幼なじみ
幼なじみの距離は、近すぎて恋が見えない。
そんな王道の少女漫画を目指して書いた物語です。
最後までお付き合いいただけましたら幸いです。
星川 灯が玄関の扉を開けると、湊 陽流は門柱にもたれ、空になった紙パックのストローを噛んでいた。
「おはよう、陽流」
「遅いよ。あと3分で置いていくところだった」
挨拶より先に文句を言われ、灯は肩にかけた鞄を持ち直した。夏服の襟が片方だけ内側へ折れていることには、まだ気づいていない。
「それ昨日も同じこと言ってた」
「だって昨日も3分遅かったからな」
「でも待っててくれたでしょ」
「そりゃ、おばさんに頼まれたから」
「ウソ、お母さんが頼まなくても待ってるくせに」
言い返してやると、陽流は紙パックを近くのごみ箱へ放り込んだ。外れれば笑ってやろうと思ったのに、空箱は縁にも触れず、すとんと中へ消えた。
この憎まれ口を叩く幼なじみは何をしても完璧にこなす。
「ほら、行くぞ。このままだと本当に遅刻するから」
「ちょっと待ってよ。まだ靴がちゃんと履けてない」
「家から出る前に履いてこいよな」
踵を踏んだままのスニーカーに指を入れている灯を置き、陽流は先に歩きだした。もっとも、その歩幅は灯が追いつけないほど大きくはない。門を出て数歩で隣家の前を通り過ぎる。その近さが、灯には物心ついた頃から当たり前だった。
湊家の庭には、陽流の母が育てている青い紫陽花がまだ少し残っていた。小学生の頃、雨で濡れたその花を2人で揺すり、軒下にいた陽流の兄へ水を浴びせたことがある。あのときは2人まとめて叱られたのに、言い出したのは灯だった事と、陽流はいまだに覚えている。
「ねぇ陽流、これ持って」
ようやく靴を履き直した灯は、追いつくなり鞄を押しつけた。
「なんでだよ」
「襟、変になってる」
片手では直しにくい。陽流は呆れた顔をしながらも鞄を受け取った。灯が襟を指で探っていると、横から手が伸びてくる。
「反対。こっち」
「わっ、近いよ」
「直せって言ったのは灯だろ」
「鞄を持ってって言ったの。襟は自分で直すつもりだった」
「じゃあ、返すよ」
「ちょっと!まだ直ってないから待って」
灯が慌てて止めると、陽流は面倒そうに息を吐いた。指先で折れた襟を外へ出し、軽く形を整える。その手つきに遠慮はなく、灯のほうにも触れられているという意識はなかった。
「できたよ」
「へへへ、ありがと」
鞄を返してもらい、灯は何事もなかったように歩きだした。
通学路の角には、白いシャツを着た生徒たちが次々と集まってくる。自転車のベルが鳴り、開店前のパン屋から甘い匂いが漂っていた。陽流は歩きながら新しい紙パックを鞄の脇から取り出した。今度はカフェオレだった。
「ねぇそれ、ひと口ちょうだい」
「えー、やだよ」
「さっきの飲み物は1人で全部飲んだでしょ」
「だからなんだよ」
「朝から2本は飲みすぎだと思う」
「灯に管理されたくないなまったく。ほら」
断りながらも、陽流はストローを差して灯へ差し出した。灯は礼も言わずにひと口飲み、すぐに顔をしかめた。
「なにこれ、甘っ!」
「勝手に飲んで文句を言うな」
「陽流、昔は牛乳も飲めなかったのに」
「いつの話してるんだよ」
「幼稚園のとき」
「昔すぎるだろ。それに今の話と関係ない」
返されたストローを陽流は気にする様子もなく口にくわえた。その横を同じ学校の女子2人が通り過ぎ、少し先でこちらを振り返った。何かを囁き合って笑っている。
「ねぇ、今の子たち、陽流のこと見てたよ」
「そうかな、灯の襟がまだ変なんじゃないか」
「えー、うそ⁈」
慌てて襟元へ手をやった灯を見て、陽流が笑う。
「ははは、ちゃんと直したって。そんなに気になるなら鏡くらい見てこいよ」
「だって、陽流が直したから大丈夫だと思ったの」
言い合いながら校門をくぐると、それは灯にとって、それは昨日までと少しも変わらない朝だった。
*
「星川、おはよう」
教室へ入ったところで声をかけられ、灯は足を止めた。窓際の後ろから2番目の席で、倉田直人が片手を上げている。陽流とよく一緒にいる男子だが、灯が直人と話すのは、陽流を間に挟んでいるときがほとんどだった。
「おはよう、倉田くん」
「朝から仲いいな、お二人さん。校門のところからずっと言い合ってただろ」
「陽流が意地悪ばっかり言うから」
「はあ?どっちがだよ」
後ろから入ってきた陽流が、灯の頭を鞄で軽く押した。
「ちょっと、髪が崩れる」
「どうせすぐ崩れるだろ」
「崩れないし。朝ちゃんと結んできたもん」
灯は鞄を自分の席に置き、両手で髪を確かめた。高い位置で結んだ毛先が、肩越しに揺れる。その向こうで、直人が笑っていた。
「湊って、星川には容赦ないよな」
「倉田、こいつに遠慮してたら疲れるぞ」
「ちょっとそれ、私の台詞だから」
灯が振り返ると、陽流は直人の前の席を借り、背もたれを抱えるように逆向きに座った。2人は昨夜見たテレビ番組の話を始める。灯にはよくわからない内容だったので、机の中へ教科書を移しながら聞き流した。
「あ、星川」
もう一度名前を呼ばれ、顔を上げる。直人が自分のシャツの襟を指でつまんでいた。
「また反対、折れてる」
「え、本当?」
「さっき直したのにな」
陽流が笑う。灯は今度こそ自分で襟を直し、直人に向かって小さく頭を下げた。
「倉田くん、ありがと」
「どういたしまして」
直人はそう答えたあと、なぜか少し遅れて視線を窓の外へ向けた。
やがて予鈴が鳴り、陽流が自分の席へ戻る。灯も椅子を引きながら、今日は朝から恥ずかしいところばかり見られていると思った。
直人の耳が少し赤くなっていたことには、気づかなかった。
*
昼休みになると、陽流は直人に呼ばれて教室を出ていった。
珍しい、と灯は思う。
普段なら2人とも教室で弁当を食べるか、購買へ向かう。今日は直人が陽流の肩を押すようにして連れ出し、行き先を尋ねられても「ちょっとな」としか答えなかった。
「なんだろ、内緒話かな」
向かいの席で弁当箱を開いた小坂真帆が、楽しそうに廊下を見る。
「男同士の?」
「そう。灯にも言えないような話」
「私、陽流の話を全部知ってるわけじゃないよ」
「でも幼なじみなんでしょ? 家も隣で、毎朝一緒に来てるし」
「んー、ただ家が近いだけ」
そう答えながら、灯は大好きな卵焼きを口に運ぶ。
陽流とは、何か約束をして一緒に登校しているわけではない。小学生の頃からそうしてきたため、中学生になっても変わらなかっただけだ。休みの日に家を訪ねることもあるし、陽流の兄を交えてゲームをすることもある。互いの母親に頼まれて、夕食のおかずを届けることもある。
幼なじみと言えば聞こえはいいが、灯にとってはそれ以上でも、それ以下でもなかった。
「灯は、湊くんみたいな人が近くにいたら、彼氏いらないよね」
「なんで?」
「なんでって……」
尋ね返すと、相手は困ったように笑った。
「湊くん、結構人気あるよ」
「知ってる。小学生のときもバレンタインにチョコもらってた」
「気にならないの?」
「私も分けてもらったし」
「そういう意味じゃなくて」
何が違うのかわからず首を傾げる。ちょうどそのとき、廊下を歩く陽流の姿が見えた。少し遅れて直人も教室へ戻ってくる。
灯は箸を持ったまま陽流を目で追った。いつもと変わらない顔に見えたが、席に着いた陽流は窓の外を向き、直人とは目を合わせなかった。
「喧嘩でもしたのかな」
「誰と?」
「ううん。なんでもない」
灯は弁当へ視線を戻した。気にはなったものの、あとで本人に聞けばいい。陽流が自分に隠し事などできるはずがないと、そのときは思っていた。
*
「なあ、星川って、付き合ってる奴いる?」
その少し前。北校舎へ続く渡り廊下で、直人は唐突にそう尋ねてきた。
「灯に?」
陽流は持ってきた焼きそばパンの袋を開けながら、直人を見る。
「いないんじゃないか」
「じゃあ、好きな奴は?」
「いや、知らない。本人に聞けば?」
「それができたら、お前に聞いてないって」
直人は落ち着かない様子で窓の桟に手を置いた。校庭では、ボールを追う生徒たちが声を上げている。開け放たれた窓から入る風に、直人の前髪が揺れた。
いつもの軽口でも、誰かから頼まれた話でもないらしい。ようやく察した陽流は、パンをひと口かじった。
「もしかして倉田、灯のこと好きなの?」
「何?……悪いかよ」
「いや、別に」
意外ではあったが、それ以上の感想はすぐに浮かばなかった。
「それって、いつから?」
「先月くらいかな。ほら、体育祭の係、一緒だっただろ。俺が資料なくしたとき、探すの手伝ってくれてさ」
「あー。あいつ、そういうの放っておけないからな」
「うん。見つかったあとも、俺がなくしたって先生には言わないでいてくれてさ」
「どうせ自分も一緒に探してて遅れた、とか言ったんだろ」
「なんでわかるんだよ」
「たぶん灯ならそう言うから」
陽流は何気なく答えた。直人が一瞬黙り、それから小さく笑った。
「やっぱ、お前はよく知ってるな」
「そりゃ何年一緒にいると思ってるんだよ」
幼稚園へ入るより前からだ。灯が転んだ場所も、食べられない野菜も、怖がるくせに見たがる映画も知っている。灯の家族より詳しいとは思わないが、学校にいる誰よりは知っているだろう。
それを特別なことだと考えたことはなかった。
「で、俺にどうしろって?」
「協力してほしい、とまでは言わない。でも、星川の好きなものとか、行きたがってるところとか、そのくらい教えてくれたら助かる」
「そんなの自分で聞けよ」
「だから、話すきっかけが欲しいんだって」
直人は真剣だった。陽流はその顔がおかしくなり、肩をすくめた。
「まあ、灯でいいなら勝手にすれば?」
その瞬間、直人の表情から照れが消えた。
「おい、その言い方、やめろよ」
「何が?」
「俺は星川でいいんじゃなくて、星川がいいんだから」
陽流は何も言えなかった。
直人が怒った理由はわかる。好きな相手を軽く扱われれば、誰だっていい気はしない。だから自分が悪かったのだと思う。灯を馬鹿にしたつもりなどなかった。ただ、あまりに近くにいるせいで、直人があらためて選んだことのほうが不思議だった。
星川がいい。
教室へ戻ってからも、その言葉だけが耳の奥に残った。
*
放課後、灯は昇降口で陽流を待っていた。
部活動へ向かう生徒たちの間で、壁に背を預けながら靴のつま先を眺める。先に帰ると伝えたわけでも、一緒に帰ろうと約束したわけでもない。それでも陽流は来るはずだった。
「星川、誰か待ってるの?」
顔を上げると、直人が靴を履き替えていた。
「陽流。日直の仕事が残ってるんだって」
「そっか」
「倉田くんは、部活?」
「今日は休み。これから帰るところ」
「そっか、じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
直人は何か言いかけたように口を開いたが、結局そのまま背を向けた。昇降口を出ていく背中を見送り、灯は昼休みのことを思い出す。
陽流と何を話していたのだろう。
訊けば教えてくれると思っていた。しかし、ようやく現れた陽流は、灯の顔を見るなり眉を寄せた。
「まだいたのか」
「なによそれ。せっかく待っててあげたのに」
「先に帰ればよかっただろ」
「陽流こそ、待たせてごめんくらい言えないの?」
「頼んでないからな」
いつもと同じ憎まれ口のはずなのに、どこか調子が違う。灯は陽流の横顔を覗き込んだ。
「機嫌悪い?」
「ぜんぜん普通」
「直人くんと喧嘩でもしたの?」
陽流が足を止める。
「直人くん?」
「あー倉田くん。さっき話したから、つられて名前で呼んじゃった」
「ふうん」
「何よ、その顔」
「別に。いつの間に仲良くなったのかと思っただけ」
「仲良くなったっていうほど話してないよ。陽流を待ってるのかって聞かれただけ」
「じゃあ、待ってないって言えばよかっただろ」
「どうして嘘つかなきゃいけないの?」
答えず、陽流は靴を履き替えた。灯もあとを追って外へ出る。西日を受けた校庭は白く眩しく、運動部のかけ声が校舎の壁に反響していた。
並んで歩きだしても、陽流は口数が少なかった。
「ねえ、昼休みは何を話してたの?」
「くだらないこと」
「私には言えないこと?」
「灯には関係ないよ」
それは、陽流が灯に初めて引いた境界線だった。
灯は少しだけ腹が立った。自分だって陽流のすべてを知っているわけではない。それでも、はっきり関係ないと言われると、急に遠くへ押し出されたように感じる。
「そっか。じゃあ、もう聞かない」
陽流より半歩前に出て歩く。黙ってしまうと、自分たちの足音のほかに、町の雑音ばかりが大きく聞こえた。
気まずいまま最初の交差点を曲がり、灯はふと思いついて振り返った。
「でも倉田くんって、いい人そうだよね」
「いい人そうって、ほとんど話したことないだろ」
「今日ちょっと話したし、前から陽流といるところは見てるもん」
「俺といると、いい人なのかよ」
「陽流と友達でいられるなら、我慢強い人ではあるでしょ」
「灯、お前なー」
ようやくいつもの声が返ってきて、灯は笑った。
「それに、倉田くんって少し格好いいよね。話しやすそうだし」
今度は、陽流から返事がなかった。
灯はそのまま数歩進んだ。背後から聞こえていたはずの足音が途切れている。立ち止まって振り向くと、陽流は夕日の中に立ったまま、こちらを見ていた。
「陽流、なんか怒ってる?」
*
灯が、誰かを好きになる?
考えたことがなかった。
いつかそんな日が来るのだとしても、それはずっと先のことだと思っていたし、少なくとも今日ではなく、明日でもなく、来週でもない。灯はこれからも朝になれば隣の家から出てきて、自分を待たせたことにも悪びれず笑う。帰りには隣を歩き、ときどき勝手に飲み物を奪う。
その隣にいるのが自分でなくなることなど、想像する必要すらなかった。
けれど直人は、灯を好きだと言った。
灯も直人を格好いいと言った。
いつか灯が、直人の隣で今と同じように笑う。直人の飲み物を勝手に飲み、曲がった襟を直してもらい、放課後になれば昇降口で待つ。
胸の奥が強く縮んだ。
灯が変わったわけではない。昨日までと同じ顔で、昨日までと同じように自分を見ている。風に揺れる髪も、眩しそうに細めた目も、何度だって見てきたはずだった。
それなのに、陽流は初めて目を逸らせなくなった。
「陽流、どうしたの?」
灯が首を傾げる。その何気ない仕草にまで心臓が跳ね、陽流は戸惑った。
こいつは、こんな顔をしていただろうか。
今日まで知らなかったわけではない。知らなかったはずがない。それでも、知っていると思っていた灯が、急に見知らぬ女の子のように見えた。
直人の言葉が、また胸の中で繰り返される。
星川がいい。
その言葉の意味を、今になって陽流は知った。
大勢の中から誰かを選ぶこと。ほかの誰でもなく、その人に隣にいてほしいと望むこと。
陽流にはまだ、胸の中に生まれたものの名前がわからなかった。ただ、灯が誰かを選ぶ未来を思うだけで息苦しくなる。そして灯の隣にいるのが、これからも自分であってほしいと願っていた。
「陽流?」
もう一度、灯が呼ぶ。
「……なんでもない」
それだけ答えるのが精いっぱいだった。
*
灯は陽流の前まで引き返し、その顔を下から覗き込んだ。
「なんでもない顔じゃないよ」
「本当になんでもないって」
「もしかして暑くて気持ち悪い? 顔、赤いけど」
「夕日のせいだろ」
「夕日で顔は赤くならないでしょ」
「見た目の話だよ。ほら、帰るぞ」
追い越していく陽流の耳まで赤く見えた。灯は少し不思議に思いながら、その背中を追いかける。
「待ってよ。急に歩くの速くしないで」
「遅い灯が悪い」
「朝も今も、ちゃんと待ってくれるくせに」
陽流は答えなかった。
心の中で「そうだよ」としか言えない。
住宅街へ延びる2人の影は、夕日の中で並んだり離れたりしながら、同じ場所へ帰っていく。
灯にとっては、いつもと変わらない帰り道だった。
陽流が少しだけ先を歩いたことも、振り返る回数がいつもより多かったことも、灯は深く考えなかった。
その日から自分を見る陽流の目が変わったことにも、まだ気づかないまま。
ここから始まるのは、灯にとってはいつもと変わらない毎日と、陽流にとっては昨日までと同じではいられなくなった毎日です。
次話「昨日と今日は違う」へ続きます。




