↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君だけに降る星  作者: 春待 ことり
PR
20/27

これから覚えること

互いの昔を知り、これから好きになるものも覚えていく。

灯と直人が恋人として過ごす、夏休みの公園デートです。

 土曜日の朝、灯は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。


 枕元の時計は、設定した時刻より12分早い。もう一度眠るには短く、起きるには少し惜しい時間だった。布団の中で携帯電話を開くと、昨夜、真帆へ送った2枚の写真に返事が届いている。


 片方は白い半袖のブラウスと淡い青色のスカート。もう片方は、水色のワンピースだった。どちらがいいか尋ねたのに、真帆の答えは服を選ぶものではなかった。


 ――映画の時と同じでも、倉田くんは覚えていると思うよ。


 白いブラウスと青いスカートは、直人と映画へ行った日に着たもの。違う服のほうがいいかと思い、昨夜から箪笥の前で迷っている。


 ――覚えてるかな。


 灯が返すと、まだ朝の7時前なのにすぐ既読がついた。


 ――灯が青を好きだと覚えていた人でしょ。


 ――真帆、起きてたの?


 ――今起きたところ。今日は遅れないでね。


 服の答えは最後まで教えてくれなかった。


 灯は布団から出て、箪笥の扉を開くと、水色のワンピースを一度手に取り、鏡の前へ当てる。見慣れないぶん、特別な日に見える。けれど直人が覚えているかもしれないと聞くと、同じ服をもう一度着てみたくなった。


 結局、手にとったのは白いブラウスと淡い青色のスカート。


 髪は高い位置でひとつに結び、白い兎のキーホルダーを青い鞄へつける。内ポケットには、洗って畳んだ直人のハンカチが入っている。鏡の前で鞄を肩へ掛けると、映画の日とよく似ていたが、今日は借りた本ではなく、返すものを持っている。


 部屋を出る前に窓の外を見ると陽流の部屋はカーテンが閉まっている。夏休みの土曜日なのだから、まだ眠っていてもおかしくない。昨夜は遅くまで明かりがついていた気がする。


 起こしてまで出かけることを伝える必要はない。


 灯は携帯電話だけを鞄へ入れ、階段を下りた。


     *


 駅前へ着いたのは、待ち合わせの5分前。


 大きな時計の下には、直人がすでに立っている。映画の日にも着ていた深い緑色の半袖シャツに、肩から黒い鞄を掛けていた。壁の案内図を見ていたが、灯を見つけるとすぐに携帯電話をしまう。


「おはよう。今日は早いね」


「おはよう。直人くん、前と同じこと言ったよ」


「映画の日も5分前だった?」


「そうだよ。直人くんは、今日何分前に来たの?」


「10分くらい‥かな」


 答えた直人の目が時計から少し逸れる。映画の日と同じ反応だった。


「本当は?」


「……15分」


「また増えた」


「今日は電車が早く着いたんだよ」


「前は12分だったから、3分増えてるよ」


「時間まで覚えてたの?」


「直人くんが言ったことだから」


 灯が笑うと、直人も困ったように笑った。自分が覚えていたことへ驚いている顔だったが、少しうれしそうにも見えた。


 その視線が、灯の服へ移る。


「今日、映画の時と同じ?」


「覚えててくれたの?」


「青いスカートだったから。白い服もたぶん同じだと思う」


「直人くんも、映画の日と同じ緑だよね」


「灯も覚えてた?」


「だって直人くんが好きな色だから」


「やっぱり真帆の言ったとおりだった」


「小坂と俺の話をしたの?」


「うん、服を選んでもらおうと思っただけ。でも、直人くんなら覚えてるって言われたんだ」


「覚えててよかった」


 直人は安心したように言い、改めて灯の服を見た。


「今日も似合ってるよ」


「前も同じこと言ってくれたっけ?」


「言おうと思ったけど、好きな色の話をして、そのままになった気がする」


「じゃあ今日は言えてよかったね」


「灯は、言われてうれしくないの?」


「うれしいよ。だから、ちゃんと覚えておく」


 答えると、直人は安心したように小さく笑った。


 灯は鞄の内ポケットを開き、畳んだハンカチを取り出した。


「これ、返すね。染みも落ちたよ」


「本当に洗ってくれたんだ」


「洗って返すって言ったでしょ」


「忘れてるかもしれないと思ってた」


「忘れないよ。鞄へ入れる時も、2回確かめたもん」


 直人は白いハンカチを受け取り、端を広げて青い染みがあった場所を確かめた。光へ透かしても、どこだったのかわからない。


「きれいになってる。ありがとう」


「これで返す理由、なくなっちゃったね」


 少し残念に思いながら言うと、直人はハンカチを畳み直してポケットへ入れた。


「今日は、返すためだけに会ったんじゃないだろ」


「うん」


「次も、何か返すものがなくても誘っていい?」


「いいよ。会う理由は、会いたいだけでもいいんでしょ」


 直人は一度だけ瞬きをした。


「灯、そういうことを朝から言うんだね」


「違った?」


「違わない。俺も、今日は灯に会いたかったから誘った」


 言葉の意味を考えた途端、急に恥ずかしくなる。灯が時計へ目を逸らすと、直人は追いかけるようには何も言わず、代わりに手を差し出した。


 人の多い駅前でも、もう迷わず取れる。指を重ねると、直人の手にも少し汗が滲んでいた。


「公園、こっちからだよ」


 直人が歩きだし、灯も隣へ並んだ。


     *


 駅の反対側にある公園は、入口から池まで大きな木が続いていた。


 歩道へ張り出した枝が夏の陽射しを遮り、葉の隙間から落ちる光を足元で揺らしている。昨夜の雨が植え込みの土に残り、乾き始めた草と混ざって濃い匂いを作っていた。


 入口近くの噴水では、小さな子どもたちが水の縁へ手を伸ばしている。広場の向こうには白い時計塔が立ち、そのさらに奥で池の水面が光っていた。


「思ったより広いね」


 灯が案内板を見上げると、直人は携帯電話に保存した地図を開いた。


「池を一周すると2キロくらいあるみたい。先にボートへ行って、そのあと木陰を歩けば、そんなに暑くないと思う」


「ボートに乗るの?」


「そのつもりだけど苦手?」


「ううん、乗ってみたい。池にあるの見つけてから、少し気になってた」


「よかった。暑かったらやめようと思ってたけど、今ならまだ大丈夫そうだ」


 直人は灯が疲れないように考えてきたらしい。映画館で通路側の席を選び、今日も木陰の多い場所を調べている。その準備を知るたび、会う前から自分のことを考えてくれていた時間まで受け取ったような気がした。


 池のほとりにある小さな受付では、足で漕ぐ白鳥型と、2本の櫂を使う手漕ぎのボートを選べた。灯が白鳥を見ていると、直人は手漕ぎの料金表から視線を上げた。


「どっちがいい?」


「白鳥のほうがかわいい」


「やっぱりそうだよね」


「直人くんは、手で漕ぎたかったの?」


「父さんと来た時にやったことがあるから、少しくらい上手いところを見せられるかと思って」


「じゃあ、手で漕ぐほうにしようよ」


「白鳥じゃなくていいの?」


「直人くんが上手いところを見たいな」


 灯が言うと、直人は料金表を見たまま少し黙った。それから、本当に上手いかは乗ってから確かめてほしいと条件をつけ、手漕ぎのボートを選ぶ。


 2人分の料金をそれぞれ払い、係員から救命胴衣を借りる。灯は胸元の留め具がうまく重ならず、何度か向きを変えた。直人が先に自分のものを着け、手を伸ばしかける。


「手伝っていい?」


「うん。お願い。ねぇ、これどっちが上?」


「たぶん、この紐が長いほう」


「直人くんの『たぶん』で大丈夫?」


「救命胴衣でそれ言われると、俺も急に不安になってきた」


 2人で係員の着け方を見直し、今度は正しく留めた。


 桟橋へ下りると、水面が足元の近くで揺れている。係員がボートを押さえ、先に灯を乗せた。片足を入れただけで船体が傾き、反射的に直人の腕を掴む。


「わわわ、動いてる」


「そりゃボートだからね」


「もっと止まってるものだと思ってた」


「俺も乗るから、真ん中へ座って」


 灯が後ろの座席へ移り、直人も向かいへ乗る。2人の重さが中央へ収まると、揺れは少し小さくなった。


 係員から櫂を受け取り、桟橋を離れる。直人は左右の持ち手を握り、後ろを確かめながら最初のひと漕ぎをした。


 ボートは最初前ではなく、斜めへ進んだ。


「直人くん、池の真ん中はそっちじゃないよ」


「大丈夫、最初は方向を変えてるだけ」


「だも桟橋へ戻ってるように見えるよ?」


「右が強すぎたんだよ。次で直すから」


 今度は反対側へ大きく向きを変えた。係員が桟橋から、左右を同じ強さで漕ぐよう声をかける。


「上手いところ、いつ見られる?」


「もう少し待って。前に乗った時はできたんだ」


「それって何年前?」


「小学校の4年生くらい」


「もう忘れてるんじゃない?」


「いや、自転車と同じで、体が覚えてるはず」


「今、覚えてない動きしてるよ」


 灯が笑うと、直人も櫂を握ったまま笑った。その拍子に片方が水面から外れ、ボートがまたゆっくり回る。


 何度か繰り返すうちに、ようやく左右の動きが揃った。水を押すたび船体がまっすぐ進み、桟橋から離れていく。岸の蝉の声は少し遠ざかり、櫂から落ちる雫の音が近くなった。


「どうかな、今は上手いでしょ」


「うん。ちゃんと進んでる」


「最初からこれができる予定だったんだけどな」


「でも最初のも楽しかったよ」


 灯が答えると、直人の櫂が一瞬止まった。


「失敗してたのに?」


「だって直人くんが困ってるところ、あまり見ないから」


「俺、灯の前で結構困ってると思うけど」


「英語の授業とか?」


「そういうのじゃなくて」


 直人は続きを言わず、もう一度櫂を水へ入れた。向かいに座る灯を見ていると、進む方向を確かめられない。何度も肩越しに後ろを振り返るため、そのたびボートが少し左右へ揺れた。


 池の中央近くまで進むと、岸の木々が水面へ大きな影を落としていた。白い雲が高い空をゆっくり動き、水鳥が離れたところを横切っていく。


「灯、よかったら少し漕いでみる?」


「私が?」


「座る場所を代わればできるよ。思ったより重くないから」


「直人くんでも最初は曲がってたのに、私にできるかな」


「できるよ、俺が教える」


 ボートの上で立ち上がるのは危ないため、岸の近くにある休憩用の桟橋へ一度寄せた。係員はいないが、手すりへ掴まりながら慎重に席を入れ替える。灯が前の座席へ座り、2本の櫂を握った。


「思ってたより長いんだね、」


「両方を同じくらい水へ入れて、後ろへ押す。そうそう、ゆっくりでいいよ」


「後ろって、私から見てどっち?」


「灯の後ろ」


「直人くんがいるほう?」


「それは前」


「でも私、直人くんのほうを向いてるよ」


「船の前と灯の前が逆なんだよ」


「最初にそれを教えてくれないとわからないよ」


 直人の説明を聞き直し、灯は櫂を水へ入れた。左右を一緒に動かしたつもりが、片方だけ深く沈む。力を入れると重くなり、もう片方が水面を浅く撫でた。


 ボートはその場で大きく回った。


「直人くん、景色が動く」


「灯が回してるんだよ」


「止めてー」


「櫂を上げれば止まるから」


 言われたとおり両手を上げると、水滴が直人の膝へ飛んだ。


「ごめん」


「心配ない。ハンカチ返してもらったから」


 直人はポケットから先ほどのハンカチを出し、濡れたところを拭いた。


「返した日にまた使わせちゃったね」


「今度は灯が汚したんじゃないから、もう洗わなくていいよ」


「でも私が飛ばした水だよ」


「池の水だから、灯のものじゃないだろ」


 同じようなやり取りを昨日もした気がして、2人は笑う。


 交代してからもボートはまっすぐ進まず、時間の半分ほどを同じ場所で回って過ごした。最後は直人が後ろから櫂の動きを教え、灯も短い距離だけなら進めるようになった。


 貸出時間の終わりが近づき、再び席を代わる。直人が桟橋へ戻る方向へ漕ぎ始めると、今度は最初からほとんど曲がらなかった。


「直人くん、本当に体が覚えたね」


「灯のあとだから、上手く見えるだけじゃない?」


「最初より上手くなってるよ」


「じゃあ、灯に教えたおかげだね」


 直人は少し得意そうに笑い、最後のひと漕ぎでボートを桟橋へ寄せた。


     *


 救命胴衣を返し、2人は池のそばにある自動販売機で飲み物を買った。


 水の上には風があったものの、岸へ戻ると湿った暑さが身体を包む。直人は冷たい麦茶を首元へ当て、灯は青いラベルの炭酸水を頬へ触れさせた。


「腕、疲れてない?」


 灯が尋ねると、直人は肩を回した。


「少しだけ。でも明日、筋肉痛になるほどじゃないと思う」


「私はもう腕が重い」


「灯はほとんど回ってただけだろ」


「回るのにも力がいるんだよ」


「そうなの?」


「やった人にしかわからないかな」


 木陰のベンチへ並んで座る。目の前では、次に借りた家族のボートが桟橋を離れていく。父親らしい男性が最初からまっすぐ漕ぎ、灯は直人を見た。


「あの人、上手いね」


「見なくていいよ。俺も最後はできてただろ」


「直人くんも上手かったよ」


「最後だけつけなくていいから」


 灯は炭酸水を飲み、口の中に残る細かな刺激を楽しんだ。透明なのに、青いラベルがあるだけで少し味まで青く感じる。


 直人は麦茶の蓋を閉め、池を見ながら尋ねた。


「昨日の停電の時にやった合図って、いつ決めたの?」


 急に陽流の話が出て、灯は直人を見た。


「小学生の頃だよ。携帯電話を持ってなかったから、窓から光を向けてたの」


「誕生日にもやってたって言ってたよね」


「うん。日付が変わったら陽流が3回光らせて、私が2回返した年もあった。でも、どっちが3回だったかわからなくなって、途中から2人とも何回も光らせてた」


「今は、灯が3回で湊が2回なんだ?」


「昨日はね。3回は『窓を見て』で、2回は『見てる』だったから」


「それ、湊はすぐに思い出したんだね」


「うん。普通にメッセージを送ったほうが早かったのにね」


 灯が笑っても、直人はすぐには笑わなかった。手に持った麦茶のラベルを指でなぞり、言葉を選んでいるように見える。


「直人くん、昨日からそれが気になってたの?」


「少しだけね」


「やってみたい?」


「え?」


「私が3回光らせたら、直人くんが2回返すの」


 灯には、同じようにすれば直人も合図を使えると思えた。けれど直人は少し考えてから、首を振った。


「同じことをしても、俺と灯の合図にはならない気がする」


「どうして?」


「それは、灯と湊が小さい頃に必要だったからできたんだろ。俺が同じ回数を覚えても、借りてるだけになるから」


 言われてみれば、3回と2回に特別な意味があったわけではない。何度も間違え、それでも使い続けた時間が、2人の間だけで意味を持たせたのだろう。


「じゃあ、直人くんとは別の合図を決める?」


「今決めたら、使うたびに湊との合図を思い出しそうだから、それも嫌かな」


「直人くん、陽流に負けたくないの?」


 直人は驚いたように灯を見て、それから小さく息をついた。


「たぶん、少しは」


「どうして? 直人くんは私の彼氏で、陽流は幼なじみだよ」


「わかってる。でも、湊が知ってる灯のことを聞くと、俺が知らない時間がたくさんあるんだなって思う」


「それは、小さい頃から隣にいるからだよ」


「うん。だから、追いつけないこともわかってる」


 直人は責めるようには言わなかった。陽流との合図を隠してほしいとも、もう使わないでほしいとも言わない。ただ、自分の知らない灯がいることを寂しいと感じたのだろう。


「私、直人くんが知らないこと、聞かれたら全部話すよ」


「全部って?」


「覚えてることなら。西瓜の種を陽流と埋めたことも、紫陽花へ水をやりすぎたことも、遼介くんに2人まとめて叱られたことも」


「昨日の合図より、知らない話が増えた」


「まだあるよ」


「本当に全部聞いたら、今日が終わりそうだね」


「次に会う時も話せばいいよ」


 灯が答えると、直人はようやく笑った。


「それなら、昔のことは少しずつ教えて。でも俺は、これからの灯も知りたい」


「これから?」


「灯がこれから好きになるものとか、行きたい場所とか。湊が知ってる頃の灯には今から戻れないけど、これからなら、俺も一緒に覚えていけるだろ」


 灯は手に持った炭酸水を見た。


 青が好きになったのは、昔からではない。陽流も直人も、最近になって知った。真帆が知っている兎のことも、直人が見つけた映画の原作も、14歳になる少し前の灯が好きになったものだった。


 人の好きなものは、これからも増えたり変わったりしていく。そのたび誰かが覚えてくれるなら、自分もその人のことを同じように覚えていきたい。


「じゃあ私も、直人くんがこれから好きになるものを覚える」


「俺のも?」


「直人くんだけが私を覚えるのは、ずるいでしょ」


「ずるいかな」


「私も一緒に覚えたい」


 灯が言うと、直人は麦茶を持っていた手を下ろした。ベンチの上へ置いたもう片方の手が近づき、灯の指へ触れる。


 灯はその手を握った。


「合図は、必要になった時に見つけよう」


 直人が言った。


「必要になるまで決めないの?」


「灯と湊も、必要だったから決めたんだろ」


「そうだね。何もないのに光らせても、意味がわからないもんね」


「俺たちだけで何かが通じた時、それを覚えておけばいいよ」


「見つけたら、直人くんも忘れないでね」


「忘れないよ」


 つないだ指へ、直人が少し力を加えた。


     *


 公園を半周したところで、2人は池の見える場所に携帯電話を向けた。


 水面の向こうには白い時計塔が立ち、その上を薄い雲が流れている。灯が景色だけを撮ろうとすると、直人が隣から画面を覗いた。


「灯、俺たちの写真も撮らない?」


「2人で?」


「嫌なら、池だけでもいいけど」


「ううん、嫌じゃないよ。誕生日の時も4人で撮ったけど、直人くんと2人のはないもんね」


 直人は携帯電話を受け取り、前側のカメラへ切り替えた。2人で池を背にして並び、画面の中へ顔を収める。


「灯、もう少しこっちへ来て。半分切れてる」


「直人くんが真ん中に寄ればいいでしょ」


「俺が持ってるから、これ以上動くと時計塔が入らないんだよ」


 灯が肩を寄せると、直人も少しだけ顔を近づけた。


「撮るよ」


 直人が画面を押した瞬間、灯は池のほうから吹いた風に目を閉じた。


 1枚目には、片目だけを開けた灯と、笑いを堪えている直人が写っている。


「今のは駄目」


「そう?俺は好きだけど」


「私の顔がおかしいよ」


「でも灯だってわかるよ」


「わかればいい写真になるわけじゃないでしょ。もう1回」


 2枚目は、撮影の直前に直人の腕が下がり、2人の額から上だけが切れた。3枚目では、後ろを通った子どもが大きく画面へ入り、灯と直人より楽しそうな顔で写っている。


「直人くん、実は写真下手じゃない?」


「自分で撮るのが難しいんだよ」


「貸して。私が持つ」


 灯は携帯電話を受け取り、腕を伸ばした。直人が隣へ寄り、今度は2人とも画面を見ていることを確かめる。


「撮るね」


「待って。灯、髪が頬についてる」


 直人が画面ではなく灯を見て言った。風でほどけた髪が、頬の横へ細く張りついている。


「どこ?」


「こっち」


 直人が指で自分の頬を示す。灯が反対側へ触れたため、違うと笑った。


 灯の指が撮影の印へ触れた。


 画面には、間違った頬へ手を当てて笑う灯と、その灯を横から見ている直人。


「また失敗した」


 灯が消そうとすると、直人が手を伸ばした。


「それ、残して」


「直人くん、画面を見てないよ」


「誕生日の写真も、俺は灯を見てたんだろ」


「うん。真帆が撮ったのもそうだった」


「じゃあ、俺は写真を撮る時、灯を見るみたいだね」


 直人は恥ずかしそうに言いながらも、消してほしいとは言わなかった。


 灯は写真をもう一度見た。直人は自分が写っていることを忘れたように笑っている。その横にいる灯も、画面へ向けて作った笑顔ではなかった。


「私もこれ、好きかも」


「本当に?」


「直人くんが楽しそうだから」


「灯が笑ってたからだよ」


「じゃあ、2人とも楽しかった時の写真だね」


 その1枚を残し、最後にもう一度だけ撮った。今度は風も止まり、時計塔も池も、正面を向いて笑う2人もきれいに入った。


 最初の写真と最後の写真を、灯は直人へ送った。直人からも、失敗した3枚を含めて全部送ってほしいと言われる。


「目を閉じてるのも?」


「今日撮ったから、全部欲しい」


「あとで見て笑わない?」


「少しは笑うかも」


「じゃあ送らない」


「ごめん。笑わないから送って」


「今、少しはって言ったよ」


 灯が携帯電話を胸元へ隠すと、直人は取り上げることはせず、隣から画面を覗こうとする。2人で言い合いながら歩き、結局、灯はすべての写真を送ることにした。


     *


 直人が灯を連れて行きたいと思っていた喫茶店は、公園の北口を出てすぐの場所にあった。


 木の扉には小さな真鍮の鐘がつき、開けると高い音が鳴る。店内の壁は淡い茶色で、窓際には青や緑の色ガラスが嵌められていた。午後の光が色を通り、床へ細長い模様を落としている。


 奥の2人掛けの席へ案内され、向かい合って座った。冷房と天井の扇風機から届く風が、歩いて熱くなった腕をゆっくり冷ましていく。


 飲み物のページには、色の違うクリームソーダが並んでいた。


「青色のがある」


 直人が先に見つけ、メニューを灯へ向ける。海を思わせる濃い青色のソーダに、白いアイスと赤いサクランボが載っている。その隣には、昔からある緑色のメロンソーダがあった。


「直人くんはどれにする?」


「灯が青なら、俺は緑にしようかな」


「好きな色が飲み物になってるね」


「味は色と関係ないけどね」


「青は何味かな?」


「説明に書いてない。頼んでからのお楽しみみたいだ」


「なんだか怖くない?」


「飲み物だから大丈夫だよ」


「直人くんの『大丈夫』も映画の時に外れたよ」


 それでも灯は青を選び、直人は緑を注文した。飲み物と一緒に、店で作っているという小さなプリンを1つずつ頼む。


 運ばれてきた2つのグラスを並べると、窓から落ちる色ガラスの光まで重なった。灯は溶ける前に写真を撮り、直人も自分の側から同じものを撮る。


「今日、写真が増えたね」


「今までは4人でいることが多かったから、灯と出かけても2人の写真は撮ってなかったんだよね」


「映画の券とか、水族館のパンフレットは残ってるよ」


「俺も残してる。でも写真なら、その時の灯も写るから」


 直人は緑のソーダへストローを入れた。灯も青いグラスを混ぜ、底から上がる泡を見てから口へ運ぶ。


「何味?」


「甘いかな」


「なんだかそんな感じだね」


「少しだけ檸檬みたい。でも、青い味もする」


「青い味って何?」


「飲んだらわかるよ」


 灯がグラスを向こうへ押すと、直人は途中で手を止めた。


「これ、飲んでいいの?」


「味を聞いたのは直人くんでしょ」


「別のストローをもらおうか?」


「そこまでしなくてもいいよ。私も直人くんの緑、飲んでみたいし」


 灯には、互いの飲み物を少し味見するだけのことだった。直人はしばらく青いグラスと灯を交互に見てから、自分のストローでひと口飲んだ。


「本当に檸檬だ。青い味はわからないけど」


「ねぇ、直人くんのも貸して」


「うん、いいよ」


 今度は緑のグラスが灯の前へ置かれる。同じようにストローへ口をつけると、直人は自分のプリンへ視線を落とし、空になったストローの袋を指先で細く折った。


「こっちはメロンの味」


「普通のメロンソーダだからね」


「直人くん、どうして下向いてるの?」


「何でもない。プリンのサクランボ、いつ食べようか考えてた」


「プリンにサクランボは載ってないよ」


 直人が顔を上げるとサクランボはクリームソーダに載っており、プリンの上には生クリームだけだった。


「間違えた。ソーダのほう」


「さっきもう食べてたよ」


「……じゃあ、考えてなかった」


 何を気にしているのかわからないまま、灯は緑のグラスを返した。


 プリンを食べながら、店の壁にある小さな本棚を眺める。古い雑誌や絵本に混じり、背表紙の色褪せた推理小説が何冊か並んでいた。


「あっ!ねぇ直人くん、あれ読んだことある?」


 灯が指すと、直人は題名を確かめた。


「あるよ。最初に読んだ推理小説と同じ作家」


「最初は何を読んだの?」


「小学校4年生の時、熱を出して学校を休んだ日に、父さんが買ってきた本。暇だろうからって」


「怖くなかった?」


「殺人事件じゃなくて、学校から楽器がなくなる話だったから。途中で犯人が3人くらいいると思って、父さんに全部言った」


「3人も犯人がいたの?」


「1人だった。俺が言った3人は、全員違った」


「最初から当てられなかったんだ」


「最初だからだよ」


「今もあまり当たらないって言ってたよね」


「今は、当たらないほうが楽しめると思ってるから」


 直人は言い訳のように答えたが、初めて読んだ本の題名と、父親へ伝えた3人の名前まで覚えていた。


「その本、今も持ってる?」


「持ってるよ。何回も読んだから、表紙が少し外れかけてる」


「今度、見せて」


「貸してもいいけど、子ども向けだよ」


「直人くんが最初に好きになった本なら、私も読んでみたい」


 灯が言うと、直人はしばらく本棚を見たまま黙った。


「どうしたの?」


「さっき、俺がこれから好きになるものも覚えるって言っただろ」


「うん」


「今まで好きだったものまで知ろうとしてくれると思わなかった」


「直人くんも、私の昔のことを聞きたいって言ったじゃん」


「そうだけど、言われるとうれしいね」


「じゃあ、その本も次に会う理由にしよう」


「返す時に、また会えるから?」


「うん。ハンカチと同じ」


「それなら、すぐ返さなくてもいいよ」


「読み終わったら返すよ。でも次は、返すものがなくても会っていいって言ったでしょ」


「覚えてたんだ」


「今日言ったばかりだよ」


「灯が覚えててくれると、何でもうれしいんだよ」


 直人は笑い、残っていた緑のソーダを飲んだ。


     *


 店を出た時には、午後の光が少し傾き始めていた。


 それでも夏の空はまだ明るい。公園の木々から蝉の声が重なり、昨夜の雨でできた水溜まりを橙色に光らせている。


 2人は北口から池へ戻り、来た時とは反対側の道を駅へ向かった。木陰は長く伸び、風が通るたび葉の裏側が一斉に白くなる。


 直人は喫茶店を出てから、何度かポケットへ手を入れていた。ハンカチを落としていないか確かめているのだと思い、灯は3度目で尋ねた。


「ちゃんと入ってる?」


「何が?」


「ハンカチ。さっきから触ってるから」


「入ってるよ。別に、それを確かめてたわけじゃないんだ」


「じゃあ何?」


「……まだ決めてない」


「ポケットの中で決めるもの?」


「そうじゃなくて」


 直人は答えず、つないでいた手を少し握り直した。その掌は朝よりも温かく、歩く速度がわずかに遅くなる。


 池の端にある小さな橋へ差しかかる。ボート乗り場から離れているため人は少なく、欄干の下では水草が流れに合わせて揺れていた。


 橋を渡り終えたところで、直人が足を止めた。


「あのさ、灯」


「どうしたの?」


 直人はつないだ手を離さず、周囲を一度見た。少し離れた遊歩道を自転車が通り過ぎ、また2人だけになる。


「聞いてからにしたいことがあるんだけど」


「何?」


 直人は一度唇を結び、息を整えてから灯を見た。何を言われるのか考えているうちに、握られた指へ少し力が入った。


「キスしてもいい?」


 声は小さかった。それでも蝉の声に消えず、言葉の意味がそのまま胸へ届いた。


 灯はすぐに言葉が出ないでいる。


 直人と手をつなぐことには、もう慣れてきた。映画館では自分から掴み、駅前でも迷わず取れる。キスはその先にあるものとして考えたことはあっても、今日ここでするとは思っていなかった。


 直人は返事を急かさなかった。


「嫌ならしないよ。今日は聞きたかっただけだから」


 灯はつないだ手を見た。


 直人は優しい。今日も会う前から灯のために公園を調べ、ボートでは何度回っても笑い、喫茶店では自分の知らない昔のことを話してくれた。灯も、直人のことをもっと知りたいと思った。直人が自分とキスをしたいと思ってくれたことも、嫌ではなかった。


 恋人だからそうするものだというだけではない。その先に何があるのか、直人となら知ってもいいと思った。


「うん」


 答えると、直人の指が動いた。


「本当にいい?」


「いいよ。でも、私、どうすればいいの?」


「俺も初めてだから、ちゃんとはわからない」


「直人くんも?」


「そうだよ。誰としてると思ったの?」


「誰とも思ってないけど、聞いたから」


 緊張していたはずなのに、2人とも少し笑った。直人の肩から力が抜け、つないだ手の温度も先ほどまでと同じものへ戻っていく。


「目、閉じてもらっていい?」


「いつ?」


「今から」


「もう?」


「灯がいいなら」


 また断る時間をくれようとしているのがわかった。


 それでも灯の気持ちは変わらないでいる。


 直人の手を握ったまま、目を閉じた。


 視界が暗くなると、蝉の声と風の音が近くなった。欄干の下を流れる水の音が、先ほどまでよりはっきり聞こえる。直人の指がわずかに動き、手をつないでいることを確かめるように重なった。


 灯はただ待った。


 直人が息をする音が近づく。閉じた瞼の向こうで光が陰り、頬に触れる空気が少しだけ温かくなった。


 怖くない。


 嫌ではない。


 そう思ったのに、握っていた指が勝手に震えた。


 肩へ力が入り、息が細くなる。胸の奥から込み上げてきたものが何なのかわからないまま、閉じた瞼の隙間から涙がこぼれた。


「灯?」


 直人の声が離れた。


 灯が目を開けると、直人はすでに一歩下がっていた。唇は触れていない。つないでいた手も離し、驚いた顔で灯を見ている。


「ごめん。俺が急ぎすぎた」


「違うの」


 答えた声が震えた。頬を伝う涙を手の甲で拭っても、次の涙がすぐに落ちてくる。


「直人くんは悪くない。私がいいって言ったの」


「でも、泣いてる」


「わからない」


 何が悲しいのかも、何が怖かったのかもわからなかった。直人に嘘をついたつもりはない。目を閉じるまでは、本当にキスをしてもいいと思っていた。


「嫌だった?」


「違う。嫌じゃないの」


「じゃあ、怖かった?」


「それも、わからない」


 直人はそれ以上尋ねなかった。灯へ伸ばしかけた手を途中で止め、代わりに鞄から先ほど返されたばかりの白いハンカチを取り出した。


「これ、使って」


「でも、返したばかりなのに」


「また洗って返せばいいだろ」


 朝には次に会う理由になった言葉が、今は違う意味に聞こえた。


 灯はハンカチを受け取れなかった。受け取れば、直人の優しさにまで泣いてしまいそうだった。


「少し座ろう。落ち着いてから帰ろう」


「うん、帰る」


「送るよ」


「大丈夫」


「大丈夫じゃないだろ」


 責める声ではなかった。いつものように、灯が困らないように先のことを考えてくれている声だった。


 それが余計に苦しかった。


「ごめんなさい」


 灯は踵を返し、駅の方向へ走りだした。


「灯!待って!」


 呼ばれても止まれなかった。


 傾いた陽射しが涙で滲み、人の顔も道路の白線も輪郭を失った。駅前の人混みを抜け、信号を渡り、何度も手の甲で頬を拭う。走るたび白いブラウスが肌へ張りつき、胸の奥では息と一緒に謝る言葉だけが繰り返された。


 直人くんは悪くない。


 自分がいいと言ったのに、どうしてできなかったのだろう。


 足音が少し離れた後ろからついてきていた。直人は追いつこうとはせず、灯が転ばない距離を保っている。振り返ることはできなかったが、それさえわかってしまうことが苦しかった。


 住宅街へ入り、見慣れた屋根が並び始めたところで、走る速度が落ちた。息が切れ、脇腹が痛む。家まであと少しなのに、足はもう最初のようには動かなかった。


 角を曲がると、隣の家の門の前に陽流がいた。


 郵便受けから取り出した封筒を片手に持ち、家へ戻ろうとしている。陽流は足音に顔を上げ、灯を見るなり動きを止めた。


「灯?」


 名前を呼ばれただけで、止まりかけていた涙がまた溢れた。


 灯は陽流の前までたどり着き、その場で息を整えようとした。けれど喉が詰まり、うまく吸えない。


「どうした。何があった?」


 陽流が一歩近づく。灯の顔を覗き込み、泣いているとわかった途端、いつもの穏やかな声が低くなった。


「直人くんは、悪くないの」


「倉田と何かあったのか」


「違うの。直人くんはちゃんと聞いてくれたし、私もいいって言ったのに」


 そこまで言うと、また涙で言葉が途切れた。


 陽流は急かさなかった。灯の肩へ手を置きかけ、白いブラウスを握り締めている指を見て、触れずに下ろした。


「何を、いいって言ったんだ」


「キスしてもいいって」


 陽流の表情が消えた。


 少し離れて追ってきた足音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。直人は通りの入口で陽流の姿を見つけ、灯が家まで着いたことを確かめると、それ以上近づかずに引き返していた。


「私も、いいって言ったの。本当に嫌じゃなかったのに、できなかった。急に震えて、泣いちゃって……どうしよう」


 灯は涙を拭いながら、陽流を見た。


「キスできなくて、直人くんに悪いことしちゃった」


 陽流は何も言わなかった。


 灯が泣くたび一緒に困り、転べば先に傷を確かめてきた陽流が、今は慰める言葉をひとつも探そうとしない。握った拳だけが、身体の横で小さく震えていた。


「陽流?」


「……とりあえず、家に入れ」


「でも」


「いいから顔、洗ってこい。落ち着いたら話せばいいから」


 声は静かだった。けれど灯の知っている陽流の声ではなかった。


 陽流は灯が自宅の門を開けるまでその場に立っていた。玄関へ入る直前に振り返ると、まだ同じ場所にいる。灯がもう一度名前を呼ぼうとした時、陽流は顔を背けた。


     *


 自分の部屋へ戻り、灯は扉を閉めた。


 鞄を机へ置く。鏡の中には、朝と同じ白いブラウスと青いスカートを着た自分が映っていた。高い位置で結んだ髪は走ったせいで崩れ、頬には涙の跡が残っている。


 今日のために12分早く起きた。


 直人に変なところを見せたくなくて、服も髪も何度も確かめた。待ち合わせには遅れず、ボートでは一緒に笑い、クリームソーダを交換し、これから互いのことを覚えていこうと話した。


 楽しかったことは、どれも嘘ではなかった。


 それなのに最後のことだけが、何度考えてもわからない。


 灯は白いブラウスの胸元を掴んだ。


 映画の日、どちらを着ればいいか陽流に尋ね、陽流が選んだ服だった。今日も同じ服を着て直人へ会いに行き、帰ってきた自分を最初に見つけたのも陽流だった。


 窓の向こうで、隣の部屋の明かりが消える。


 さっきまで家の前にいた陽流は、いつのまにか姿を消していた。

直人はきちんと尋ね、灯の返事を待ち、震えたことに気づいた瞬間に止まりました。

灯も本心から頷きました。どちらも間違っていません。


それでも、灯の頭が理解するより先に、身体はずっとそこにあった答えを涙で知らせてしまいます。

次話「名前をつける夜」へ続きます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。