名前の距離
気持ちに名前をつけた翌朝、灯は直人と向き合います。
誰かを選ぶことは、それまで大切だった誰かとの時間を否定することではありません。
翌朝、灯は目覚ましをかけていなかったのに、いつもより早く目を覚ました。
カーテンの隙間から差し込む光はすでに白く、枕元の時計は7時を少し過ぎている。ほとんど眠れなかった気がしたが、橋の上で泣いたことも、自分の部屋で口にした言葉も、夢にはなっていなかった。
身体を起こし、最初に窓の向こうを見る。
陽流の部屋はカーテンが閉じていた。昨夜、明かりがついたのを確かめてから眠ったため、帰っていることはわかっている。
携帯電話には直人から新しい連絡が1つ届いていた。
――昨日のこと、ちゃんと話したい。今日、会える?
届いた時刻は朝の6時42分。
灯は画面を見つめた。
自分から連絡しなければいけないと思っていた。橋から走って帰り、直人の言葉を聞かないまま一晩を終わらせたのは自分だったから。、
何を話すかは、もう決まっている。
けれど文字にしようとすると、昨夜よりも指が重くなった。
――会えるよ。
そこまで打ち、続けて謝る言葉を入れようとしたが消した。謝るだけでは、また直人に何も伝えられない。
――私も、直人くんに話したいことがある。
送ると、すぐに既読がついて待ち合わせは10時、駅前の大きな時計の下に決まった。
そこは昨日と同じ場所。
*
待ち合わせの7分前に駅へ着くと、大きな時計の下には、今日も直人が先に立っていた。
白い半袖のシャツに黒い鞄を肩から掛け、昨日と同じように案内図の前にいる。けれど壁を見ているわけではなく、俯いたまま携帯電話を握っていた。
「直人くん」
呼ぶと、直人が顔を上げた。
片方の頬が薄く腫れている。口の端には小さな傷があり、笑おうとすると少しだけ引きつった。
「おはよう。今日も早いね」
昨日と同じ言葉だった。
灯は返事をせず、直人の頬を見た。
「その顔、どうしたの?」
「昨日よりは良くなったんだけどね。やっぱり腫れてる?」
「わかるよ。口も切れてるみたい」
「実は昨日、ちょっと転んじゃってさ」
「転んだら、頬だけ腫れるの?」
直人は視線を逸らした。
その反応を、灯は知っている。待ち合わせへ何分前に来たか尋ねた時、直人は本当のことを隠そうとして同じ顔をしたことがあったからだ。
「もしかして、陽流と喧嘩したの?」
直人の目が灯へ戻る。
「どうして湊だと思ったの?」
「昨日、私が家に入ったあと、陽流の部屋の明かりが消えたから。どこにいるのって送っても、しばらく返事がなかった」
「そっか」
「陽流が殴ったの?」
「俺も殴ったよ」
「どうして」
「それを話すと長くなるから、座れるところへ行こう」
直人は駅の横にある遊歩道へ歩きだした。
灯も隣へ並ぶ。昨日まではどちらからともなくつないでいた手が、今日は互いの身体の横にある。人を避けるたび肩が近づいても、指が触れることはなかった。
遊歩道の先には、小さな広場があった。木陰に並んだベンチのうち、駅から最も離れた1つへ直人が座る。
灯は少し間を空けて、その隣へ座った。
目の前を電車が通り、車輪の音が会話のできない時間を作った。長い車両が通り過ぎると、直人は膝の上で両手を組んだ。
「昨日は、ごめん」
「私も、ごめんなさい」
同時に言い、2人とも相手を見た。
「先に俺から話していい?」
「うん」
「昨日、キスしようとしたことを謝りたい。灯がいいって言ってくれたからって、俺が急いでいい理由にはならなかった」
「違うの。直人くんは急いでないよ」
「でも、俺が聞かなかったら、灯は泣かなかった」
「それは私が‥」
「まって、灯が悪いって話にしたいわけじゃないんだ」
直人は組んだ手をほどき、片方の掌を膝へ置いた。昨日、灯とつないでいた手だった。
「嫌じゃないって言ってくれたのも、嘘じゃなかったと思ってる」
「うん、嘘じゃないよ」
「だから余計に、どうすればよかったのかわからなかった」
灯は膝の上の鞄を握った。
「直人くんは何も悪くないの。昨日も陽流にそう言った」
「聞いたよ」
「陽流から?」
「喧嘩する前に。灯が何度も俺を庇ってたって」
やはり陽流と会っていた。
灯は立ち上がりかけたが、直人が静かに続ける。
「湊だけが悪いわけじゃない。最初に殴ったのはあいつだけど、俺も殴り返した。これは灯が止められたことでもないし、灯のせいでもないよ」
「でも、どうして喧嘩したの?」
「湊が、俺なら灯を大事にしてくれると思ってたのにって言ったから」
灯は意味を理解するまで少し時間がかかった。
「陽流が?」
「うん。それで任せたみたいな言い方をするなって、俺が怒った」
「私は、誰かに任せられたわけじゃないよ」
「わかってる。だから腹が立ったんだよ」
直人は腫れた頬へ触れ、痛そうに指を離した。
「俺たちが勝手に怒って、勝手に殴った。だから灯が謝ることじゃない」
「でも‥」
「謝られると、俺も湊も、灯のために喧嘩したことにできるだろ。そんな格好いいものじゃないよ。2人とも、自分が腹を立てたから殴っただけだから」
直人の言葉は、いつものように灯が背負おうとしたものを先に見つけて下ろしてくれる。
それでも、その優しさに甘えたまま、次の言葉を伝えなければならない。
「直人くん」
「うん」
「昨日、どうして泣いたのか、考えたの」
直人は何も言わず、灯の続きを待った。
「直人くんのことが嫌だったわけじゃない。キスが怖かったわけでもないと思う」
「うん」
「直人くんといるのは楽しかった。昨日も、橋へ行くまではずっと楽しかったんだよ。ボートが回ったことも、クリームソーダを交換したことも、写真を撮ったことも、全部覚えていたい」
そこで一度、息を吸った。
昨夜、自分しかいない部屋で口にした時とは違う。今度は、その言葉で傷つく人が目の前にいる。
「でも、私……陽流が好きなの」
直人は驚かなかった。
視線を落とし、組み直した指へ少し力を入れただけだった。
「うん」
「驚かないの?」
「なんていうか、たぶん灯より俺のほうが先に気づいてた」
灯は直人の横顔を見た。
「いつから?」
「いつだろう。はっきりした日があるわけじゃないよ」
直人はベンチの背へ身体を預け、葉の間から見える空を見上げた。
「灯の話には、いつも湊がいたから。子どもの頃の話を聞けば、だいたい隣にいる。今の話をしてても、湊ならどうするとか、湊も知ってるとか、気づけば名前が出てくる」
「わたし、そんなに陽流の話をしてた?」
「してたよ。本人だけが気づいてなかったけど」
「直人くん、嫌だった?」
「そりゃまあ嫌だった時もある」
直人は正直に答えた。
「でも幼なじみなら仕方ないとも思ったよ。昔のことは変えられないけど、これからのことなら俺も増やせると思ったんだ」
昨日の公園で交わした言葉が、灯の中へ戻ってきた。
陽流だけが知っている昔の合図を羨ましいと言いながら、直人は真似をしようとはしなかった。必要になった時に、2人だけの合図を見つけようと言った。
「昨日も、これから覚えていけばいいって言ったよね」
「うん。本気でそう思ってた」
「私も思ってたよ」
「知ってる」
直人は笑おうとした。傷が引きつれ、すぐにいつもの表情へ戻る。
「灯が俺といる時に笑ってたことまで、嘘だったとは思ってないよ」
「嘘じゃない」
「だから、付き合ったことを後悔はしてない」
灯の胸が痛んだ。
「直人くん」
「灯も、後悔してない?」
「してない。直人くんと付き合えて、うれしかった」
「そっか」
直人は俯き、靴の先で小さな石を転がした。
「じゃあ、それでいいや」
「よくないよ」
「よくないけど、悪かったことにするよりはいい」
電車がもう一度、目の前を通り過ぎた。
窓の向こうに座る人の顔が一瞬ずつ見え、すぐに流れていく。最後の車両が遠ざかっても、2人はしばらく同じ方向を見ていた。
直人が先に口を開く。
「別れよう」
予想していた言葉だった。
自分から言わなければならないと思っていた。それでも実際に直人の声で聞くと、昨日まであったものが形を失っていくように感じた。
「うん」
頷くのが精一杯だった。
謝りたかったけれど何度謝っても、それは直人と過ごした時間まで謝ることになる気がしていた。
「ありがとう、直人くん」
「何に?」
「私を好きになってくれたこと。一緒にいてくれたこと。昨日、止まってくれたことも」
「止まるのは当たり前だよ」
「ううん、当たり前にできない人もいると思う」
「けど、それで褒められるのは、あまりうれしくないな」
直人は少しだけ困ったように笑った。
その表情は、灯が初めて話しかけた頃と同じだった。恋愛に慣れているように見え、灯の言葉には時々本気で困る。
「俺も、灯と付き合えてよかった」
「本当?」
「最後の日に嘘はつかないよ」
灯は頷いた。
直人は膝へ置いていた手を持ち上げ、鞄の肩紐を握った。立ち上がろうとしてから、何かを思い出したように動きを止める。
「1つだけ、言ってもいい?」
「なに?」
「結局、俺は最後まで『直人くん』だったね。湊のことは、ずっと陽流って呼んでるのに」
灯は瞬きをした。
声は責めるものではなかった。
だからこそ、灯にはすぐに答えられなかった。
「それは、小さい頃からそう呼んでるから」
「うん。わかってる」
「直人くんって呼ぶのが嫌だったわけじゃないよ」
「それもわかってる」
直人は灯を見た。
「俺は途中から灯って呼べるようになったけど、灯の中にあった俺との距離は、最後まで全部はなくならなかったんだと思う」
「そんなつもりは」
「なかったよね」
灯の言葉を、直人が先に受け取った。
「責めてるんじゃないよ。呼び方を変えればよかったって話でもない。ただ、俺が昨日まで増やそうとしてた『これから』より、湊と過ごした時間のほうが、灯の中ではずっと深かったんだと思う」
灯は膝の上で手を握った。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいって言ったのに」
「でも、今のは謝りたい」
「じゃあ、今の1回だけ聞く」
直人は立ち上がった。
灯も続いて立つ。昨日までなら、どちらかが手を差し出していた。今日は並んで立っても、2人の間には人1人ぶんほどの距離があった。
「灯、あのさ」
「うん」
「昨日の写真、消さなくてもいいかな」
「うん、消さなくていいよ」
「女々しいって思うかもしれないけど、思い出として取っておきたいから」
「そんなこと思わないよ。私にとっても大事な思い出だもん」
直人は先に駅の方向へ歩きだした。
数歩進み、振り返る。
「じゃあね、灯」
「うん。またね、直人くん」
最後まで、呼び方は変わらなかった。
直人は少し笑い、今度こそ背を向けた。
灯は追いかけなかった。
その姿が駅前の人の流れへ紛れて見えなくなるまで、灯はベンチの前に立って見送った。
*
駅を離れてからも、直人はしばらく鞄の肩紐を強く握っていた。
歩くたび、中に入れた本の角が腰へ当たる。
小学校4年生の時、熱を出して学校を休んだ日に父親が買ってきた、最初に好きになった推理小説だった。昨日、灯に見せると約束したため、今朝、家を出る前に本棚から取り出してきた。
表紙は何度も読んだため端が擦れ、少し外れかけている。
直人は最後まで、その本を鞄から出さなかった。
灯と直人は、付き合ったことも、楽しかった時間も、間違いにはしませんでした。
それでも最後まで、直人は「直人くん」だった。
そして直人の鞄には、灯へ見せる約束をした、最初に好きになった推理小説が残されています。
渡せなかった本と、変わらなかった呼び方。そこにあった距離まで抱えて、直人は灯の前から歩きだしました。
次話「今度は自分で」へ続きます。




