが貼られている。駅前文化センターにあるプラネタリウムの特別上映で、夏の星座と流星群を紹介するらしい。濃紺の空を横切る光の帯の下に、今度の日曜日からという文字が並んでいた。
「ねぇこれ、見てみたい」
灯が言うと、真帆はポスターへ顔を近づけ、上映時間を確認した。
「私は暗くなったら寝ちゃいそう」
「星が出る前に?」
「星が出ても。映画でも途中で眠くなるもん」
「えー!真帆と行こうと思ったのに」
「ごめん。灯のお母さんか、湊くん誘ったら?」
真帆は悪びれず、借りる本を探すため図書室へ入っていく。灯はもう一度ポスターを見上げてから、そのあとを追った。
教室へ戻ると、直人が自分の席でパンを食べていた。灯が借りてきた本を机へ置くと、その表紙より先に、直人は廊下のほうへ目をやった。
「さっきのポスター、プラネタリウム?」
「直人くんも見たの?」
「昨日貼ってあった。灯、行きたいの?」
「うん。でも真帆には断られちゃった」
それだけの会話で終る。直人はパンの袋を畳み、灯も弁当箱を開いた。直人は何か言いかけたが灯と目が合うと落ち着かない様子でその場を後にする。
放課後、真帆が担任に呼ばれて職員室へ向かったあと、帰り支度をしていた灯の机へ直人が少し落ち着かない様子でやってきた。
「灯、日曜日って空いてる?」
「今度の日曜日? たぶん何もないよ」
「じゃあ、昼に話してたプラネタリウム、俺と行かない?」
「直人くんと?」
「うん。俺も少し興味あるし」
そこまで言ったあと、直人は一度教室を見回した。近くにいた男子たちは部活動の話に夢中で、こちらを気にしていない。陽流はまだ後ろの席にいるが、鞄の中を整理している。
「できれば、2人で行きたい」
声は小さかった。けれど灯は、その言葉に特別な意味があるとは思わなかった。真帆は興味がなく、直人は見てみたい。ならば同じものに興味を持った2人で行くのは、ごく自然なことに思えたから。
「うん、いいよ。私も一緒に行く人を探してたところだし」
迷いなく答えると、直人は少し驚いたように灯を見た。
「……本当にいいの?」
「直人くんも見たいんでしょ?」
「うん。見たい」
直人の返事は、必要以上に力強かった。その理由までは考えず、灯は日曜日の予定が決まったことを素直にうれしく思った。
「じゃあ、午前11時に駅前で。上映時間、あとで調べて送るよ」
「わかった。楽しみにしてるね」
「俺も」
直人は笑い、自分の席へ戻っていった。その夜には上映時間と待ち合わせ場所が届き、灯も楽しみにしていると返信した。それがデートの約束なのだとは考えないまま、日曜日の予定を携帯電話のカレンダーへ登録した。
*
翌朝、教室へ入ると、真帆が昨日の放課後は直人と何を話していたのかと尋ねてきた。
「日曜日、直人くんとプラネタリウムに行くことになったよ」
「倉田くんと?」
「うん。できれば2人で行きたいんだって」
真帆は机へ置きかけた鞄を持ったまま、動きを止めた。
「灯、それってデートじゃない?」
「……そうなの?」
「“できれば2人で”って、わざわざ言われたんでしょ?」
「うん。でも真帆は行かないし、直人くんは見たいって言うから」
「そこに私が行くかどうかは、たぶん関係ないと思うな」
「ねぇ灯、よーく考えてみて」
真帆は両手で灯の肩を掴み、真正面から顔を覗き込んだ。
「倉田くんは、灯とデートするつもりで誘ったんだよ」
「えー、普通に、一緒にプラネタリウムへ行くんだと思ってた」
「それを世間ではデートって言うんじゃないですか?灯さん」
言われて初めて、日曜日に直人と2人で並んで歩く自分を想像した。学校では毎日隣にいるのに、制服ではなく私服で待ち合わせるだけで、同じ2人には思えない。急に頬が熱くなり、灯は手の甲を当てた。
「どうしよ、また熱出たかも」
「うーん、今回はたぶん違うと思う」
「じゃあ、どうしよう」
「行くって返事したんでしょ?」
「したけど……何着ていけばいいのかな」
真帆は少し考え、それから楽しそうに笑った。
「じゃあ今日、灯の家に寄っていい?」
「服、選んでくれる?」
「それもあるけど、初デートに慌てる灯をもう少し見ていたい」
「もー、真帆、楽しんでるでしょ」
「うん。とても」
真帆は隠そうともせず頷いた。
*
灯の部屋のベッドには、2組の服が並べられた。
1つは襟に細い青の線が入った白いブラウスと、淡い青色のスカート。もう1つは、小さな花柄が入った薄い黄色のワンピース。真帆は灯のクローゼットを一通り確認し、動きやすさと季節を考えればこの2つだと言った。
灯は順番に着替え、鏡の前に立つ。真帆はスマートフォンを構え、正面と少し斜めからそれぞれ写真を撮った。白と青の組み合わせは普段の灯に近く、黄色いワンピースはいつもより少し大人びて見える。
「どっちがいいと思う?」
「どっちも似合うよ」
「それじゃ決められない」
「白いほうは灯らしい。黄色はデートらしい」
「余計に迷うよ」
灯が鏡の前で何度も見比べていると、真帆は撮った写真を2枚並べて画面へ表示した。
「いっそのこと倉田くんに聞いてみたら?」
「着ていく前に見せたら、驚かせられないでしょ」
「へー、驚かせたいんだ?」
「だって、せっかく真帆に選んでもらったんだから」
灯は真帆の携帯電話から写真を受け取り、自分の画面で見比べた。どちらが男の子に好まれるのか、灯にはまったくわからない。
「男の子に聞けばいいのかな」
「灯の知ってる男の子って、倉田くん以外だと……」
真帆はそこで言葉を切った。灯の顔を見て、すでに考えていることがわかったらしい。
「湊くんに聞くつもり?」
「陽流なら、ちゃんと答えてくれそう」
「倉田くんとのデートに着ていく服を?」
「変かな?」
「変というか……倉田くんが知ったら、ちょっと複雑なんじゃない?」
「どうして?」
「ううん。灯がいいなら、私は止めないよ」
真帆は笑いながら、ベッドの上の服を畳み始めた。
*
真帆が帰り、夕食を終えたあとも、灯は2枚の写真を見比べていた。
白い服は自分らしく、黄色い服は少し背伸びをしているように見える。直人がどちらを好むのか考えても、まだ知らないことのほうが多く、答えにはたどり着かなかった。
灯は陽流との画面を開き、2枚の写真を送った。送信された画像が縦に並んだところで、すぐに通話ボタンを押す。
数回呼び出し音が鳴り、陽流の声がした。
「もしもし。どうした?」
「写真見た?」
「今来たけど。急に何?」
「この2つなら、どっちがいいと思う?」
通話の向こうが静かになった。灯は自分の姿を見られていると思うと少しだけ落ち着かず、ベッドへ腰を下ろした。隣家の2階には、陽流の部屋の明かりがついている。
「白いほう」
「即答だね」
「そっちのほうが灯に似合ってるから」
「男の子も、こっちのほうが好きかな?」
「男ってまとめられても知らないよ。俺なら白いほうが好きだけど」
灯はもう一度、白いブラウスを着た自分の写真を見た。真帆から似合うと言われたときより、陽流に選ばれた今のほうが、こちらを着たいと思えた。
「じゃあ、白いほうにする」
「それ着てどこか行くの?」
「うん、日曜日、直人くんとプラネタリウムにね」
通話が途切れたわけではない。けれど陽流の声は返ってこなかった。
「陽流?」
「……直人と?」
「うん。真帆が、たぶんデートだって」
「それ、先に言ってよ」
「言う前に答えたの、陽流じゃない」
「直人に見せる服まで、俺が選ぶのは変じゃないか」
「変じゃないよ。男の子の意見を聞きたかったし」
「だったら直人に聞けばいいじゃないか」
「本人に聞いたら、当日驚かせられないでしょ」
「……そうだな」
陽流の返事は、少し遠く聞こえた。灯は画面に映る白い服を指先で広げ、襟元の青い線を確かめる。
「それに、陽流が一番ちゃんと答えてくれると思ったから」
「灯は、俺が何でも答えると思ってるよな」
「答えてくれたじゃん」
「今回はね」
「ありがとう。日曜日、これ着ていく」
「うん。楽しんでくればいいんじゃないか」
通話を終えたあと、灯は白いブラウスと淡い青色のスカートをハンガーへかけ、クローゼットの扉へ並べた。日曜日を思うと、楽しみと緊張が一緒になって胸の奥へ浮かんでくる。それがデートだからなのか、直人と2人だからなのかは、まだよくわからなかった。
*
陽流の携帯電話には、通話が切れたあとも2枚の写真が残っていた。
白いブラウスを着た灯は、画面の中で少し照れたように笑っている。似合うと思った。だから何も考えず、そちらを選んだ。けれど、その服を着た灯と並んで歩くのは自分ではない。
直人がその姿を見て、かわいいと言うかもしれない。暗いプラネタリウムで隣に座り、学校ではできない話をするかもしれない。そう考えると、灯から送られてきた写真を見ていることさえ、間違っているように思えた。
陽流は画面を閉じ、机の上へ伏せた。
似合う服を選んでほしいと頼まれた。灯が一番かわいく見えるほうを選んだ。
けれど、その姿を見るのが自分ではないことだけが、どうしても納得できなかった。
直人とのデートに着ていく服を、陽流に選んでもらう灯。
陽流が選んだ白いブラウスを最初に見るのは、陽流ではありません。
次話「デートのつもり」へ続きます。




