言わなくても
言わなくても気づいてくれる人と、言葉にして心配してくれる人。
灯のそばには、違う優しさを持つ2人がいます。
翌朝、灯は陽流を待たせなかった。
玄関を出ると、門柱の横へ来たばかりの陽流が、携帯電話をポケットにしまうところだった。いつものカフェオレを片手に持ち、時間どおりに現れた灯を見て少しだけ目を丸くする。
「今日は早いな」
「たまには陽流を驚かせようと思って」
「毎日驚かせてくれてもいいけど」
「それは無理かも」
灯は笑い、陽流の隣へ並んだ。ところが歩き始めて最初の角を曲がっても、昨夜のような言葉は続かなかった。陽流がカフェオレを飲んでも、ひと口ほしいとは言わない。小さな欠伸を噛み殺し、何度か目をこすりながら、いつもなら文句を言う坂道も黙って上っていく。
「灯、ちゃんと寝た?」
「寝たよ。ちょっと夜更かししただけ」
「何時まで?」
「覚えてない」
「それは寝たって言わないんじゃないか」
陽流が顔を覗き込むと、灯は逃げるように前へ出た。大丈夫だと肩越しに答える声は普段と変わらず、足取りにもふらつきはない。それでも横断歩道の信号を待つ間、灯はこめかみへ指を当て、眉間に小さな皺を寄せていた。
青信号に変わるとすぐ、何事もなかったように歩きだす。陽流はその横顔を見ながら、自分の紙パックへ残ったカフェオレを飲み干した。
*
学校に着く頃には、灯自身も身体の重さを忘れかけていた。
新しい隣の席では、直人が英語の教科書を机の上へ立て、今日は持ってきたと得意げに見せてくる。灯が大げさに褒めると、直人は昨日忘れただけで問題児扱いするなと笑った。真帆も朝の会が始まる前に席まで来て、今日は遅刻しなかったことを確かめていく。
「でも灯、ちょっと眠そうじゃない?」
「昨日、少し夜更かししたの」
「珍しいね。何してたの?」
「携帯見てたら遅くなっちゃって」
「誰と話してたんだ?」
直人が何気なく尋ねる。灯が答えるより先に、少し離れた席で椅子を引く音がした。陽流は教科書を机へ置き、何も聞いていない顔で窓の外を見ている。
「直人くんと別れたあと、陽流と少しだけ」
「へえ。寝不足になるくらい?」
「そんなに話してないよ。陽流の返事が遅かっただけだから」
真帆は灯の向こうにいる陽流へ目をやり、何かを察したように口元を緩めた。けれど担任が教室へ入ってきたため、その理由は聞けないまま朝の会が始まった。
1時間目、2時間目と授業を受けるうち、黒板の文字が少しずつ霞んで見えた。教師の声は聞こえているのに、ノートへ書き写す手が追いつかない。直人から何度か声をかけられ、そのたびに笑ってごまかした。
昼休みになると、灯は弁当箱を開き、母親が入れてくれた卵焼きを箸でつまんだ。いつもなら最初に食べるのに、今日は甘い匂いだけで胸の奥が重くなる。仕方なく元の場所へ戻し、代わりに水筒のお茶をひと口飲んだ。
「食べないの?」
向かいへ椅子を運んできた真帆が、まだきれいに並んでいる弁当を見た。
「なんか朝ごはん、食べすぎたのかも」
「それにしては顔色悪いよ。保健室行く?」
「大丈夫。ちょっと眠いだけだから」
灯は卵焼きをもう一度持ち上げ、口へ運ぼうとした。しかし箸を握る指に力が入らず、弁当箱の端へ落としてしまう。直人がすぐに拾おうと手を伸ばしたが、その前に別の手が弁当箱の蓋を閉じた。
「灯、具合悪いよな」
顔を上げると、陽流が机の横に立っていた。
「悪くないよ。少し眠いだけ」
「朝からカフェオレ欲しがらなかった」
「毎日飲みたいわけじゃないよ」
「卵焼きも残してる」
「あとで食べようと思ってたの」
「それに、さっきからずっと左のこめかみ触ってるだろ」
言われて初めて、灯はそこへ置いていた指を離した。直人と真帆が灯の顔を見る。自分でも気づかなかった癖を指摘され、言い返す言葉が見つからない。
陽流は灯の額へ手の甲を当てた。朝は近づいただけで距離を取ることもあるのに、今は触れることを迷いもしない。ひんやりした感触が心地よくて、灯はわずかに目を閉じた。
「ちょっと熱あるんじゃないか?」
「陽流の手が冷たいだけだよ」
「じゃあ、これならわかる」
陽流が身を屈める。
次の瞬間、灯の額へ陽流の額が重なった。
近すぎて、何が起きたのか理解するまで一拍遅れた。伏せられた陽流の睫毛も、呼吸に合わせてわずかに動く前髪も、目を逸らせないほど近くにある。教室のざわめきが遠のき、触れ合った場所から、自分のものとは違う熱が伝わってくる。
「……やっぱり熱あるよ」
先に離れた陽流が、何事もなかったような態度とは裏腹に耳だけは赤くなっていた。
「それ、手でもわかったんじゃない?」
灯が尋ねると、真帆は口元を隠しながら、陽流の赤い耳へちらりと目を向けた。
「手ではわからない熱もあるのかもしれないね」
「……熱があるのは本当だろ。灯、保健室行くぞ」
「次、数学だから休みたくない」
「灯の“大丈夫”と“休みたくない”は信用してないから」
「どうして?」
「小学2年のとき、熱あるのに遊びに来て、俺の部屋で倒れたじゃないか」
「そんな昔のこと覚えてないよ」
「俺は覚えてる」
陽流は灯の返事を待たず、椅子の背にかけてあった鞄を取った。立ち上がろうとした灯の身体が傾き、机へ手をつく。その肩を陽流が支えると、直人も反対側から腕を伸ばした。
「俺も保健室まで行くよ」
「大丈夫。俺が連れていくから」
「でも――」
「直人、先生が来たら灯の弁当しまっておいて」
頼む口調は穏やかだったが、譲るつもりがないことは伝わった。直人は一度だけ灯を見てから頷き、机の上へ残った弁当箱と水筒を自分の側へ引き寄せた。
「わかった。湊、星川のこと頼む」
「言われなくても」
陽流は灯の鞄を肩へかけ、自分の腕へ灯の手を添えた。直人が見ている前でその腕を掴むことに、今度の灯はためらわなかった。
*
保健室で測った体温は、38度を少し超えていた。
ベッドへ横になると、身体の重さが一気に押し寄せた。眠くないと言い張っていたはずなのに、保健室の白いカーテンが閉じられてから次に目を開けるまで、時間の感覚がほとんどなかった。
灯の母親へはすぐ連絡がついたものの、仕事を抜けて帰宅するまで1時間ほどかかるという。学校から家までは徒歩で帰れる距離であり、隣家に住む陽流が付き添うと申し出たため、母親と担任の了承を得て早退することになった。
校門を出ると、陽流は自分の鞄と灯の鞄を片方の肩へまとめてかけた。空いた手を灯の背中へ添え、歩調をいつもの半分ほどに落とす。
「ごめんね。陽流まで早退させちゃって」
「別に。午後は眠い授業ばっかりだから」
「でも出席が……」
「熱あるときまで真面目になるなよ」
住宅街へ入ると、陽流はいつものように車道側へ回った。今日はその位置にいることがうれしくて、灯は何も言わず、少しだけ近くを歩いた。
「どうしてわかったの?」
「何が?」
「具合悪いって。真帆も直人くんも、最初はわからなかったのに」
陽流は前を向いたまま、両肩へかけた鞄を持ち直した。
「何年一緒にいると思ってるんだよ」
「そんなに違った?」
「朝から静かだった。カフェオレも欲しがらないし、坂道で文句も言わなかった。灯が具合悪いとき、左のこめかみ触るのも昔からだよ」
「知らなかった」
「自分の癖なんだから、少しは知っておいたほうがいいんじゃないか」
陽流は少しだけ笑った。灯も笑い返そうとしたが、身体に力が入らず、足がもつれた。陽流はすぐ灯の肩を抱き寄せ、支えたまま立ち止まる。
「やっぱり、もっとゆっくり行こう」
「これ以上遅くしたら、日が暮れちゃうよ」
「大げさだな。家、もう見えてるじゃないか」
顔を上げると、並んだ2軒の屋根が見えた。いつもなら短く感じる距離を、陽流は一度も急かさず歩いてくれた。
*
灯が鍵を開けると、人気のない玄関に小さな電子音が響いた。靴を脱いだところで階段を見上げ、急に足が重くなる。手すりを掴んで上り始めたものの、3段目で立ち止まった。
「部屋まで送るよ」
「大丈夫。陽流は隣に帰っていいよ」
「その“大丈夫”は信用しないって言ったじゃないか」
陽流は灯の返事を待たず、2人ぶんの鞄を持ったまま先に階段を上った。仕方なくそのあとへ続き、自分の部屋の前まで来る。陽流は閉じた扉を見たまま、なぜか動かなかった。
「どうしたの?」
「部屋、ここだよな」
「知ってるでしょ。最後に入ったの、小学6年くらいじゃない?」
「そんな前か」
「陽流が勝手に引き出し開けるから、出入り禁止にしたんだよ」
「あれはゲームの充電器を探してただけじゃないか」
「私の靴下まで出した」
「もうしゃべるなよ。熱上がるから」
灯が扉を開けて中へ入っても、陽流だけが廊下に残っていた。机とベッド、本棚の位置は小学生の頃から変わっていない。それでも淡い色のカーテンや、机の上に並んだ小さな鏡と髪留めは、あの頃にはなかったものだった。ベッドの端には部屋着が畳まれ、窓辺には読みかけの本が伏せて置かれている。
「陽流、何してるの? 早く入って、扉閉めて」
「いや……入っていいのかと思って」
「ここまで来て何言ってるの?」
「灯、男子を簡単に部屋へ入れないほうがいいよ」
「陽流は男子じゃないでしょ」
陽流の表情が止まった。
「……そういう言い方、やめろよ」
「どういう言い方?」
「もういいから、先に寝ろ」
灯には何が気に障ったのかわからなかった。陽流は陽流で、ほかの男子とは違うという意味だったのに、本人は不機嫌そうに目を逸らしている。
ベッドへ腰を下ろし、制服のリボンを緩めようとする。けれど指先に力が入らず、結び目は余計に固くなった。見かねた陽流が手を伸ばしかけ、途中で止める。
「部屋着に着替えたほうがいいんじゃないか」
「その前に、これ外して」
「自分でできない?」
「できないから頼んでるの」
陽流はしばらく迷ったあと、灯の前へ立った。「少しじっとしてろよ」と言い、リボンの結び目へ指をかける。顔は学校で額を重ねたときより遠いはずなのに、陽流は呼吸まで慎重になっていた。
「陽流、手、震えてない?」
「熱ある奴に近づいてるからだよ」
「それ、理由になってない」
「いいから黙ってろ」
ようやく緩んだリボンを灯へ渡すと、陽流はすぐに背を向けた。灯が着替える間は廊下に出ると言い、用意ができたら呼ぶよう告げる。昔は同じ部屋で着替えても何とも思わなかったはずなのに、と灯は少し不思議に思った。
*
灯に呼ばれて部屋へ戻った陽流は、コップの水と濡らしたタオルを持っていた。灯は部屋着へ着替え、ベッドの中で肩まで布団をかぶっている。陽流は額へタオルを載せ、机の椅子を部屋の端から引き出して腰を下ろした。
「そこにいるの?」
「おばさんが帰ってくるまで」
「遠くない?」
「遠くないよ」
「話しにくい」
「寝るんだから話さなくてもいいだろ」
それでも灯がベッドの脇を指すので、陽流は仕方なく椅子を近くまで運んだ。キャスターの音が止まり、手を伸ばせば届きそうなところへ陽流が座る。灯はようやく目を閉じた。
「ねえ、陽流」
「今度は何?」
「私のこと、そんなにわかるの?」
「何年一緒にいると思ってるんだよ」
「それ、さっきも聞いた」
灯が薄く目を開けると、陽流は机の脇に飾られた写真を見ていた。小学生の灯と陽流が、泥だらけの顔を並べて笑っている。どちらが先に水たまりへ入ったのかで喧嘩になり、結局2人とも転んだ日の写真だった。
「灯のことなら、たぶん誰より知ってるから」
陽流は写真を見たまま言った。特別なことを告げたつもりはないような、静かな声だった。それでも言葉は熱より深いところへ沈み、灯の胸に残った。
「陽流がいてくれると、安心する」
目を閉じたまま呟く。返事は聞こえなかった。代わりに、額のタオルを直す陽流の指が、前髪へそっと触れた。
灯の呼吸がゆっくりと整っていく。眠ったことを確かめてから、陽流は椅子の背へ身体を預けた。
「そんなこと、簡単に言うなよ」
小さな声は、眠っている灯には届かなかった。
*
目を覚ますと、窓から入る光の色が変わっていた。
額のタオルはぬるくなり、身体の重さも少しだけ薄れている。ベッドのすぐ横では、陽流が腕を組んだまま椅子に座り、壁へ頭を預けて眠っていた。帰ったと思っていたのに、母親が戻るまで本当にここにいるつもりらしい。
眠っている横顔を、灯はしばらく見つめた。学校で灯から目を逸らしていた顔とも、保健室へ連れていったときの真剣な顔とも違う。長い睫毛の下に薄い影が落ち、普段より少し幼く見えた。
前髪が目元へかかっている。灯が布団から手を出し、そっと触れようとした瞬間、枕元に置いた携帯電話が震えた。
陽流の瞼が開く。
「起きた?」
「うん。少し楽になった」
灯は伸ばしかけていた手を引っ込め、携帯電話を取った。画面には直人からのメッセージが表示されている。
――具合どう? 無理するなよ。ノートは明日見せるから。
「直人?」
「うん。心配してくれたみたい」
「そっか」
陽流は立ち上がり、ベッドのすぐ横にあった椅子を机の前へ戻した。さっきまで手を伸ばせば届く場所にいたのに、キャスターの音とともに少しずつ遠ざかっていく。
「おばさん、もうすぐ帰るって。俺は隣にいるから、何かあったら連絡して」
「もう帰るの?」
「熱も少し下がったみたいだし、大丈夫そうだから」
大丈夫。その言葉を、今度の陽流は信用するらしい。鞄を持って扉へ向かう背中を見ながら、灯はなぜか引き止めたくなった。
「陽流」
呼ぶと、陽流が振り返る。
「今日は、ありがとうね」
「うん。ちゃんと寝てろよ」
扉が閉まり、部屋に静けさが戻った。直人は言葉にして心配してくれた。陽流は、灯が何も言う前に気づいてくれた。どちらもうれしかったはずなのに、胸の奥へいつまでも残っているのは、陽流の声だった。
――灯のことなら、たぶん誰より知ってるから。
額へ手を当てる。熱がまだ残っているせいか、そこには陽流の額が触れた感覚まで残っているような気がした。
「灯のことなら、たぶん誰より知ってるから」
それはまだ告白ではありません。それでも灯の胸には、熱より深いところへ残りました。
次話、直人が灯へ一歩近づく「それってデート?」へ続きます。




