鏡の中の答え
夏祭りの日。
真帆が灯の髪を結い、鏡の前で最後にひとつだけ問いかけます。
陽流から夏祭りへ誘われてからの6日間、灯は「伝えたいこと」が何なのか、一度も尋ねなかった。
気にならなかったわけではない。朝起きて最初に携帯電話を見た時も、夜、隣の窓に明かりがついた時も、陽流から届いた文章を何度も読み返した。宿題の進み具合や夕立の話をしている途中で、あの日の言葉を画面の下から探しに戻ったこともある。
何を伝えられるのか、想像すれば思い当たる答えはあった。ただ、自分がそうであってほしいと思っているだけかもしれない。違っていた時のことを考えると、確かめる指は止まった。
陽流も、そのことには触れなかった。
祭り当日の午後になっても、2人の間にあるのは、陽流が迎えに来る時刻を知らせた短い約束だけ。
――6時に迎えに行く。
灯はその文章へ、わかった、と返す。続けて何か書こうとしたが、結局、青い花火の絵を1つ送っただけで画面を閉じた。
階下では、灯の母が和室の箪笥から浴衣を出していた。白に近い淡い黄色の地に、紺と薄紫の朝顔が重なっている。去年も着たものだったが、裾と袖にはまだ余裕があり、今年も直さずに着られるらしい。
「お母さん、これ去年と同じだよね」
「そうよ。去年は帯を白にしたから、今年は青にしましょうか」
「陽流、覚えてるかな」
何気なく口にしたつもりだった。けれど母は帯を広げる手を止め、灯の顔を見てから少しだけ笑った。
「陽流くんなら覚えてるんじゃない?」
「どうして?」
「小さい頃から、灯が忘れたものまで覚えてくれてるでしょう」
灯は返事をせず、畳の上へ広げられた浴衣を見た。朝顔の輪郭へ指を沿わせると、去年の祭りより、もっと昔の夜が断片的に浮かんだ。赤いりんご飴、金魚の袋、陽流の手。どれも同じ夏の記憶なのに、どの年のことだったかはもう曖昧になっている。
それでも、隣にはいつも陽流がいた。
*
母に浴衣を着せてもらったあと、灯は鏡台の前へ座った。
帯は深い青色で、背中に小さな花の形を作っている。慣れない布が胸元から腰まで身体を包み、背筋を曲げるとすぐ母から注意された。歩き方もいつもより狭くしなければならない。自分の部屋なのに、立って鏡の前まで移動するだけで別の場所へ出かけるような緊張があった。
約束の時刻まで1時間半ある。早すぎる支度を笑われそうだと思ったが、今日は灯1人で髪を結うのではなかった。
呼び鈴が鳴り、少しして真帆が部屋へ入ってきた。薄い生成り色のブラウスに紺のロングスカートを合わせ、背中まである黒髪はいつものように真っ直ぐ下ろしている。片手には櫛や細いゴム、髪留めを入れた小さな袋を持っていた。
「もう着たんだ。間に合わないかと思って、少し早く来たのに」
「お母さんが、髪を結ってから着ると崩すって言うから」
「灯なら崩しそうだね。座って、後ろを向いて」
「今から座ってたところだよ」
鏡台の椅子へ座り直すと、真帆は灯の後ろへ立った。高い位置でひとつに結ぶことの多い髪をほどき、肩から背中へ真っ直ぐ下ろす。櫛の歯が頭頂部から毛先へ何度か通り、そのたび黒い髪の表面へ細い光が流れた。
真帆は髪を少しずつ分け、長さと量を確かめている。灯は鏡越しにその手元を追おうとしたが、後ろで動く指まではよく見えなかった。
「何にするの?」
「両側を編んで、後ろでまとめる。浴衣の襟が見えるように、残りも上げるね」
「難しそう」
「だから私が来たんでしょ」
真帆の指に一切の迷いはなかった。耳の上から細く取った髪を3つに分け、外側を順番に重ねていく。引かれるたびに頭がわずかに傾き、灯が鏡の中の編み目を見ようと身体を動かすと、すぐ肩を戻された。
「灯の髪って思ってたより結いやすい」
「思ってたより?」
「量が多いから、もっと絡むかと思ってた。でも真っ直ぐだし、毛先まできれい」
真帆は編み込んだ髪を指先で整えながら、光の当たる向きを確かめた。
「黒いのに重く見えない。ちゃんと手入れしてるんだね」
「朝、陽流を待たせてる時間の半分は髪をとかしてるから」
「残りの半分は?」
「どの靴下にするか迷ってる」
「それなら、もう少し早く起きたら?」
「2、3分なら陽流は待ってくれるもん」
灯が当然のように答えると、真帆は鏡の中で一度だけ目を細めた。何かを言いかけたように見えたが、そのまま反対側の髪を手に取る。
櫛と指が髪を行き来する間、灯は黙っていることができなかった。屋台では最初に何を食べるか、去年の金魚は何日生きたか、陽流が今年も射的で取れない景品を狙うのか。思いついたことを次々に話し、真帆は必要なところだけ返事をした。
「真帆のほうが、浴衣似合いそう」
「今は灯の話をしてるの」
「だって真帆、髪もきれいだし」
「動かないで。編み目がずれるから」
鏡越しに見ると、真帆の顔が困った顔をしている。
灯は、図書館の窓際で初めて髪を褒めた時にも、真帆が同じように困った顔をしたことを思い出した。きれいなものをきれいだと言っただけなのに、真帆はこういう時に限って素直に受け取ってくれない。
「真帆も照れることあるんだね」
「もう片方、きつく編むよ」
「痛いのはやだ」
「だったら黙って前を向いて」
灯は笑いながら口を閉じた。
左右の編み目が後頭部で合わさり、長い髪が少しずつ持ち上げられていく。真帆は細いピンを何本も差し込み、最後に母が用意していた白い小花の髪飾りを、編み目の間へ留めた。
「できた」
真帆が手を離す。
鏡の中には、朝から何度も見た自分とは違う灯がいた。長い髪は襟足が見える位置で柔らかくまとめられ、両側の編み目が白い花へ繋がっている。普段より首元がよく見えるためか、淡い浴衣の色まで少し大人びて見えた。
「これ、私?」
「鏡なんだから灯でしょ」
「真帆、すごい。お店の人みたい」
「近くで見たらピンも見えるよ。走ったら崩れるから、今日は絶対に走らないで」
「走らないよ。浴衣だもん」
「去年も同じことを言って、屋台へ走ってた誰だっけ?」
「あれは焼きとうもろこしが最後の1本だったから」
「理由があれば今年も走るってことでしょ」
真帆は呆れたように言ったが、鏡に映る髪をもう一度確かめ、飛び出している毛を指先で丁寧に収めた。満足したのか、灯の両肩へ手を置く。
鏡の中で2人の目が合った。
「灯、本当に好きなのは誰?」
それまでと同じ声だった。答えを急かす強さも、間違いを責める響きもない。ただ、鏡の中にいる灯が、自分の顔を見たまま答えられるように尋ねている。
灯は浴衣の膝へ置いた両手を見た。直人と手をつないで歩いた時の温かさを、今でも覚えている。楽しかった時間も、橋の上で泣いたことも、なかったことにはしたくなかった。
顔を上げ、もう一度鏡を見る。
「陽流だよ」
声にすると、胸の奥に残っていた迷いが、答えの外側へ静かに退いた。
「直人くんのことも、ちゃんと好きだったよ」
「うん」
「付き合ったことも、別れたことも、間違いだったとは思ってない」
「うん」
「でも今、会いたいのは陽流。好きだって言ってほしいのも、陽流からなの」
真帆は肩へ置いた手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「それなら大丈夫」
「大丈夫って何が?」
「灯が、もう自分の答えを知ってるから」
鏡の中で、真帆が小さく笑った。
「あとは、聞かれた時に本人へ言ってあげて」
「聞かれるかな」
「それは湊くんが決めること。私は知らない」
「真帆、陽流にも何か言った?」
「少しだけ」
「何て?」
「さぁね、それも本人に聞いて」
真帆は灯の肩から手を離し、使った櫛やピンを袋へ戻し始めた。髪を整えるために来て、必要なことを尋ね終えたら、もう自分の役目は済んだという顔をしている。
「真帆は一緒に行かないの?」
「あとで家族と行くよ。灯は湊くんと2人で行くんでしょ」
「うん」
「だから、私はここまで」
真帆は袋の口を閉じ、鏡越しではなく灯の正面へ回った。髪飾りの位置を最後に確かめると、浴衣の肩へ触れないよう、両手で灯の頬を軽く挟む。
「行ってらっしゃい、灯」
「まだ陽流、来てないよ」
「来たら言えなくなるでしょ」
「どうして?」
「灯はそういうところだけ、全然わからないね」
真帆は手を離し、灯が尋ね返す前に部屋を出ていった。
*
約束の10分前、灯は鞄の中身を3度確かめた。
小さな巾着には、財布とハンカチ、携帯電話が入っている。母から、履き慣れない下駄で走らないこと、帰りが遅くなるなら連絡することを念を押され、どちらにも返事をした。
5時57分、携帯電話が震えた。
――着いたよ。
灯は返事をする前に窓へ向かった。
隣家との間にある塀の向こうではなく、自宅の門柱の横に陽流が立っている。濃い紺色の浴衣に灰色の帯を締め、片手には携帯電話を持っていた。見慣れた横顔なのに、制服や普段のシャツとは肩の線が違って見える。幼い頃、同じ場所で祭りへ行くのを待っていた男の子より、背も、腕も、いつの間にかずっと大きくなっていた。
灯がカーテンの隙間から見ていると、陽流が顔を上げた。
目が合った気がして、反射的に窓の横へ隠れる。
すぐに、隠れる必要などなかったと思い直した。もう一度覗くと、陽流はまだこちらを見ており、今度は携帯電話を持っていないほうの手を小さく上げた。
灯も手を振り返した。
時計は6時。
部屋を出ようとしたところで、鏡の中の自分が目に入り、足が止まる。髪飾りへ触れないよう指先だけを近づけ、帯の形が崩れていないことを横から確かめた。真帆が作ってくれた髪も、母が結んでくれた帯も、陽流にどう見えるのかが急に不安になる。
直人との待ち合わせには、10分以上早く着いたことがある。今日は陽流がすでに門の前で待っているとわかっているのに、最後の1歩がなかなか出なかった。
それでも、置いていかれるとは少しも思わない。
陽流なら待っていてくれる。その確信へほんの少しだけ甘え、灯はもう一度鏡へ向かって息を整えた。
階段を下り、玄関で下駄を履く。時刻は6時3分になっていた。
扉を開けると、陽流は門柱へ背を預けていた。灯の姿を見て身体を起こし、携帯電話で時刻を確かめる。
「遅い」
「3分だけだよ」
「3分遅い」
「ちゃんと来たんだからいいでしょ」
いつもと同じ言葉を返しながら、灯は陽流の前まで歩いた。
陽流は次の文句を言わなかった。
というより言えなかった。
目の前の幼なじみの姿に思わず見惚れてしまったから。
灯の顔から浴衣へ、浴衣から結い上げた髪へ、ゆっくり視線を動かしている。目を逸らすことも、見ていなかったふりをすることもなく、真帆が作った編み目と白い髪飾りまで確かめてから、もう一度灯の顔を見た。
「似合ってるね」
「どっちが?」
「どっちって?」
「浴衣と髪。髪は真帆がやってくれたの」
「両方だよ。すごく似合ってる」
灯はその答えを待っていたはずなのに、すぐには返事ができなかった。浴衣の袖口を指で整え、広がりそうになる笑みを隠そうとしたが、陽流には見えていた。
「何で笑うんだよ」
「うれしいから」
「そういうの、普通に言わなくていい」
「陽流が褒めたんでしょ」
「そうだけど」
陽流は困ったように息を吐いた。以前なら、そのまま視線を逸らして話を終わらせていたはずだった。今日はもう一度、灯の姿を見てから口を開く。
「本当に似合ってる」
2度目は、灯も笑わずに受け取った。
「ありがとう。陽流も似合ってるよ」
「俺のは兄貴のお下がり」
「遼介くんの?」
「少し大きかったから、母さんに直してもらった」
言われてみれば、濃い紺色は遼介が好みそうだった。けれど今の陽流が着ても肩は余らず、袖の長さも合っている。灯は記憶の中にいる小さな浴衣姿と見比べるように、目の前の陽流を見上げた。
「何?」
「なんだか陽流、大きくなったなと思って」
「なんでだよ。毎日見てただろ」
「毎日見てるから、気づかなかったの」
門の外へ出ると陽流も隣へ並び、灯は歩き始める前に一度だけ息を吸ったのがわかり、6日前から胸に残っている言葉を思い出した。
「ねえ、陽流」
「何?」
「伝えたいことって、何?」
陽流の足が止まった。
玄関を出たばかりで、まだ祭りの音も聞こえない。ここで答えを聞くこともできた。それでも陽流は、逃げるためではなく、言う場所を確かめるように祭りの方角を見た。
「今日、ちゃんと言う」
「今じゃないの?」
「うん、今じゃない」
「ずっと気にしたまま屋台を回ることになるんだけど」
「俺だって、誘ってからずっと気にしてたんだよ」
灯は6日間、何度もあの文章を読み返した。陽流も同じだけ、自分が送った言葉を意識していたのだと思うと、待たされることが少しだけ嫌ではなくなった。
「じゃあ、おあいこだね」
「何が?」
「陽流が言うまで教えない」
「どういうこと?」
「私も、伝えたいことがあるの」
今度は陽流が黙る番。
灯は先に歩きだした。慣れない下駄では普段と同じ歩幅にならず、すぐ陽流に追いつかれる。隣へ並んだ陽流は何かを聞きたそうにしていたが、先ほど自分が今は言わないと決めた手前、灯の答えだけを求めることはできなかった。
住宅街を抜けるにつれ、祭りへ向かう人が増えていった。遠くから太鼓の音が届き、家々の間から赤い提灯の列が見える。浴衣姿の家族や、同じ学校の生徒らしい集団が前を歩き、狭い歩道は少しずつ人で埋まっていった。
交差点を渡る時、陽流が何も言わず車道側へ移った。灯はそれに気づいても場所を譲らず、歩幅だけを合わせる。昔から何度も歩いた道なのに、今日は隣にいることを互いに確かめながら進んでいるようだった。
神社へ続く参道の入口では、人の流れが急に狭くなった。前を歩いていた家族の間を子どもが駆け抜け、灯の肩へ軽くぶつかる。下駄の足元が傾き、陽流がすぐ腕を支えた。
「危ない。はぐれるなよ」
「陽流がちゃんと隣にいれば、大丈夫だよ」
灯は支えていた手が離れる前に、陽流の浴衣の袖を指先で掴んだ。
手をつなぐことは、まだない。
袖の先だけで繋がったまま、2人は提灯の明かりと祭囃子の中へ入っていった。
真帆が整えたのは、灯の髪だけではありませんでした。
「灯。本当に好きなのは誰?」
直人との時間を否定せず、それでも今会いたい人を、灯は自分の言葉で答えました。
そして陽流を3分待たせた灯は、真帆から贈られた髪と、自分で選んだ気持ちを携えて夏祭りへ向かいます。
まだ手はつながず、袖の先だけでつながったまま。
次話「たまたまじゃない」へ続きます。




