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君だけに降る星  作者: 春待 ことり
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21/27

名前をつける夜

灯の涙に理由があったように、陽流の怒りにも、直人の痛みにも理由があります。

3人がそれぞれ、目を背けてきた気持ちに名前をつける夜です。

灯の家の玄関が閉まっても、陽流はしばらく門の前から動けなかった。


 郵便受けから取り出した封筒が、握った左手の中で曲がっている。力を抜こうとしても指が開かず、紙の端が掌へ食い込んだ。


 灯は、直人が悪いわけではないと言った。


 キスをしてもいいかと尋ねられ、自分もいいと答えたのだと、何度も直人を庇っていた。唇が触れる前に直人が止まったことも、泣きながら途切れた言葉の中からわかった。


 それでも、灯は泣いていた。


 頬を涙で濡らし、息が切れるまで走り、白いブラウスの胸元を握り締めていた。


 陽流は自宅の玄関を開け、封筒を靴箱の上へ置くとリビングから母親の声がしたが、返事だけをしてすぐに外へ戻る。門を出ると、駅へ続く道の先に深い緑色のシャツの人物が見えた。


 直人はまだ遠くまで行っていなかった。


 歩く速度は遅く、右手を何度もポケットへ入れようとして、そのたび途中で止めている。手には白い布が握られていた。


「倉田ぁ!」


 陽流が呼ぶと、直人の足が止まる。


 振り返った顔に驚きはなかった。来ると思っていたのか、来てほしくなかったのかもわからない。ただ、灯が家へ着いたことを確かめるように、一度だけ陽流の背後へ視線を向けた。


「灯は?」


「家に入ったよ」


「そっか」


 直人はそれだけ言い、握っていたハンカチをポケットへしまった。


「倉田、話がある」


「俺もあるよ」


 駅前へ向かう人が、2人の横を通り過ぎた。買い物袋を持った親子の声が遠ざかるまで、どちらも次の言葉を口にしなかった。


 直人が先に川の方向へ顔を向ける。


「ここだと、灯の家から見えるかもしれない」


「河原へ行こう」


「ああ、わかった」


 2人は並ばずに歩き始めた。


 直人が前を行き、陽流は数歩離れて後ろを歩く。間に会話はなく、靴底が舗装路を踏む音だけが同じ方向へ続いていた。


     *


 灯は白いブラウスを脱ぐことができず、鏡の前へ座っていた。


 高い位置で結んでいた髪をほどく。走って乱れた黒い髪が肩から背中へ落ち、頬に張りついた細い毛を指で払った。


 鏡の中の顔は、まだ目の周りが赤い。水で洗っても涙の跡は消えず、瞬きをすると橋の上で目を閉じた時の暗さが戻ってくる。


 直人の声は優しかった。


 嫌ならしないと言って、返事を待ってくれた。灯がいいと答えたあとにも、本当にいいのかと確かめた。近づく速度も急ではなく、怖いことは何もなかった。


 それなのに、身体が勝手に震えた。


 直人が触れるより先に涙が出た。


 携帯電話を開くと、直人からの連絡は届いていなかった。灯も何を送ればいいのかわからない。


 楽しかった。


 今日のことをそのひと言だけで伝えれば、嘘にはならない。ボートが同じところを回ったことも、青いクリームソーダの味も、直人が写真の中で自分を見ていたことも、全部うれしかった。


 けれど最後に泣いたことを書かずに「楽しかった」と送るのは、もっと大きな嘘になる気がした。


 灯は直人との画面を閉じ、陽流との画面を開いた。


 最後に並んでいるのは、昨夜の停電のあとに交わした短い言葉だった。窓の合図を直人へ教えたと話した時、陽流は困ったように笑った。それでも灯が呼べばいつでも見ると言ってくれた。


 ――陽流、どこにいるの?


 打った文字をしばらく見つめ、送信する。


 既読はつかなかった。


     *


 河原へ下りる階段には、昼間の熱がまだ残っており、西の空は橙色から薄い紫へ変わり始め、川面に伸びた光も少しずつ細くなっている。上流側の広場では犬を連れた人が歩いていたが、橋の下へ近づくと人影はなくなった。


 直人は草の短い場所で足を止めた。


「ここならいいだろ」


 陽流も立ち止まる。


 数歩の距離を空けて向き合うと、直人の顔に疲れが見えた。灯を追って走ったためだけではない。橋の上からずっと答えの出ないことを考え続けていた顔だった。


「灯に何をした?」


「灯から聞いたんじゃないの?」


「お前から聞いてるんだ。話せ」


 直人は一度目を伏せ、ポケットの上から白いハンカチを押さえた。


「キスしてもいいかって聞いた」


「それで?」


「灯は、いいって言った」


 陽流の奥歯に力が入る。


「でも震えたから、触れる前に止めた。俺が近づいた時に泣きだした」


「灯は嫌じゃなかったって言ってた」


「俺にもそう言ったよ。何度聞いても、嫌じゃないって」


「じゃあ、なんで泣いたんだよ」


「俺が知りたいよ」


 直人の声が初めて強くなった。


 陽流はその答えを持っていない。灯がなぜ泣いたのか、自分にもわからない。それでも直人の口から「キス」という言葉を聞くたび、胸の中で押さえていたものが膨らんでいった。


「お前なら、灯を大事にしてくれると思ったのに」


「何だ、それ」


「お前ならいいと思ったんだ。なのに、泣かせただろ」


 陽流は直人のシャツの胸元を掴んだ。


 直人は逃げなかった。掴まれた手首を見下ろし、それから陽流の目をまっすぐ見た。


「俺だって灯を大事にしてる」


「大事にしてたら、あんな泣かせ方しないだろ」


「じゃあ、どうすればよかったんだよ」


 直人が陽流の腕を振り払った。


「聞いた。灯がいいって言ったから近づいた。震えたから止まった。泣いたから謝った。落ち着くまで待とうって言ったし、送るとも言った。それでも灯は走って帰った。俺にほかに何ができたのか、お前にわかるのかよ」


 陽流は答えられなかった。


 直人の言うことは間違っていない。灯が説明したとおり、直人は何も無理強いしていない。泣かせようとしたわけでもない。


 わかっているのに、握った拳は開かなかった。


「それでも、灯は泣いてたんだぞ?」


「見ればわかるよ。俺だって、あんな顔をさせたかったわけじゃない」


「だったら、もう近づくな」


 口にした瞬間、直人の目つきが変わった。


「それをお前が決めるのか」


「また同じことになったらどうする」


「灯と話すよ。俺と灯のことだから」


「灯は自分が悪いって思ってる」


「だから話すんだよ。俺は怒ってないって、あいつが悪いわけじゃないって言うために」


 直人は一歩近づいた。


「それに、“任せた”みたいに言うなよ。灯はお前のものじゃないだろ」


「わかってるよ」


「わかってないからそんなことが言えるんだ」


 直人の声が河原へ響いた。


「お前が勝手に諦めて、勝手に俺ならいいって決めたんだろ。俺が灯を好きだって言った時、お前は何も言わなかった。灯がお試しで付き合うって決めた時も、ちゃんと付き合うって決めた時も、ずっと『灯が決めたことだから』って顔してたじゃないか」


「灯が決めたんだ。俺が口を出すことじゃない」


「またそれだ」


 直人は陽流の胸を両手で押した。


 陽流の足が草の上を滑り、一歩後ろへ下がる。


「お前は灯が決めたって言えば、何もしない自分を正しいことにできるんだな」


「何も知らないくせに」


「ああ、知らないよ。お前が何も言わないからな」


 次の瞬間、陽流の拳が直人の頬へ当たった。


 乾いた音がして、直人の身体が横へよろめく。足元の草を踏みつけながら持ちこたえ、片手で頬を押さえた。


 殴った陽流の指にも、遅れて鈍い痛みが広がる。


 直人はすぐには殴り返さなかった。


「なんで、お前が俺を殴るんだよ」


「灯を泣かせたからだ」


「幼なじみだから?」


「そうだよ」


「幼なじみなら、恋人より先に怒っていいのか」


 直人が頬から手を離した。口の端がわずかに切れ、指先へ赤い色がついている。


「灯が泣いたら殴りに来るくらい大事なのに、どうして俺に譲ったんだよ」


「譲ったんじゃない」


「同じだろ。お前は自分で何もしなかったくせに、俺が失敗した時だけ幼なじみの顔で出てくるのかよ」


「違う」


「何が違うんだよ。お前は灯の何なんだ!」


「好きだからだよ!」


 陽流の声が、橋の下で大きく反響した。


 遠くを走っていた自転車のベルが鳴り、川面から飛び立った鳥が低く水の上を横切っていく。


 直人は何も言わなかった。


 陽流自身も、荒い息をしながら立ち尽くしていた。


 言ってしまった。


 灯へ向けてではない。夏の河原で、殴った相手へ怒鳴るようにして、初めて自分の気持ちを口にした。


「灯が好きだからだよ」


 今度は先ほどより低い声だった。それでも一度言葉になった気持ちは、もう胸の奥へ戻らなかった。


     *


 灯は陽流へ送った画面を開いたまま、ベッドの上へ白いブラウスを置いた。


 既読はまだつかない。


 窓の向こうの部屋も暗いままだった。


 陽流が自分に何も言わず、どこかへ行くことは珍しかった。用事があるたび報告し合っているわけではない。それでも夕方に顔を合わせた直後なら、コンビニへ行くのか、誰かに会うのか、いつもは何となくわかった。


 今日はわからない。


 何も手につかずベッドの上のブラウスを見たまま。


 最初に直人と映画へ行く日、どちらの服がいいか陽流へ尋ねた。陽流は白いブラウスと青いスカートを選び、灯に似合うと思うと言った。


 あの日、灯は直人と出かけるための服まで陽流に決めてもらった。


 今日もその同じ服を着ている。


 直人が前の服を覚えているかもしれないと真帆に言われ、もう一度着てみたいと思った。それは直人に見てもらうためだったはずなのに、鏡の前に立った時、最初に思い出したのはこの服を選んだ陽流だった。


「どうして……」


 誰に尋ねたわけでもない声が、部屋へ落ちた。


 直人といる時間は楽しかった。


 自分を見て笑ってくれることがうれしく、好きなものを覚えてくれることもうれしかった。手をつなげば心臓が速くなり、恋人と呼ばれると特別な人になれた気がしていた。


 それなのに、うれしいことがあるたび陽流へ話したくなった。


 直人と映画へ行く前にも陽流の部屋へ行った。直人と正式に付き合うと決めたあとも、陽流が以前と違うことばかり気になった。陽流が自分から離れようとすると、直人と一緒にいる時とは別の場所が空いてしまったように寂しかった。


 直人は恋人で、陽流は幼なじみだからだと思っていた。


 役割が違うから、比べるものではないのだと考えていた。


 けれど橋の上で直人が近づいた時、灯の身体はその分け方を受け入れてくれなかった。


 もし、あのままキスをしていたら。


 灯は目を閉じ、触れなかった先を考えようとした。


 直人はきっと、今日撮った写真と同じ顔で笑った。灯も、ちゃんとできたことに安心したと思う。家へ帰れば真帆へ話し、直人にも楽しかったと送った。


 では、陽流には何と話したのだろう。


 ――今日、直人くんとキスしたよ。


 その一文を陽流との画面へ打つところを想像しただけで、胸が締めつけられた。


 陽流が「そっか」と答えるところは、もっと嫌だった。


 どうして嫌なのか、灯はもうわかり始めていた。


 携帯電話を両手で持ち、これまでのやり取りを上へ戻す。宿題の話。買い物の頼み。寝坊した朝。窓を見てほしい時に送った短い合図。特別な言葉はほとんどないのに、どれも自分の毎日の中にあった。


 灯は、陽流に嫌われるとは思ったことがなかった。


 2、3分遅れても、忘れ物をしても、思ったことをそのまま言っても、陽流なら待っていてくれると思っていた。


 直人と会う朝には、変なところを見せたくなくて12分早く起きた。


 陽流と学校へ行く朝には、あと少しだけと布団の中で目を閉じた。


 直人を大切にしていなかったわけではない。陽流を軽く扱っていたわけでもない。


 ただ、陽流だけは何をしても自分のそばからいなくならないと、どこかで信じきっていた。


 それが信頼なのだと思っていた。


 家族に近いからだと、何度も自分へ説明してきた。


 けれど、家族に近いだけなら、陽流が自分から離れていくたび、どうしてあれほど苦しかったのだろう。


 陽流が誰か別の女の子と毎朝学校へ行くところを想像すると、胸の奥が冷たくなった。


 陽流がもう窓の合図を見てくれなくなることも、灯の服を選ばなくなることも、灯の知らない誰かへ同じように「大丈夫」と言うことも、どれも嫌だった。


 直人とキスをすることが怖かったのではない。


 キスをしたら、陽流が今より遠くへ行ってしまう気がした。


 灯はそこで初めて、自分が失いたくなかったものの形を見た。


     *


 河原では、陽流の声が消えたあとも、2人の間に「灯が好き」という言葉だけが残っていた。


 直人がゆっくり息を吐く。


「だったら、最初から言えよ」


 その声は怒鳴ってはいなかった。それでも、先ほどより強く陽流の胸へ届いた。


「言ったら、灯を困らせると思ったんだ」


「今は困らせてないっていうのか」


 陽流は答えられない。


 家の前で泣いていた灯の顔が浮かぶ。自分が直人を追ってここへ来たことを知れば、さらに自分を責めるかもしれない。


「お前が黙ってたから、俺は灯に告白した」


「それは、お前が決めたことだろ」


「そうだよ。俺が決めた。だから俺は、自分で決めたことから逃げてない」


 直人が陽流の胸元を掴んだ。


「俺だって灯を大事にしてる。お前が黙ってたから、俺は本気で灯を好きになったんだ!」


 拳が陽流の頬へ当たった。


 視界が横へ流れ、足元の草が大きく揺れる。陽流は片膝をつき、遅れて口の中に鉄の味を感じた。


 直人は追い打ちをかけずにその場に立っている。


 胸元を掴んでいた手を離し、痛む拳をもう片方の手で押さえている。


「お前だけが、ずっと灯を好きだったみたいな顔をするなよ」


 陽流は口元を拭い、立ち上がった。


「そんなつもりじゃない」


「じゃあ、灯がまた俺を選んだら、今度こそ何も言わずにいられるのか」


「……わからない」


「それくらい、最初から言えよ」


 直人がもう一度陽流を押した。


 陽流も押し返す。肩がぶつかり、互いに足を取られて草の上へ倒れ込んだ。殴り方も避け方も知らない中学生の喧嘩は、決して格好のいいものではなかった。シャツへ草がつき、肘を擦り、起き上がろうとしては相手の腕を掴む。


 陽流の拳が直人の肩へ当たり、直人の膝が陽流の脇腹へぶつかった。どちらが勝っているのかもわからないまま、息だけが上がっていく。


「灯は、物じゃない」


 直人が陽流の腕を押さえながら言った。


「わかってる」


「だったら、俺に任せるな」


「わかったって言ってるだろ!」


「今さら遅いんだよ!」


 陽流は直人の腕を振りほどいた。直人も同時に離れ、2人とも草の上へ仰向けになる。


 橋の向こうで、街灯がひとつ灯った。


 空はいつの間にか濃い青へ変わり、川面に残っていた夕陽の色も消えている。


 荒い呼吸が落ち着き始めた頃、陽流のポケットで携帯電話が震えた。


 一度だけではなく、少し間を置いてもう一度震える。


 陽流は上体を起こし、画面を見た。


 灯からだった。


 ――陽流、どこにいるの?


 最初のメッセージの下に、もうひとつ届いている。


 ――怒ってる?


「返せよ」


 隣で仰向けになったまま、直人が言った。


「何て返せばいいんだよ」


「今度は灯が決めるまで黙ってるつもりか」


 陽流は直人を見た。


 殴った頬が腫れ始め、口の端には乾きかけた血が残っている。自分も同じような顔をしているはずだった。


「お前、俺のこと嫌いだろ」


「今はかなり嫌いだよ」


「だったら、なんで」


「灯が心配してるからだ」


 直人は短く答え、目を閉じた。


「俺はまだ灯の彼氏だ。今日のことで別れるとも決めてない。お前が灯を好きでも、灯が誰を選ぶかは別だからな」


「わかってる」


「今度のは、本当にわかってるんだろうな」


「わかってるよ」


 陽流は画面へ視線を戻した。


 ――怒ってない。すぐ帰る。


 嘘が混じっている。直人には怒っていたし、自分自身にはもっと腹が立っていた。それでも灯へ向ける言葉としては、それしか書けなかった。


 送信すると、すぐに既読がついた。


 陽流は立ち上がり、半袖の裾についた草を払った。


「俺、帰るよ」


「灯には、喧嘩したこと言うのか」


「言えるわけないだろ」


「明日になったら顔でばれるよ」


「お前もな」


 直人はまだ起き上がらず、片腕で目元を覆った。


「湊」


「何」


「さっきのこと、俺から灯には言わない」


「……うん」


「自分で言えよ。今度は」


 陽流は返事をしなかった。


 階段へ向かって歩きだし、数歩進んだところで振り返ると、直人はまだ草の上に寝たまま、暗くなった空を見ている。

堤防へ上がる階段の向こうへ陽流が消えると、それを確認した直人は片腕を額へ載せ、手首の内側で両目を覆った。腕の下からあふれた涙がこめかみを伝い、髪の中へ消えていく。


「……なんで、こんなことになったんだろうな」


 誰に尋ねたわけでもない声は、絶えず流れる川の音に紛れた。


     *


 陽流から届いた返事を読み、灯はようやく息を吐いた。


 怒っていないという言葉を、そのまま信じることはできなかった。家の前で見た陽流の拳と、消えた部屋の明かりを覚えている。


 それでも、帰ってくる。


 そのことに安心した自分の気持ちは、もう幼なじみというひと言の中へ戻せなかった。


 灯は携帯電話を胸の前で握り、窓辺へ立った。


 直人を好きだと思った気持ちは嘘ではない。


 恋人になれてうれしかった。会う日は早く起き、似合うと思ってもらえる服を選び、直人の好きなものを覚えたかった。今日の公園へ戻れるなら、橋へ着くまでの時間をもう一度同じように過ごしたいとさえ思う。


 だからこそ、直人を傷つけたことが苦しかった。


 けれど、直人を好きだと思う気持ちのもっと奥に、ずっと前から別のものがあった。


 うれしい時に最初に話したい人。


 失敗しても嫌われないと信じられる人。


 離れていこうとすると、追いかけずにはいられない人。


 物心がついた頃から隣にいて、名前を呼ぶことに特別な意味などないと思っていた人。


 灯はカーテンの隙間から、暗いままの隣の窓を見た。


 やがて門の開く小さな音がした。


 少しして、陽流の部屋の明かりがつく。


 カーテンは閉じたままで、姿は見えなかった。それでも、そこへ戻ってきたことはわかる。


 灯はベッドへ戻り、陽流が選んだ白いブラウスを両腕で抱えた。


「私、陽流が好きなんだ」


 誰にも届かないほど小さな声だった。


 それでも、口にした途端、胸の中に散らばっていた記憶がひとつの場所へ集まっていく。


 窓の合図も、毎朝の2、3分も、選んでもらった服も、離れられることだけが嫌だった理由も、全部同じ名前で呼ぶことができた。


 灯の目にもう一度涙が滲んだ。


 けれど橋の上で流れたものとは違った。理由のわからない涙ではなかった。


 灯は指でそっと拭い、もう一度窓の向こうの明かりを見た。


 ずっと名前のなかった気持ちに、その夜、初めて陽流の名前がついた。

陽流は殴り合いの中で、灯は誰にも届かない部屋の中で、同じ気持ちを初めて言葉にしました。


「好き」という名前がついたからといって、すぐに誰かが幸せになれるわけではありません。その言葉を知らされた直人にも、本気で灯を好きになった時間があります。

次話「名前の距離」へ続きます。

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