隣の席
家ではずっと隣同士。
けれど学校で灯の隣に座るのは、今日から別の人です。
翌朝、灯が玄関を出たのは、約束した時刻よりきっかり2分あとだった。門柱にもたれていた陽流は、灯の顔を見てから携帯電話の画面へ目を落とす。
「2分」
「ちゃんと2分で出てきたでしょ?」
「遅れてることには変わりないだろ」
「でも待っててくれた」
「昨日、自分で待てって言ったんじゃないか」
陽流は携帯電話をポケットへしまい、先に歩きだした。灯はその背中を追いながら、謝るより先に笑ってしまう。
「なに笑ってんの?」
「陽流がちゃんと待ってたから」
「置いていけばよかった」
「でも置いていかないでしょ」
追いついて隣へ並ぶと、陽流は否定せず、わずかに歩幅を緩めた。昨夜までのよそよそしさを少しだけ引っ込め、灯に合わせたいつもの速さで歩いている。2人の間にある隙間はまだ完全には消えていなかったが、灯はもう追及しなかった。昨日より近ければ、それでいいような気がした。
その日の朝のホームルームで、担任が席替えをすると言い出した。教室に歓声と不満が同時に広がり、黒板の前には数字を書いた座席表と、人数ぶんのくじが入った菓子箱が置かれる。担任は出席番号順に引くよう指示したあと、どこへ座っても授業の内容は変わらないと付け加えたが、生徒たちにとっては黒板との距離より、誰の隣になるかのほうがずっと重要だった。
「灯、わたし窓際がいいな」
前の席から振り返った真帆に言われ、灯は校庭側の列を見た。開けた窓から風が入り、薄いカーテンが机の角を撫でている。夏は暑そうだが、授業中に空が見えるのは悪くない。「真帆の隣ならどこでもいいよ」と答えると、真帆は少し考え、「湊くんの隣じゃなくて?」と口元を緩めた。
「陽流は家が隣だから、学校まで隣じゃなくていいの」
「なるほど。余裕だね」
何が余裕なのかわからないまま順番が来た。
灯が箱の中から選んだ紙には、窓際の前から4番目を示す数字が書かれていた。
望んだとおりの場所に喜んでいると、少し遅れてくじを引いた直人が自分の紙と座席表を見比べ、灯の横で足を止めた。
「俺、ここ。よろしく、星川」
「本当に隣だ。よろしく、直人くん」
机を運んできた直人が、灯の右隣へ鞄を置く。その呼び方を聞いた周囲の男子が、いつの間に名前で呼ばれるようになったのかと直人をからかった。直人は照れながらも否定せず、机の脚を床へ下ろしたあと、灯にだけ聞こえる声で尋ねた。
「なぁ、俺も、灯って呼んでいい?」
「え?」
「だって俺だけ名字のままなの、なんか不公平だろ。嫌ならやめるけど」
断るほどの理由はなかったが、少し考え、灯が「いいよ」と頷くと、直人は一度だけ確かめるように「灯」と呼び、その響きに自分で照れたように笑った。
少し離れたところで、硬いものが折れる乾いた音がした。
陽流が手元のシャープペンシルを見下ろしている。芯を出しすぎたらしく、机の上に黒い欠片が落ちていた。灯と目が合うと、陽流は何でもないという顔でそれを指先から払い、新しい席へ机を運んでいった。
陽流が引いたのは、廊下側から2列目のいちばん後ろだった。灯の席からは机3つぶん離れている。昨日までの斜め後ろより遠くなったものの、少し首を動かせば見える距離だ。それなのに灯は、教室の端と端ほど離れてしまったように感じた。
「私は湊くんの近くだった」
くじを引き終えた真帆が、陽流のひとつ前の席へ鞄を運びながら囁いた。「何か面白いことがあったら教えるね」と楽しそうに続ける。何を報告するつもりなのか聞く前に担任が手を叩き、生徒たちは新しい席へ散っていった。
*
2時間目の英語で、直人は気づいた。
教科書を忘れてしまったことに。
鞄の中を探し、机の中を確かめ、それでも見つからずに眉を下げる。隣から見ていた灯が自分の教科書を2人の机の境目へ置くと、直人は声を潜めて礼を言い、机を少し寄せた。表紙の端が互いの腕に挟まれ、陽射しを受けたページの白さが目に眩しい。
教師が本文を読み上げるたび、灯は行を見失う直人のために指先を動かした。直人はそのあとを目で追い、ときどき小さく頷く。ペアになって英文を読むよう指示されると、直人が発音を間違え、灯は笑い声を抑えるために口元へ手を当てた。
「今の、そんなに変だった?」
「ちょっとだけ。最後のところ、全然違う単語になってたよ」
「灯が先に読むからだろ。速すぎてつられた」
「私のせいにしないでよ」
直人と目を合わせたまま笑い、灯は反射的に斜め後ろを振り返りかけた。いつもなら、こういうとき陽流も笑っている。けれど視線の先にいたのは、今日からそこへ座る別の男子だった。
一瞬遅れて、教室の後ろにいる陽流を探す。陽流は教科書へ目を落とし、隣の生徒と英文を読み合っていた。こちらを見てはいない。
「どうした?」
直人に尋ねられ、灯は教科書へ向き直った。「なんでもない」と答えたあとも、笑いかけた気持ちだけが行き先をなくして胸の中に残った。
*
陽流は、同じ行を3度読んでいた。
灯と直人が話す声は、教室のざわめきに紛れて内容まで聞き取れない。それでも顔を寄せ合って1冊の教科書を覗く姿は、見ようとしなくても視界に入った。直人が何かを間違え、灯が肩を揺らして笑う。灯はその直後に後ろを振り返り、誰かを探すように教室を見回した。
目が合いそうになった陽流は、反射的に教科書へ顔を戻した。
昨日から、同じことばかり繰り返している。灯を見てしまい、気づかれる前に逸らす。近づいてほしいのに、近づかれると逃げる。直人と話すなと言いたいのに、そんなことを言える立場ではない。自分の中に生まれた気持ちを認めたところで、それを灯へ伝える勇気まで急に手に入るわけではなかった。
やがてチャイムが鳴り、教師が教室を出ていく。灯は教科書を直人の机へ少し押しやったまま、黒板の内容をノートへ書き写していた。真帆が椅子ごと振り向き、陽流の机へ肘をつく。
「湊くん、授業中ずっと灯を見てたね」
「見てないよ」
「へー、じゃあ、倉田くんを見てた?」
「なんで俺が直人を見るんだよ」
「さあ。私もそれが不思議で不思議で」
真帆は笑っているが、目は陽流の反応を確かめていた。陽流が答えず筆箱を閉じると、真帆はそれ以上追わずに前を向く。その先で、直人が自分の携帯電話を灯へ差し出していた。
「今日の板書、あとで写真送ってもらってもいい? 途中から全然追いつけなくて」
「いいよ。じゃあ連絡先、交換しようか」
2台の画面が近づき、短い電子音が続けて鳴った。直人は表示された灯の名前を確かめ、うれしそうに携帯電話をしまう。
「湊くんも交換してもらったら?」
真帆が前を向いたまま言った。
「俺は灯の連絡先くらい知ってるから」
「へえ。さすが幼なじみ」
からかわれているだけのはずなのに、その言葉に少しだけ安堵した。直人が今日手に入れたものを、自分はずっと前から持っている。そう考えなければ、隣り合う2人を見ていられなかった。
*
放課後、直人は灯の机へ英語の問題集を広げた。教科書を忘れたせいで授業中の書き込みができず、宿題の範囲がわからなくなったらしい。ページを教えるだけのつもりだったが、直人は最初の問題から首を傾げ、灯は椅子へ座り直した。
「ここは、今日やった文をそのまま使えばいいんだよ」
「その今日やった文がわからないんだ」
「教科書を忘れるからでしょ」
「反省してる。明日は忘れないから、今日は助けて」
手を合わせて頼まれ、断ることもできなかった。窓の外では運動部が練習を始め、土を蹴る音と号令が風に乗って入ってくる。教室に残っている生徒は少なく、真帆は帰り支度を終えたまま、灯の前の席で漫画を読んでいた。
陽流はまだ後ろの席にいる。灯は何度かそちらを見たが、声をかけるタイミングを掴めないまま問題の説明を続けた。次のページを開いたとき、椅子を引く音がする。顔を上げると、陽流はすでに鞄を肩へかけていた。
「陽流、もう帰るの?」
「うん。用事あるから」
「少し待ってて。もうすぐ終わるから」
陽流は直人の問題集へ目を落とし、それから灯を見た。
「今日は先に帰る」とだけ言い、返事を待たずに教室を出ていく。追いかけようにも、直人がまだ鉛筆を持ったまま隣にいる。灯は開いた問題集と閉まった扉を交互に見た。
「悪い。俺のせいだよな」
「違うよ。陽流が勝手に帰っただけ」
答えた声には、自分で思ったより強く不満が滲んだ。真帆が漫画から目を上げたが、何も言わずにまたページへ視線を戻す。
机の中で携帯電話が短く震えた。画面には陽流から、たった4文字だけ届いている。
――先に帰る。
見ればわかっている。灯は返信欄を開きかけ、そのまま画面を伏せた。
*
宿題を終えた直人と灯が校門を出る頃には、運動部の声も遠くなり、校舎の影が歩道まで延びていた。真帆は途中まで帰る方向が同じだと言い、灯の隣に並ぶ。直人も少し先の交差点までは同じ道だった。
3人の会話は途切れなかった。英語の教師の口癖や、次の体育で何をするのかといった、明日になれば忘れてしまいそうな話ばかりを。
直人は無理に目立とうとはせず、真帆にからかわれれば素直に言い返し、灯が笑うと自分も笑った。一緒に帰ることが嫌だとは少しも思わない。
それでも灯は、歩道の左側に妙な広さを感じていた。
いつも陽流が歩く場所だった。灯が車道へ寄れば危ないと肩を押し、狭い道で自転車が来れば前へ出る。そんなことを意識したことはなかったのに、いなくなって初めて、陽流がどこを歩いていたのかまで思い出した。
後ろから車の音が近づき、直人が「こっち危ないから」と灯の外側へ移った。灯は思わず、その横顔を見上げる。
「陽流も、いつもそっち歩く」
口にしてから、今は直人と歩いているのだと気づいた。直人は一瞬だけ目を伏せたものの、不機嫌にはならず、「湊、そういうところはちゃんとしてるんだな」と笑った。
「小さい頃からだよ。私がよく飛び出すからって」
「今も飛び出しそうだもんな」
「そんなことないよ」
「さっき信号変わる前に渡ろうとしてたじゃん」
言い返しながらも、灯の視線はまた隣の空いた場所へ向かった。そこに陽流はいない。今日は自分から先に帰ったのだから当然なのに、置いていかれたような気持ちだけが消えなかった。
「灯って、ほんとに湊のことよく見てるよね」
真帆が前を向いたまま言う。
「隣にいたら、普通でしょ」
「倉田くんも今は隣にいるよ」
「席だけじゃん」
すぐに答えると、真帆は足を止めかけた。直人も灯を見たが、何も言わない。灯は2人の反応の意味がわからず、少し先の交差点にある信号へ目を向けた。
直人とはそこで別れた。「また明日、隣の席で」と手を上げる姿に、灯も笑って手を振る。真帆はさらに次の角で別れ際、何か言いたそうに灯を見たが、結局「明日は遅刻しないでね」とだけ残して帰っていった。
1人になった帰り道は、いつもより長く感じられた。
*
夕食と入浴を済ませて自分の部屋へ戻ると、机の上に置いた携帯電話が光っていた。直人から届いた、初めてのメッセージだった。
――今日は教科書も宿題もありがとう。明日もよろしく、隣の席。
丁寧すぎない文面が直人らしく思えて、灯は小さく笑った。
――こちらこそよろしく、直人くん。明日は教科書忘れないでね。
送信すると、すぐに謝る顔の絵文字が返ってくる。やり取りを閉じたあと、灯は陽流との画面を開いた。最後に届いた「先に帰る」の下には何もない。
カーテンの隙間から外を見ると、塀を挟んだ隣家の2階に明かりがついていた。陽流の部屋だ。幼い頃のように窓を開けて呼べるほど近くはないが、カーテン越しの光を見るだけで、そこにいることはわかる。
灯は画面へ戻り、文字を打った。
――明日はちゃんと待ってて。
少し強すぎる気がして消す。
――明日は遅れないから。
守れないかもしれない約束をするのも嫌で、それも消した。迷った末に送ったのは、昨夜と同じような一文だった。
――明日は2分だけ待っててね。
既読がつくまで、思ったより時間がかかった。陽流の部屋に明かりはあるのに、返事が来ない。灯は机へ向かい、教科書を開き、数行読んでは携帯電話へ目を戻した。
やがて短い振動が机に伝わる。
――最初から遅れる気満々?
謝りもせず、今日先に帰った理由にも触れない、いつもの陽流らしい返事。それなのに灯は、直人から優しいメッセージをもらったときよりも深く息をつき、肩の力が抜けていくのを感じた。
――じゃあ1分。
そう返すと、今度はすぐに届いた。
――時間どおりに来いよな。
灯は声を殺して笑い、携帯電話を胸元へ引き寄せた。窓の向こうでは、陽流の部屋の明かりがまだ灯っている。
直人は、今日から学校で隣の席になった。
陽流は、物心ついた頃から家の隣にいる。
どちらも同じ「隣」なのに、その言葉が意味する距離は、少しも同じではなかった。
新しく生まれた「隣」も、ずっとそこにあった「隣」も、これから少しずつ意味を変えていきます。
次話「言わなくても」へ続きます。




