昨日と今日は違う
昨日まで何でもなかったことが、今日はもう何でもなくない。
変わったのは灯ではなく、灯を見る陽流のほうでした。
翌朝、灯が玄関を出ると、陽流は門柱から少し離れたところで携帯電話を眺めていた。片手にはカフェオレの紙パック。日差しは隣家の屋根を越えたばかりで、湊家の庭に残った紫陽花の葉が夜露に光っている。いつもなら足音だけで顔を上げるのに、その日は灯が門を閉めるまで気づかないふりをしていた。
「おはよう、陽流」
呼ばれてようやく顔を上げた陽流は、一度だけ灯を見て、すぐ携帯電話をポケットへしまった。「今日は2分」と告げる声は普段どおりだった。「昨日より1分早かった」と続けられ、灯は肩にかけた鞄を揺らしながら「じゃあ褒めてくれてもいいよ」と隣へ並ぶ。朝になれば昨日の妙な態度も元に戻っていると思っていた。けれど、歩き始めた陽流は灯が近づいたぶんだけ車道側へ寄り、2人の間には半歩ほどの隙間が残った。
その横顔を盗み見るうち、制服の胸元でネクタイがわずかに曲がっていることに気づいた。「ネクタイ、曲がってるよ」と結び目へ手を伸ばすと、陽流は不意を突かれたように一歩退いた。灯の指先だけが、行き場をなくして宙に残る。
「なに?」
「いや、自分で直せるから」
そう言いながら動かした結び目は、先ほどよりも斜めになった。「できてないから言ってるんでしょ」と灯が近づくと、陽流は今度こそ逃げなかったものの、顔をわずかに背けた。昨日は灯の襟を勝手に直したくせに、自分が触れられるのは嫌らしい。灯が結び目を真ん中へ戻す数秒の間、陽流は息まで止めているようだった。
「はい、終わり。朝から変なの」
「……ありがと」
小さく礼を言って先へ行く背中を、灯は納得できないまま追いかけた。歩幅を合わせようとしても、陽流はまた少し離れる。昨日、直人と何を話していたのか。どうして帰り道で急に黙り込んだのか。眠る前まで気になっていた疑問が、ひと晩越しに輪郭を取り戻した。
角を曲がったところで、陽流の手にあるカフェオレが目に入った。灯は昨日と同じように手を差し出す。「それ、ひと口ちょうだい」と言えば、文句を言いながらも渡してくれるはずだった。ところが陽流は紙パックを持つ手を遠ざけ、今日は嫌だと即座に断った。
「昨日はくれたじゃん」
「今日は俺が全部飲みたい」
「ひと口でなくならないでしょ」
横から奪おうとすると腕を高く上げられ、灯の指は紙パックの底を掠めた。背伸びをしてその腕を掴めば、陽流の肩が目に見えて強張る。それでも灯が離さずにいると、陽流は困ったように見下ろし、やがて紙パックからストローだけを抜いた。
「これならやる」
「ストローがなかったら飲めないよ」
「学校でもらえばいいだろ」
「昨日は同じので飲んだのに」
陽流の指先で、細いストローがわずかに曲がった。昨日までなら灯が口をつけたあとも気にせず飲んでいたし、灯もそれを当然だと思っていた。たったひと晩で、何をそこまで嫌がるようになったのだろう。
「昨日と今日は違うから」
陽流はそれだけ言うとストローを差し戻したが、もう自分でも飲もうとせず、紙パックを鞄の脇へ押し込んだ。数歩先へ離れていく背中が、近づくなと言っているように見える。灯は道端に伸びた2人の影へ目を落とした。昨日まではほとんど重なっていたはずの影が、今朝は細い隙間を空けて並んでいた。
*
「喧嘩したの?」
教室へ入るなり、真帆に尋ねられた。背中までまっすぐ伸びた黒髪を下ろし、前髪の片側を小さなピンで留めた真帆は、前の席の背もたれへ両腕を重ねながら、灯のあとから入ってきた陽流へ目を向ける。陽流は灯を待たず、そのまま直人の席へ向かっていた。
「してないよ。陽流が勝手に先へ行っただけ」
「それを喧嘩したって言うんじゃないの?」
真帆に言われ、灯は鞄から教科書を出す手を止めた。喧嘩なら、原因があるはずだ。昨日の朝まではいつもと変わらず、教室でもくだらないことで言い合っていた。おかしくなったのは、昼休みに陽流が直人と話してからだ。飲み物もくれず、近づけば逃げ、こちらを見ているようで目が合う前には逸らしてしまう。それを伝えると、真帆は相槌も打たずに陽流を観察した。
直人と話していた陽流の視線が、ふと灯へ流れる。目が合う直前、陽流は探し物でもするように鞄へ顔を向けた。
「今、湊くんが灯のこと見てたよ」
「私、何か変かな」
「うん。そう受け取ると思った」
真帆は呆れたように頬杖をついた。灯が制服の襟や髪を確かめていると、「朝は湊くんに見てもらわなかったの?」と口元を緩める。灯が、昨日は襟まで直してくれたのに今日は何も言わなかったと答えると、その笑みはますます深くなった。
「ずいぶん親切な幼なじみだね」
「今日は全然親切じゃない」
「灯、それで朝から機嫌悪いんだ」
「悪くないよ。変だから気になってるだけ」
反論したところで担任が教室へ入り、真帆は含みのある笑顔のまま自分の席へ戻った。朝の会が始まってからも、灯は斜め後ろにある陽流の席が気になった。振り返る理由もないのに何度か視線を送り、そのたびに陽流は黒板を見ている。結局、一度も目は合わなかった。
*
陽流は黒板に並ぶ文字をほとんど読んでいなかった。視界の端で、灯の高く結んだ髪が動く。真帆と何を話したのかはわからない。ただ、灯が何度もこちらを見ていたことだけはわかっていた。
どうして昨日まで平気だったのだろう。灯がネクタイへ手を伸ばしたとき、反射的に逃げた。拒まれたと思ったのか、その顔が一瞬曇ったことが気になり、結局は触れさせた。灯の指が結び目を直す間、少し動けば頬が触れそうなほど近かった。伏せられた睫毛も、石鹸に似た匂いも、昨日までは意識したことすらなかった。
同じストローもそうだ。灯は陽流の飲み物を欲しがり、陽流も灯の持っている菓子を勝手に食べる。口をつけた場所など気にしたことはない。それなのに今朝は、灯が自分の使ったストローをくわえるところを想像しただけで渡せなくなった。
昨日と今日は違う。口に出してから、その言葉が自分自身を指しているように思えた。
「湊、次のページ」
隣から直人の小声が飛び、陽流はようやく自分だけ違うページを開いていることに気づいた。慌てて教科書をめくると、直人は前を向いたまま「珍しいな」と笑う。寝不足だと答えた声が不自然だったのか、直人は一度だけ陽流を見たが、それ以上は追及しなかった。
休み時間になると、その直人が席を立った。向かった先には灯と真帆がいる。昨日の放課後、昇降口で何か言いかけたことを謝る直人に、灯は気づいていなかったと笑った。ほんの短いやり取りなのに、陽流の指はシャープペンシルを意味もなく回し続けていた。
「それとさ。湊のことは陽流って呼ぶのに、俺は倉田くんなんだな」
「陽流は小さい頃からそう呼んでるだけだよ」
「じゃあ、俺も名前で呼んでよ。直人くん、なら変じゃないだろ?」
灯は一度口の中で確かめるように黙り、それから「直人くん?」と呼んだ。直人が照れくさそうに頷く。自分だけが灯を名前で呼び、灯が名前で呼ぶ男子も自分と兄くらいだった。それを特別だと思ったことなどない。けれど直人が同じ場所へ足を踏み入れた途端、ずっと自分のものだった何かを奪われたように感じた。
「陽流、次は移動教室でしょ。行かないの?」
灯に呼ばれて立ち上がると、直人と目が合った。昨日、灯を好きだと打ち明けたときと同じ、まっすぐな目だった。直人が灯と話すことを止める理由はなく、灯が誰をどう思うかも灯が決めることだ。それでも陽流は2人の間を通り抜けるとき、直人の肩へわざと自分の肩をぶつけた。
「痛いな」
「邪魔なところに立ってるからだろ」
「陽流、今日ほんとに感じ悪いよ」
灯の声が背中を追う。振り返れば、直人の隣にいる灯をまた見てしまう。陽流は教科書を抱え直し、そのまま教室を出た。
*
昼休み、灯は弁当箱の蓋を開けるなり、向かいに座った真帆から「陽流と直人くん、どっちが好き?」と尋ねられた。掴みかけたミートボールが箸から落ちる。どうしてその2人なのかと聞き返すと、真帆は、朝から陽流ばかり気にしている一方で、先ほどは直人と楽しそうに話していたからだと言った。
「陽流は幼なじみで、直人くんは友達になったばかりだよ」
「もう直人くんなんだ」
「そう呼んでって言われただけ。断るようなことでもないでしょ」
真帆はパンの袋を折り畳みながら、教室の反対側へ目を向けた。陽流と直人は隣り合って昼食を取っているものの、いつものようにふざけ合う様子はない。「幼なじみって便利だよね」と真帆が呟く。毎朝迎えに来てもらうのも、同じ飲み物を飲むのも、放課後に一緒に帰るのも、すべてその一言で説明できる。
「だって、本当に幼なじみだもん」
「灯は、ほかの男子にも同じことできる?」
「しないよ」
「じゃあ湊くんは特別じゃん」
「陽流は陽流だから」
考えるより先に答えていた。真帆は何かを言いかけ、結局、困ったような笑みを浮かべただけだった。
「うん。今はそれでいいんじゃない?」
どういう意味か尋ねても、真帆はもうパンを食べることに集中してしまった。「なんでもない」と話を終わらせる言い方まで陽流に似ていて、灯はますます納得できなかった。
*
放課後、灯が帰り支度を終える前に、陽流の席は空になっていた。いつもならどちらかの準備が終わるまで教室にいる。先に昇降口へ向かうとしても、一言くらいは声をかける。それなのに鞄までなくなっている。真帆から、陽流ならさっき帰ったと教えられ、灯は机の横から自分の鞄を引ったくった。
「真帆、ごめん。先に帰る」
「うん。追いつけるといいね」
「追いかけるんじゃないよ。帰る方向が同じなだけ」
「はいはい、幼なじみだからね」
からかう声を背中に受け、灯は廊下へ飛び出した。階段を駆け下り、昇降口で上履きを脱ぐ。校門を出たところで、制服姿の生徒たちの向こうに陽流の背中が見えた。呼んでも歩調は変わらない。一度だけ肩越しにこちらを見た気がして、灯は革靴の音を響かせながら走った。
「待って、陽流」
追いついて制服の袖を掴むと、陽流が驚いたように振り返った。呼んでも止まらなかったことを責めれば、聞こえなかったと平然と嘘をつく。灯は袖を掴んだまま、先に帰った理由を尋ねた。
「今日は別々に帰ればいいだろ」
「よくない」
「なんで?」
「私は陽流と帰りたいの」
陽流の目がわずかに見開かれた。自分が何かおかしなことを言ったような気がして、灯は「だって、ずっとそうしてきたでしょ?」と続けた。すると陽流の表情は、どういうわけか少しだけ沈んだ。
「……そういう意味か」
「ほかにどういう意味があるの?」
「別に。もう袖、離せよ」
「先に行かない?」
「行かないから」
約束させてから手を離す。灯の指の形に皺が寄った袖を伸ばしてやろうとしたが、朝のように避けられるのが嫌で、その手は鞄の持ち手へ戻した。
並んで歩きだしても、2人の間には今朝と同じ隙間が残った。塀の向こうから庭木を切る音が聞こえ、自転車に乗った同じ学校の生徒が追い越していく。いつもの帰り道なのに、陽流が黙っているだけで、見慣れた住宅街までよそよそしく感じられた。
「陽流、私に怒ってる?」
「怒ってない」
「じゃあ、どうして避けるの?」
朝はネクタイへ触れようとしたら逃げた。飲み物もくれなかった。学校では何度も目を逸らし、帰りには置いていこうとした。灯がひとつずつ並べると、陽流は困ったように前髪を掻き、「よく見てるな」と呟いた。
「陽流がわかりやすいんだよ」
「いつまでも、昨日までと全部同じじゃないだろ」
「どうして?」
「俺たちだって、いつまでも子どもじゃないんだから」
中学2年生になって、背も伸びた。制服も去年より少し窮屈になった。小学生の頃のように、毎日互いの家で遊ぶことはなくなった。それでも陽流は陽流で、自分たちの間にあるものまで変わるとは考えたことがなかった。
「陽流は、変えたいの?」
「そういう話じゃない」
「じゃあ、どういう話なの?」
「灯にはわからないよ」
昨日と同じように、また目の前へ境界線を引かれた。その向こう側に何があるのか教えてもくれない。俯きかけた灯は、陽流がおかしくなったのが昨日の昼休みからだったことを思い出した。
「それって、好きな人ができたから?」
「は?」
勢いよくこちらを向いた顔に、灯は自分の考えが当たった気がした。男同士で好きな子の話でもしていたのかと尋ねると、陽流はすぐ否定する。その答えより早く、次の疑問が口からこぼれた。
「じゃあ、陽流には好きな人いるの?」
陽流が黙った。ほんの数秒だったと思う。けれど普段の陽流なら、くだらない冗談か余計なお世話だという文句をすぐ返す。そのどちらも出てこなかった。
「……いない」
「今、考えた」
「考えてない」
「考えたよ。じゃあ、こっち見て言って」
陽流は前を向いたまま、もう一度「いない」と答えた。車など1台も通っていないのに、前を見て歩かなければ危ないと言い、少しだけ歩調を速める。灯は置いていかれないよう、その隣で同じ速さに足を合わせた。
好きな人はいないと言った。それなら、なぜ胸の奥が少し軽くなったのだろう。陽流に好きな人ができれば、一緒に登下校しなくなるかもしれない。今までと同じではいられなくなる。それが嫌だっただけだと灯は考えた。幼なじみなのだから、当然なのだと思った。
「陽流」
「今度は何?」
「明日も待っててね」
「時間どおりに出てきたらな」
「じゃあ、2分だけ待って」
「最初から遅れるつもりかよ」
ようやく陽流がこちらを見た。呆れたような、ほんの少し笑っているような顔に、灯は安心した。
陽流のことなら誰より知っているつもりだった。怒っているときも、機嫌がいいときも、何かを隠しているときも、隣で育った年月のぶんだけわかると思っていた。それなのに今日は、知らないことばかりだった。どうして触れようとすると逃げたのか。どうして直人の名前を出すと声が変わったのか。どうして好きな人はいないと言いながら、灯の目を見なかったのか。
住宅街へ入る角で、2人の家の屋根が並んで見えた。いつもの帰り道。いつもの景色。そして、いつも隣にいる陽流。
何ひとつ変わっていないはずなのに、その横顔がほんの少しだけ、灯の知らない男の子に見えた。
近づかれると逃げるのに、離れていくことにも耐えられない。
自分の気持ちを持て余す陽流と、その理由を知らない灯。次話「隣の席」へ続きます。




