たまたまじゃない
幼い頃から何度も一緒に歩いた夏祭り。
けれど今夜、2人は初めて、それを「デート」と呼びます。
参道へ入ると、両側から屋台の明かりと匂いが押し寄せてきた。
焼けた醤油、甘い綿あめ、鉄板の上で焦げる肉。頭上には赤と白の提灯が何列も張られ、その向こうにある夜空を細長く区切っている。祭囃子は境内の奥から聞こえていたが、人の話し声や店先で鳴る呼び込みに混ざり、近づいたり遠ざかったりした。
屋台の鉄板から上がる熱と、人の身体が運ぶ湿った空気が参道にこもっていた。歩くたび下駄の歯が舗装された道を硬く打ち、普段の靴より少し高いところから、子どもの頭や揺れる団扇が見える。淡い黄色の浴衣の袖には提灯の色が薄く映り、灯が腕を動かすたび、朝顔の模様の上を赤い光が滑った。
灯は陽流の袖を掴んだまま、人の流れに合わせて歩いた。
浴衣の布は薄く、指先でつまむたびに陽流の腕の動きが伝わる。陽流は何度か袖へ視線を落としたが、離せとは言わなかった。むしろ歩く速さを少し緩め、灯が下駄でも無理なくついてこられるよう、人の隙間を選んで進んでいる。
正面から家族連れが来れば、陽流が先に肩を引いて道を譲る。そのたび灯も袖に導かれ、同じ方向へ身体を寄せた。掌を握っているわけではないのに、離れる心配はなかった。陽流がどちらへ進むのかは、掴んだ布のわずかな張りだけでわかった。
「灯、どこか見たいところある?」
「えーっとね、全部!」
「いや、全部は無理だろ」
「じゃあ、端から順番に見ようよ」
「花火までに半分も行けないよ」
「そう?急げば行けるかも」
「走ったら髪が崩れるんじゃなかった?」
真帆に言われたことを知っているような指摘に、灯は足を止めかけた。
「どうして知ってるの?」
「その髪で走っていいとは思えないからだよ」
「うん、真帆にも絶対走るなって言われた」
「ほら、やっぱり」
「でも、最後の1個とか言われたら走るかもしれない」
「何が何でも最後まで走るなよ」
陽流は呆れながらも、灯が掴みやすいようにしているのか、腕を身体から少し離したまま歩いた。
灯の歩幅が小さくなると、陽流も何も言わず同じだけ遅くなる。人波の中では見失わないよう何度も振り返るくせに、目が合うとすぐ屋台の看板へ視線を戻した。その横顔が家を出た時より少しだけ固く見え、灯は陽流も今夜の続きを意識しているのだと気づいた。
人の流れが広くなったところで、灯はようやく袖から指を離した。掴んでいた部分へ細い皺が残り、陽流が反対の手で軽く伸ばす。それを見て、灯は少しだけ申し訳なくなった。
「皺になった?」
「これくらい戻るよ」
「遼介くんのなのに」
「兄貴が着てた時のほうが、もっと雑だったから大丈夫」
陽流が袖を振ると、皺は暗い布の中へ紛れた。
最初の角には、焼きそばとたこ焼きの屋台が並んでいた。灯は両方の看板を見比べ、さらに奥から漂ってきた焼きとうもろこしの匂いへ顔を向ける。
焼きそばの鉄板では、店主が2本のへらを忙しく動かしていた。麺が持ち上がるたび白い湯気が立ち、隣のたこ焼き器では丸い生地が細い串の先で次々に裏返されている。どちらへ顔を向けても別の匂いがして、灯の視線だけが屋台の間を何度も往復した。
「何から食べる?」
「まだ来たばかりだろ」
「来たばかりだから聞いてるの」
「さっき家で何か食べなかった?」
「浴衣が苦しくなるから少しだけにしなさいって、お母さんに言われた」
「それ、祭りでも少しだけにしろって意味じゃないの?」
「違うよ。お祭りで食べるために、家では少しにしたの」
灯があまりに迷いのない表情で答えたので、陽流は何も言えなくなる。
反論を探すように灯の帯へ一度目をやり、結局、諦めてたこ焼きの列へ並ぶ。灯はその半歩後ろへつき、財布を出そうと巾着の口を開いた。片手では紐がうまくほどけず、陽流が列の進み具合を見ながら袋の端を押さえる。2人で同じ巾着を覗き込む形になり、灯の髪飾りから垂れた小さな花びらが陽流の肩へ触れた。
結局、2人は最初にたこ焼きを1舟と、瓶のラムネを2本買うことにして店の横に置かれた長椅子は埋まっていたため、少し離れた石垣の低い場所へ腰を下ろす。
石垣は昼の熱をわずかに残していた。灯は帯を潰さないよう身体を浅く預け、陽流はその隣で膝を少し開いて座る。目の前を通る人の足元だけが途切れず流れ、時折、子どもの持つ光る玩具が暗がりへ青や緑の線を引いた。
灯は巾着を膝へ置き、たこ焼きの舟を陽流との間に載せた。湯気の下で鰹節が揺れ、濃い色のソースが提灯の明かりを受けて光っている。
「半分ずつね」
「8個あるから4個ずつ」
「陽流、ちゃんと数えててよ。私、どっちが何個食べたかわからなくなるから」
「自分で数えなよ」
「一緒に食べるんだから、陽流が数えても同じでしょ」
灯は爪楊枝を1本取り、端のたこ焼きへ刺した。持ち上げた途端に形が崩れ、熱い中身が舟の上へ落ちそうになる。陽流が下から紙皿を寄せ、どうにか受け止めた。
舟を持つ陽流の手と、爪楊枝を握る灯の手が狭い紙皿の上で重なりそうになった。崩れた生地から白い湯気が上がり、ソースの匂いが急に濃くなる。灯は落とさなかったことに安心していたが、陽流は地面までの距離を確かめるように一度足元を見た。
「危ない」
「まだ落としてないよ、セーフ」
「今、ほとんど落ちてたけど」
「陽流が受けたから大丈夫でしょ」
「最初から俺が受けることになってるみたいになってない?」
文句を言いながらも、陽流は崩れたたこ焼きを自分の爪楊枝で半分に分けた。湯気が強く上がり、灯が口へ運ぼうとすると、手首を軽く押し戻される。
「まだ熱いよ」
「少し冷めてるはず」
「そんなわけあるか、中は熱いから」
「なんだか陽流、私のお母さんみたい」
「毎年、熱いって言いながら食べるからだろ」
陽流の中には、去年も、その前の年も、同じようにたこ焼きへ息を吹きかける灯が残っているらしい。灯には自分がどの年に何を食べたかまでは思い出せなかったが、隣で陽流に止められたことだけは、どの記憶にも共通していた。
灯は言われたとおり、息を何度も吹きかけてから口へ入れた。それでも少し熱く、頬を膨らませて冷ます。陽流は予想していたようにラムネを差し出した。
瓶の口にはまだ栓がされたままだった。
「開いてない」
「言うと思ったよ」
陽流は自分のラムネを石垣へ置き、灯の瓶を受け取った。蓋の上へ押し玉を載せ、掌で強く押す。栓が落ちる音と同時に泡が上がり、透明な瓶の内側で細かな気泡が弾けた。
「こぼれる」
「すぐ飲めば大丈夫」
戻された瓶へ口をつける。冷たい炭酸が熱の残る舌を冷まし、灯はようやく息をついた。
「やっぱり熱かった」
「だろうね」
「でもおいしい」
「それも知ってるよ」
陽流は自分のラムネを開け、灯の隣で喉を潤す。
瓶の中の硝子玉が口元で転がり、互い違いに硬い音を立てる。灯が瓶を傾けすぎると玉が飲み口を塞ぎ、陽流は指で窪みを持てばいいと教えた。わかっていると答えながら、灯は次にも同じ失敗をした。陽流はもう注意せず、笑いを隠すように自分の瓶へ口をつけた。
何かを伝えると約束した少年と、答えを持って待っている少女。そのことを除けば、2人の間にあるのは昔から何度も繰り返したやり取りだった。灯が先に手を出し、陽流が危ないと言い、それでも止めきれない時には受け止める。
灯は2個目のたこ焼きを慎重に取った。陽流が数えているのを確かめるように顔を見ると、目が合う。
「今ので2個目」
「ちゃんと数えてくれてるね」
「そうしろって言ったのは灯の方だろ?」
「陽流も今2個だから、一緒だ」
「半分ずつなんだから一緒になるよ」
当たり前のことを確かめるだけで、なぜかうれしかった。
最後の2個を1つずつ食べ、空になった舟と瓶を屋台の回収箱へ返した。立ち上がる時、灯は帯が石垣へ当たらないよう両手をつく場所を探した。陽流が先に立ち、何も言わず片手を差し出す。
提灯の光が、開いた掌の中心まで照らしていた。教室でシャープペンシルを持つ時や、窓越しの合図に懐中電灯を向ける時には意識しなかった手が、今は灯の前で答えを待っているように見えた。
灯はその手を見た。
直人と付き合っていた時には、何度も同じように手を差し出してもらった。けれど陽流の手は、転びそうになった幼い頃から知っている。指の長さも、掌の中にある線も、いつの間にか記憶より大きくなっていた。
手を重ねかけたところで、陽流がわずかに引こうとする。
「立つだけだよ」
「わかってる」
「じゃあ、引っ込めないで」
灯は先にその手を掴み、石垣から立ち上がった。
陽流が引く力は強くなかった。それでも下駄の底が地面へ着くまで、掌を離さずに支えてくれる。灯が立つと、どちらからともなく指がほどけた。
離れた直後、夜の空気が触れていた場所へ入り込んだ。灯は巾着を持ち直すふりをして自分の指を重ね、陽流は浴衣の裾を整える必要もないのに一度足元へ目を落とした。
それはほんの数秒の出来事。
それでも陽流は、自分の掌を確かめるように一度だけ指を握った。
*
境内へ近づくと、屋台の種類が増えた。
金魚すくいの水槽には提灯の赤が揺れ、水風船を浮かべた桶では青や黄色の丸い影が互いにぶつかっている。型抜きの前には小学生が集まり、割れた菓子を悔しそうに見つめていた。
水の張られた桶の周りだけ、参道の熱気がわずかに薄かった。紙のこよりから落ちる雫が水面へ小さな輪を作り、子どもが釣り上げた水風船が弾むたび、鈴のような音が鳴る。灯はしゃがみ込みかけ、帯を思い出して膝を曲げる途中で止まった。
灯は水風船の中に、青地へ白い星が散ったものを見つけた。
「ねぇ見て!あれ、私の筆箱みたい」
「灯が選びそうだな」
「今はちゃんと青ってわかるんだ」
陽流が足を止める。
昼休みに好きな色を尋ねた時、陽流は小学生の頃に好きだった黄色と答えた。灯自身も忘れかけていたことを覚えていたのに、今の色は知らなかった。
「あのあと覚えたから」
陽流は青い水風船ではなく、灯の横顔を見て答えた。好きな色を外した日の悔しさを、まだ覚えている顔だった。
「じゃあ好きな季節は?」
「春。寒くなくなって外へ出たくなるから」
「好きな動物」
「兎。ペンギンは保留」
「もう保留じゃないよ。ペンギンも好き」
「変わったの?」
「水族館で見たら好きになった」
陽流は少し悔しそうな顔になった。
「それは聞いてないかな」
「今、教えたから覚えてね」
「分かった。覚えるよ」
陽流はもう以前のように、ずっと知っていたはずなのにと悔しがるだけではなかった。
知らなかったものは灯に聞き、変わったものは今から覚える。
そのための時間が、これからもあるように答えた。
物心ついた頃から隣にいても、灯は変わり続ける。
好きな色も、動物も、これから先にはもっと増えていく。
陽流の返事は、それを見落としたくないという約束のようでもあった。
灯は青い水風船より、その言葉のほうを持って帰りたいと強く思う。
水風船を取るか迷ったものの、花火を見る時に邪魔になるという陽流の意見に従い、帰りにまだ残っていたら挑戦することにした。
その隣には、射的の屋台があった。
木の台の上へ菓子の箱や小さな玩具が段差をつけて並び、奥の高い棚には大きなぬいぐるみが置かれている。手前には青い兎の飾りと、黄色いプリンの形をした小さなキーホルダーがある。
屋台の天井から裸電球が下がり、景品の包装へ白い光を落としている。誰かが引き金を引くたび、乾いた音が木の枠へ跳ね返った。火薬の匂いはしない。代わりにコルクと古い木の匂いが、隣の屋台から流れてくる甘い蜜の香りへ混ざっていた。
灯が足を止めると、陽流も看板を見上げた。
「今年もやるの?」
「去年は台が傾いてたからな」
「一昨年は銃が曲がってたって言ってたよ」
「ちゃんとした店なら取れるはず」
「そう言って毎年、陽流だけ何も取れないよね」
「今年は取るよ」
陽流は店の人へ代金を払い、コルクの弾を3つ受け取った。
浴衣の袖が邪魔にならないよう肘の上まで少し捲り、木製の銃を持ち上げる。普段は教科書や鞄を持つ腕に細く力が入り、灯は景品より先に、その横顔を見ていた。
最初に狙ったのは、手前にある青い兎だった。台へ肘をつき、片目を閉じて狙いを定める。灯は隣から銃口の先を覗こうとして、危ないから下がっていろと言われた。
「もっと右じゃない?」
「動くとずれるから話しかけるなよ」
「でも今、左に向いてる」
「静かにして」
乾いた音が鳴り、コルクは兎の耳へ当たった。飾りは一度大きく揺れたものの、台から落ちずに元の位置へ戻る。
「あー、惜しい」
「今のは当たりだろ」
「落ちなかったらだめでしょ?」
陽流は2つ目の弾を込めた。
「あの兎、欲しいの?」
「別にそういうわけじゃないけど」
「じゃあ、何で狙ったの?」
「灯、兎が好きだろ?」
陽流は銃を構えたまま答えた。隠すつもりも、言ったあとに誤魔化す様子もない。
灯は何も言えず、青い兎と陽流の横顔を交互に見た。
欲しいと言った覚えはない。ただ、灯が好きだからという理由だけで、陽流は3発しかないうちの最初からそれを狙っていた。胸の中へ温かいものが広がり、同時に、もっと上手な返事をしなければならない気がして口が動かなくなる。その沈黙のせいで陽流が集中できなくなったことには、灯は気づかなかった。
2発目は、兎の横を通り過ぎた。
「今の、全然違うところに飛んだよ」
「灯が話しかけるからだろ」
「陽流が急にあんなこと言うからでしょ」
「聞いたのは灯だよ」
残りは1発だった。
陽流はもう一度、青い兎へ銃口を向ける。灯が今度こそ黙って見ていると、コルクは胴体の真ん中へ当たった。兎は後ろへ傾き、棚の縁で一瞬止まったあと、前へ戻ってくる。
「今年も取れなかったね」
「もしかしてこの台、後ろへ倒れないようにできてるだろ」
「去年は傾いてて、今年は倒れないようにできてるの?」
「うん、絶対そうだよ」
陽流が店の仕掛けを確かめようと身を乗り出し、店の人から笑いながら離れるよう言われた。
周りで見ていた小学生までつられて笑い、陽流は何も悪くないという顔で銃を台へ戻した。灯は肩を揺らしながら、その袖を引いて店の正面から少し退かせた。取れなかったことより、今年も同じ言い訳を増やしたことのほうが、来年まで覚えていられそうだった。
灯は代わりに3発ぶんの代金を出した。
「灯もやるの?」
「陽流が取れなかったから、私が代わりに取る」
「兎なら、もっと下を狙ったほうがいいよ」
「ううん、私はあっち」
灯が銃口を向けたのは、黄色いプリンのキーホルダーだった。
丸い容器の上に焦げ茶色のカラメルが載り、小さな顔まで描かれている。陽流の好みとは少し違いそうだったが、灯の中で「プリン」と「陽流」が初めて結びついた日のことを思い出すには十分だった。
「プリンが好きでも、それが欲しいとは言ってないけど」
「私だって兎の飾りが欲しいとは言ってないよ」
「じゃあ、取らなくていいよ」
「だめ。陽流にあげるから」
灯は陽流がしていたように片目を閉じた。銃の先が思っていたより重く、狙った場所へ止まらない。少し下がったと思えば、今度は右へずれる。
銃床を肩へ当てる位置もわからず、浴衣の袖だけが肘の下へ溜まっていく。陽流が横から直そうと手を伸ばし、灯の肩へ触れる直前で止めた。代わりに自分の腕で構え方を示すが、灯は景品と陽流を交互に見るため、余計に銃口を揺らした。
「動きすぎ」
「陽流が話しかけるから」
「さっき俺にはずっと話してただろ」
「自分でやると難しいんだもん」
1発目は、プリンの手前にある菓子箱へ当たった。箱は小さく動いただけで落ちない。2発目は棚に届かず、台の奥へ消えた。
最後の1発を撃つ前に、灯は一度銃を下ろした。
「陽流、代わる?」
「それじゃ灯が取ったことにならないだろ」
「2人で取ったことにはなるよ」
「自分で狙ってみなよ。もう少し左」
陽流が隣へ立ち、銃の先を指で示した。灯は言われた方向へ少しだけ動かし、息を止めて引き金を引く。
コルクはプリンの上部へ当たった。黄色い飾りが左右へ揺れ、灯は落ちるのを待ったが、やがて何事もなかったように静止した。
揺れが小さくなる間、灯は引き金へ指を置いたまま息を止めていた。完全に止まったところで肩の力を抜き、銃を台へ戻す。隣では陽流が、自分の時より惜しかったと言いたそうに景品を見ていた。
「取れなかったね」
「初めてならそんなもんだよ」
「陽流は何年やってるの?」
「何年だっていい、もう射的はやめよう」
結局、何も取れないまま屋台を離れる2人。
手元に残ったのは、参加した人へ店の人がくれた小さな飴が2つだけだった。青い包みを灯が取り、黄色い包みを陽流へと渡す。
透明な籠の中には赤や緑も混ざっていたが、店の人が偶然その2色を選んだ。掌へ載せればどちらも景品よりずっと軽く、包装紙の端が夜風にかすかに震えた。
「色は当たったね」
「黄色は昔の灯だろ」
「じゃあ、交換する?」
「別にこれでいいよ」
陽流は黄色い飴を浴衣の袖へ入れた。灯も青い飴を巾着の内側へしまう。
欲しかったものは取れなかった。それでも悔しさより、同じように外したことがおかしくて、2人は屋台から離れてもしばらく笑っていた。
陽流が兎を取れず、灯がプリンを取れなかったことを、互いにからかい合いながら歩く。提灯の列は先ほどと同じなのに、射的の屋台から遠ざかるたび、2人の周りだけ人の声が少し軽くなったように感じられた。何かを贈ることには失敗しても、相手のために狙ったことは、もう互いに知っている。
*
境内の奥にある舞台では、子どもたちの太鼓が始まっていた。
人垣の後ろから少しだけ眺め、参道を折り返すと、来た時より人は増え、提灯の明かりの下で浴衣の色が幾重にも行き交っている。灯はまた陽流の袖を掴もうとして、途中で手を止めた。
太鼓の振動が背中から遠ざかっても、胸の奥には低い響きが残っていた。人が横切るたび、灯と陽流の距離は狭くなったり広くなったりする。少し離れれば陽流は必ず足を緩め、灯が追いつくまで次の屋台へは進まなかった。
先ほど立ち上がる時に触れた掌の感覚が残っている。袖なら何も考えずに掴めたのに、一度手を重ねたあとでは、指先をどこへ置けばいいのかわからなくなった。
陽流も灯の手に気づいたが、何も言わなかった。
代わりに人とぶつからない位置へ移り、肩が触れそうな距離で歩く。離れてはいない。それでも触れてもいない。その間に、まだ口にしていない2人ぶんの言葉があるようだった。
灯の手は巾着の紐を握り、陽流の手は浴衣の脇で何度か開いては閉じた。どちらも相手へ伸びることはない。手をつながなくても隣にはいられることを、2人は誰より知っていた。だからこそ、その先へ進むには、今夜伝えると決めた言葉が必要だった。
綿あめの屋台を過ぎたところで、灯は立ち止まった。
「ねー、陽流」
「どうした?今度は何が食べたいの?」
「もう!食べ物じゃないよ」
灯は自分の浴衣の袖を持ち上げた。
「これ、去年も着てたの覚えてる?」
「もちろん覚えてるよ」
「本当に?」
「去年は帯が白だった。髪はいつもみたいに上で結んでた」
その言葉はまさに母が言ったとおりだった。
去年の白い帯は箪笥の中にあり、今夜ここにいるのは深い青色の帯を締めた灯だった。陽流は見比べる写真もないまま、その違いを言い当てている。毎年同じ場所を歩いていたからではなく、その隣にいる灯を見ていたから覚えているのだと、答えを聞く前から胸の奥でわかり始めていた。
灯は白い髪飾りへ触れないよう気をつけながら、編み込まれた髪の横へ手を添えた。去年、自分がどんな姿で陽流の隣を歩いていたか、灯自身は鏡の中の輪郭しか覚えていない。それを陽流は、帯の色まで見ていた。
「去年のお祭りで着てた服を覚えてたのも、たまたま?」
陽流はすぐに答えなかった。
以前なら、たまたま見ていたから、毎年一緒に来ているからと、何でもない理由へ逃げたかもしれない。灯もそれ以上は考えず、陽流はよく覚えていると笑って終わらせていた。
けれど今夜の陽流は、灯の目を見たまま答えた。
「たまたまじゃない。灯のことだからちゃんと覚えてた」
提灯が風に揺れ、陽流の頬へ落ちていた赤い光が動いた。
周囲では人が絶えず行き交っていた。背後の屋台から呼び込みが聞こえ、子どもの持つ笛が高い音を立てる。それでも陽流の言葉だけが、雑踏から切り離されたようにはっきり残った。毎日そばにいたから目へ入ったのではない。灯だったから見て、灯だったから覚えていた。
灯は胸元へ浴衣の袖を重ねた。うれしいと言えば、陽流はまた普通に言うなと困るかもしれない。それでも、言わずに隠しておく理由はもうなかった。
「うれしい」
陽流は困った顔をしなかった。
「うん、よかった」
まるで何かを受け取るように頷いた。
以前の陽流なら、言った自分のほうが耐えられなくなり、別の屋台へ話を逸らしていたかもしれない。今は灯が喜んだことから逃げず、その表情を正面から見ている。灯も、うれしさを隠すために笑ったり、冗談へ変えたりしなかった。
灯は陽流の隣へ並び直した。今度は袖ではなく、肩が少し触れるところまで近づく。歩きだしても陽流は離れず、2人の浴衣の布が時々擦れた。
「陽流、あのさ」
「何?」
「これって、デート?」
陽流は歩いたまま、灯を見た。
肩が触れていたため、振り向く動きまで近くに伝わった。灯は自分から尋ねたのに、陽流の答えを待つ間だけ前を向く。提灯の下を通るたび、足元へ2人の影が重なっては離れた。
「何で今聞くんだよ」
「前にも、似たようなことを聞いた気がしたから」
最初に直人と休日に出かけることになった時、灯は同じことを陽流へ尋ねた。あの時は何を着ればいいかもわからず、陽流に服を選んでもらった。
今日は真帆に髪を結ってもらい、自分で選んだ答えを持って、陽流の隣を歩いている。
「陽流は、どういうつもりで誘ったの?」
灯が尋ねると、陽流は前を向いた。参道の先には神社の鳥居があり、その向こうを花火の見物客が川のほうへ歩いている。
「俺は‥‥デートのつもりで誘ったよ」
声は祭囃子に消されない大きさだった。
陽流は照れ隠しの言葉を足さなかった。久しぶりに2人で祭りへ行くだけだとも、幼なじみなら普通だとも言わない。灯が聞いた意味をそのまま受け取り、自分が望んだ名前をつけた。
灯は一度、足元を見た。下駄の鼻緒と浴衣の裾が交互に前へ出ている。歩く速さは変わっていないのに、胸の中だけが先へ進みそうになった。
「そっか」
「嫌だった?」
「嫌なら浴衣を着ないよ」
「去年も浴衣だっただろ」
「去年よりちゃんと着たの。真帆に髪までお願いしたんだから」
陽流が結い上げられた髪を見る。
「じゃあ、今日のため?」
「陽流とデートするため」
灯は今度こそ、思っていることをそのまま言った。
口にした瞬間、胸の内側へ溜めていた息まで一緒に出ていった。橋の上で泣いた夜には、自分の身体が知っていることへ心が追いつくまで時間がかかった。今はもう、言葉にしたものと胸の中にあるものが同じ方向を向いている。
陽流はしばらく何も返さなかった。けれど歩幅がわずかに乱れ、灯の下駄へ踵を踏まれそうになる。
「危ない」
「陽流が急に遅くなるからでしょ」
「灯のせいだよ」
「私、何もしてないよ」
「したから言ってるんだろ」
灯には、どうして陽流が急に歩きにくくなったのかよくわからなかった。それでも、その横顔を見ているだけで、自分の言葉が届いたことはわかった。
陽流は歩調を立て直そうと前だけを見ているが、袖の下で指先が落ち着かず動いていた。灯はそこへ手を伸ばさず、代わりに肩が離れない速さで隣を歩く。答えを全部渡すのは、陽流が約束を果たしてからでよかった。
鳥居を抜けたところで、花火の開始時刻を知らせる場内放送があと20分と告げる。
「そろそろ行こう」
陽流は川のほうを指した。
「どこで見るの?」
「覚えてない?昔、よく見てた場所。ここより少し遠いけど、土手の上なら見える」
「まだ空いてるかな」
「わからない。でも、行ってみよう」
2人は屋台の列を離れ、花火を見る人々と一緒に川へ向かった。
出口近くのりんご飴の屋台では、赤い飴が透明な袋の中へ並んでいた。丸い表面へ提灯の光が映り、灯は歩きながら一度だけ振り返る。今買えば巾着と一緒に持たなければならず、花火が終わってから戻ればいいと思って、そのまま陽流の隣を進んだ。陽流も灯の視線を追ったが、何も言わなかった。
祭囃子は少しずつ遠くなり、代わりに草を踏む音と、河川敷へ集まった人々の声が近づく。橋の向こうにはまだ明るさの残る空が広がり、その下を川が黒く流れていた。
参道の舗装が途切れると、下駄の歯が土へ浅く沈んだ。灯は裾を踏まないよう足元を見て歩き、陽流は前から来る人を避けるたび身体の向きを変える。屋台の明かりは背後へ遠ざかり、代わりに河原へ並べられた誘導灯が、草の上へ小さな白い円を作っていた。
土手へ上がる階段は混んでいた。陽流が先に1段上がり、灯へ手を差し出す。今度は立ち上がるための数秒ではない。人の列が続く階段を、はぐれずに上るための手だった。
灯は差し出された掌を見てから、陽流の顔を見た。
「掴まって」
「上まで?」
「上まで。嫌なら袖でもいいけど」
陽流が冗談のように言う。
灯は差し出された掌へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れれば、陽流はきっと握ってくれる。けれど今はまだ、陽流の言葉を聞いていない。灯も自分の答えを渡していない。その手を当たり前のように選ぶのは、もう少しだけ後にしたかった。
差し出された手を拒みたいのではない。むしろ、だからこそ今は袖がいい。
次に掌へ触れる時には、転ばないためでも、階段を上るためでもない理由で握りたかった。
「今は、こっち」
灯は陽流の掌ではなく、手首に近い浴衣の袖を掴んだ。
陽流の手は一瞬だけ宙に残り、やがて袖の下でゆっくり下りた。何も尋ねず、灯が掴んでいる側の腕を少し後ろへ引き、人の流れに押されないよう1段ずつ階段を上っていく。
上の段へ進むたび、灯の指へ浴衣の布が引かれた。陽流は振り返らなくても、灯がどの段にいるかをその重さで確かめている。灯もまた、袖の先にある体温を感じながら、下駄を滑らせないよう足を運んだ。
土手へ着いて足元が平らになると、灯は袖から指を離した。
「こっちだよ」
昔、家族と来た時に座った場所より少し下流へ進む。草の斜面にはすでに何組もの人が腰を下ろしていたが、2人で並べる隙間が残っていた。
敷物を持ってきていなかったため、陽流が手で草を払い、湿っていない場所を確かめた。灯が先に座れるだけの幅を空け、自分は斜面の低い側へ腰を下ろす。浴衣の裾が崩れないよう灯が時間をかけても、急かさず川の向こうを見て待っていた。
灯は浴衣の裾を整え、陽流の隣へ座った。
川の向こうにある夜空は、提灯に区切られていない。薄く残っていた夕方の色も消え、何も描かれていない大きな黒が広がっている。
周囲の照明が少しずつ落とされた。
河原に散っていた人々の輪郭が暗がりへ沈み、遠くの橋を渡る車の灯りだけがゆっくり動いた。灯の浴衣も色を失い、朝顔の模様は白と黒の濃淡へ変わる。その隣で、陽流の紺の袖は夜の中へ溶けかけていた。
話し声が静まり、川面を渡る風が灯の前髪を揺らす。陽流は隣にいる。肩が触れそうな距離で、伝えると約束した言葉を持ったまま、同じ空を見上げていた。
遠くで、最初の花火が打ち上がる音がした。
光の筋が夜空を昇り、2人の視線の先で大きく開いた。
白い花の形が川面へ映り、遅れて届いた大きな音が、足元の草と灯の胸を同時に震わせた。一瞬だけ夜より明るくなった陽流の横顔は、空ではなく灯を見ていた。
「たまたまじゃない。灯のことだから覚えてた」
陽流はもう、幼なじみだから、毎年見ていたからとは誤魔化しません。
灯もまた、陽流とデートするために浴衣を着たのだと、隠さず伝えました。
それでも灯が階段で選んだのは、差し出された手ではなく袖でした。次にその手を取る時には、はぐれないためでも、転ばないためでもない理由で握りたいから。
最初の花火が開きます。
空ではなく灯を見つめる陽流の横顔を照らしながら。
次話、最終話「君だけに降る星」へ続きます。




