窓の向こうの明かり
灯の部屋に明かりがつけば、そこに灯がいるとわかる。
向かい合う2つの窓には、もう使わないと思っていた昔の合図が残っていました。
第19話 窓の向こうの明かり
灯と直人を残して角を曲がったあと、陽流は書店まで歩いた。
問題集を見たいと言ったのは、その場で思いついた理由だった。灯と帰る道は同じなのに、直人と2人で駅前へ行く約束をしていると知って、その隣を歩き続ける理由が見つからなかった。
自動扉を抜け、冷房の風に触れてから、陽流は参考書の並ぶ棚へ向かった。夏休み用の薄い冊子、苦手な単元だけを集めたもの、高校入試の基礎問題集。同じような表紙が並ぶ前で立ち止まったものの、欲しいものは決めていない。
ここまで来たのだから、何か1冊くらい見つけなければ、灯についた嘘がそのまま残る気がした。
数学の棚から問題集を取り、最初のページを開く。知っている公式と、まだ授業では習っていない記号が同じ見開きに並んでいた。夏休みの宿題より少し難しそうだったが、時間を使うにはちょうどいい。
そのまま会計へ向かいかけ、途中で足を止める。文房具売り場は書店の隣にある。灯と直人が行くと言っていたのは、そちらだった。
壁の時計を見ると、別れてからまだ10分も経っていない。今、店を出れば、駅前の通路で2人と会うかもしれなかった。
陽流は問題集を持ったまま、もう一度棚の奥へ戻った。
必要のない解説まで読み、表紙の違う2冊を見比べ、最初に選んだものを買った頃には30分以上が過ぎている。
*
家へ帰ると、居間のソファで遼介が昼寝をしていた。
テレビはついたままで、音量だけが小さく絞られている。テーブルには飲みかけの麦茶と、半分まで解いたクロスワードの雑誌が置かれていた。陽流が玄関を閉めた音で目を覚ましたらしく、遼介はソファの背から顔だけを上げた。
「よう。図書館へ行ったんじゃなかったのか?」
「行ったよ。その帰り」
「ずいぶん真面目なもの買ってきたな」
遼介は陽流の手にある書店の袋を見た。透明な部分から、数学の文字が透けている。
「夏休み4日目でもう受験勉強か。俺なんて中学の頃、8月25日までは宿題の存在を忘れてたぞ」
それでも当時の遼介は30日までに全て終わらせるほどの秀才だった。
「兄貴と一緒にしないで」
「陽流は昔から、追い込まれる前にやるからな。灯ちゃんのぶんまで手伝ってやってるんだろ?」
「今日は4人でやったよ」
「灯ちゃんと、彼氏と、あと誰だっけ。ほら
しっかりしてる女の子」
「小坂だね」
「そうそう。4人で宿題って、ちゃんと夏休みしてるじゃん」
遼介はそれ以上何も聞かず、またソファへ沈んだ。陽流も答えず、袋を持って2階へ上がる。
自室の机へ問題集を置き、窓のカーテンを半分だけ閉めた。外にはまだ夕方の光が残り、塀を挟んだ隣家の2階も見えている。灯の部屋に明かりはなかった。
問題集を開き、最初の問題を解く。難しいと思って選んだわりに、前半は今日、図書館で灯へ教えたものとほとんど変わらない。数字を移し、符号を変え、答えまで書いてから次へ進む。
3ページ目まで終えた頃、窓の向こうに明かりがつく。
帰ってきたのだとわかっても、陽流は顔を上げなかった。カーテンを閉めることもしなかった。ただ、問題を読みながら、先ほどまでなかった光が視界の端にあることだけを意識した。
灯は今頃、直人と行った文房具店のことを思い出しているかもしれない。あるいは、次に会う約束をしているのかもしれなかった。
考えないように次の式を書いたところで、数字を1つ間違えた。消しゴムで消し、書き直す。今度は最後の答えだけが合わない。
図書館で灯へ教えた時には気づけた間違いを、自分の問題では2度も見落としていた。
陽流は鉛筆を置き、窓のほうを見た。
灯の部屋のカーテンは開いたままだったが、机へ向かう姿までは見えない。ただ明かりだけが、そこにいることを伝えている。
*
翌朝、灯が目を覚ました時には、時計の数字が9時を過ぎていた。
昨夜は直人との通話を終えたあとも、借りた本を少しだけ読んだ。少しだけのつもりが章の終わりまで進み、電気を消したのは日付が変わる頃だった。
枕元の携帯電話には、真帆からメッセージが届いている。
――今日は自分でやってね。
送られた時刻は8時12分だった。灯がまだ眠っていることまで予想し、起きた頃に最初に目へ入るよう送ったのかもしれない。
その下には、直人からの文章もあった。
――昨日、最後まで話してくれてありがとう。寝不足になってない?
寝不足になっているのは、通話を切ったあとまで本を読んだからだ。灯は起きていることと、直人のせいではないことを返し、ベッドから降りた。
窓際には、洗ったハンカチが乾いていた。
白い布の端に残っていた青い染みは、朝の光に透かしてもほとんどわからない。角を合わせて2度折り、小さな四角にする。次に会う時まで忘れないよう、学校の鞄ではなく、普段使う青い鞄の内ポケットへ入れた。
着替えて朝食を済ませ、机へ夏休みの宿題を開く。
昨日の図書館では3人の顔を順番に見たと真帆に言われた。今日は目の前に誰もいない。質問ノートも真帆が持って帰ったため、自分で考えるしかなかった。
灯は陽流にもらった青いシャープペンシルを出し、数学の続きへ取りかかった。
最初の2問は、昨日教わった方法で解けた。3問目は途中の符号を間違えたが、答えを確かめる前に自分で気づき、消して直す。誰にも聞かずに正しい数字まで辿り着けたことがうれしくて、余白へ小さな丸を描いた。
4問目で筆が止まる。
文章を2度読み、教科書の似た例題を探す。数字は違うが、同じような式が載っていた。その順番どおりに書いたつもりなのに、冊子の後ろにある答えと合わない。
もう一度消し、式を最初から書き直す。今度はさっきと違う答えになり、それも正解ではなかった。
携帯電話へ手を伸ばしかけ、真帆から届いた文章を見る。
――今日は自分でやってね。
「やってるよ」
珍しくむくれながら画面へ言い返してから、灯は窓の外を見た。
隣家の2階では、陽流の部屋のカーテンが開いている。窓際の机へ座る姿は見えないが、夏休みにわざわざ早起きして出かける予定があるとも聞いていない。
灯は陽流との画面を開き、問題の写真を送った。
――答えが2回とも違う。
1分も待たずにくる返事。
――2行目でマイナスを掛ける場所が違う。
どこを指しているのかわからず、灯は自分の式を見直した。
――2行目にマイナスが3つある。
今度は、写真へ赤い丸をつけた画像が返ってくる。
――真ん中。
言われた場所を直すと、答えと同じ数字になった。
――できた。
送ったあと、昨日と同じように青いシャープペンシルを立てて見せたくなった。写真に撮ろうかと考えたところで、階下から母に呼ばれる。
居間へ下りると、台所の調理台に大きな西瓜が載っていた。半分に切られ、赤い断面に黒い種が並んでいる。昨日、知り合いから1玉もらったものの、家だけでは食べ切れないらしい。
「灯、これ、お隣へ持っていってくれる?」
母は半分の西瓜へ透明なラップをかけ、丸い盆へ載せた。
「今から?」
「冷蔵庫へ入らないから、早いほうがいいでしょ。陽流くんのところなら誰かいると思うけど」
「いるよ」
「聞いたの?」
「さっき返事が来たから」
灯は盆を受け取り、いったん自分の部屋へ戻った。机の上にある数学の冊子と筆箱を見て、少し迷う。西瓜を届けるだけなら必要のないものだった。
それでも、答えが合ったところを直接見せたくなり、冊子と筆箱を片腕へ重ねた。
*
隣家の呼び鈴を押すと、遼介が玄関を開けた。
まだ午前中なのに、首へ細いタオルを掛け、片手には空のグラスを持っている。灯を見るなり少し驚き、それから昔と変わらない顔で笑った。
「灯ちゃん、久しぶり。玄関で見るより、窓越しに見かけるほうが多くなったな」
「お久しぶりです。お母さんが、西瓜を半分どうぞって」
「助かる。うちも母さん以外は食べるから、今日中になくなるよ」
「遼介くん、まだ西瓜の種を飲み込こむとどうなるかって話信じてるの?」
「それ、いつの話だよ。もう高校生だぞ」
「小学生の時、飲んだらお腹から芽が出るって言ってた」
「そら言ったのは俺じゃなくて陽流だよ」
灯が本当か確かめようと階段のほうを見ると、2階から扉の開く音がした。陽流が顔だけを覗かせ、玄関にいる灯を見下ろす。
「何しに来たの?」
「西瓜を持ってきたの。それからね、数学できたよ」
灯が冊子を持ち上げると、陽流は少し呆れた顔になった。
「西瓜を届ける人が、なんで宿題まで持ってるんだ」
「ついでかな」
「どっちがついで?」
「んー、どっちも」
遼介は2人のやり取りを聞きながら盆を受け取り、居間へ向かった。
「陽流、せっかく来たんだから見てやれよ。西瓜はあとで切って持っていくから」
「遼介くん、私のぶんも大きくしてください」
「半分持ってきた人が、こっちで食べて帰るのか?」
「うちにも半分あるけど、今食べたいから」
「昔から変わらないな、灯ちゃんは」
笑いながら居間へ消える背中を見送り、灯は靴を脱いだ。陽流はもう階段の上からいなくなっている。帰れという意味ではないと判断し、灯は冊子と筆箱を持って2階へ上がった。
陽流の部屋の扉を1度叩く。
「入るね」
「まだ返事してないけど」
「ノックはしたよ」
「返事を待つためにするんだよ」
扉を開けると、陽流は机の前へ戻るところだった。
部屋へ入るのは久しぶりだった。小学生の頃には互いの家を行き来し、陽流の机で一緒に絵を描いたり、床へカードを広げたりしていた。中学生になってからは、灯の家に4人で集まることはあっても、陽流の部屋へ2人だけで入る機会はほとんどない。
机も本棚も、置かれている場所は昔と同じだった。けれど机の上から玩具がなくなり、本棚には教科書や参考書が増えている。ベッドも、以前より少し狭く見えた。
「部屋、小さくなった?」
灯が見回すと、陽流は机の椅子を引いた。
「灯が大きくなったんだろ」
「陽流の部屋なのに、私が大きくなると狭くなるの?」
「小さい頃より物の見え方が変わったってこと」
「最初からそう言ってよ」
机には、昨日書店で見たらしい新しい問題集が開かれていた。最初の数ページには鉛筆で式が書き込まれ、間違えたところだけが薄く消されている。
「本当に問題集を買ったんだ」
「嘘だと思ってた?」
「少しだけ。私たちと帰りたくないから、書店へ行くって言ったのかと思った」
陽流の手が、机の端へ置いた鉛筆を揃える途中で止まった。
「直人と2人で行く約束だったんだろ」
「そうだけど、陽流も途中まで同じ道だったじゃん」
「俺がいたら2人にならないだろ」
「真帆もいたら4人だったよ」
「小坂は帰る方向が違う」
「じゃあ3人」
「灯、何人に増やしても、直人が2人で行きたかったことは変わらないよ」
言われて、休憩中の直人の声を思い出した。嫌なら4人でもいいと言いながら、本当は2人で行きたかったのだろう。陽流は聞こえていないと思っていたのに、そのことまでわかっていた。
「陽流は、直人くんの気持ち、よくわかるね」
「それくらいはわかるよ」
陽流は灯の冊子へ手を伸ばし、話を終わらせるように机の中央へ置いた。
「できたところ、見せに来たんだろ」
「うん。ここ」
灯が赤い丸をつけてもらった問題を開く。陽流は式を上から順に見て、最後の答えまで確かめた。
「合ってる」
「写真を見ただけで直せたよ」
「俺が場所を教えたからだろ」
「でも、書き直したのは私」
「じゃあ半分は灯がやった」
「もっと褒めて」
「朝から宿題を開いたのは偉いと思う」
陽流は仕方なく言い、冊子を返した。灯は満足して、机の空いている場所へ筆箱を置く。
「次の問題も見て」
「見せるために持ってきたんじゃないの?」
「ついでに教えてもらおうと思って」
「今日は1人でやるんじゃなかったのかよ」
「真帆にも同じこと言われた」
「言われたのに来たんだ」
「陽流に聞くのはいいの」
「どうして?」
理由を尋ねられ、灯は椅子へ座りながら考えた。
図書館で陽流へ教わるのと、隣の家まで来て教わるのは同じではない。真帆が見たら、今日は自分でやるという約束を守っていないと言うだろう。それでも灯には、誰かを呼び出して手伝ってもらっているという感じがしなかった。
「だって、陽流は陽流だから」
考えた末に出たのは、以前にも真帆へ言ったことのある答えだった。
陽流は何も返さなかった。
「理由になってない?」
「なってないよ」
「でも、小さい頃からわからないことは陽流に聞いてたでしょ。だから、陽流に聞くところまでは自分でやったことにしていいの」
「それ、小坂には言わないほうがいいよ」
「どうして?」
「問題集をもう1冊増やされるから」
想像すると本当にありそうで、灯はこのことを真帆には黙っておくと決めた。
陽流は自分の問題集を閉じ、灯の冊子を机へ広げた。椅子は1つしかないため、灯が座り、陽流は隣へ立ったまま教科書の例題を指す。
「さっきと同じ。まず、この括弧を外す」
「それはわかるよ。その次がわからないの」
「まだ書いてないのに、どうして次がわからないってわかるんだよ」
「そこまで何回もやったから」
「じゃあ、わかるところまで書いて」
灯は青いシャープペンシルで式を書いた。陽流の指が紙の上を動き、数字の下で止まる。昨日の図書館と同じ距離なのに、周りへ気をつかって声を抑える必要がないぶん、説明は近く聞こえた。
「そのシャープペンシル、ずっと使ってるんだ」
陽流が手元を見て言った。
「大事に使うって言ったでしょ。昨日、替え芯も買ったよ」
「もうなくなったの?」
「まだあるけど、直人くんと文房具店へ行った時に見つけたから」
「そうなんだ」
「白い星のところ、少し汚れたから、あとで拭こうと思ってる」
灯が軸を回して見せると、陽流は汚れを探すように見た。けれど何も言わず、次の数字を指す。
「ここ、また符号が違う」
「今はシャープペンシルを見てたんじゃないの?」
「見てても間違いはわかるよ」
「そういうところだけ、ちゃんと見つけるよね」
灯は消しゴムを使い、数字を書き直した。
*
2ページ進んだところで、遼介が西瓜を持ってきた。
大きな皿に三角形の西瓜が4切れ並び、赤い果肉の表面に冷たい水滴が浮かんでいる。遼介は机の上を見て、本当に勉強していたことへ感心したように眉を上げた。
「灯ちゃんが来ても勉強してるなんて、陽流も真面目になったな」
「私が勉強しに来たんです」
「西瓜を届けに来たんじゃなかったのか?」
「両方です」
「どっちも、ついでらしいよ」
陽流が言うと、遼介は笑いながら皿を机へ置いた。
「種はちゃんと出せよ。飲み込んだら、お腹から芽が出るからな」
「やっぱり遼介くんが言ったんじゃないですか」
「今のは陽流が言ったことを思い出させてやっただけ」
「俺、そんなこと言ってないよ」
「言った。灯ちゃんが泣きそうになって、庭へ種を埋めればお腹から出ていくって説明しただろ」
陽流は思い出したように顔を伏せた。灯には、種を飲み込んだことより、そのあとのほうがぼんやりと残っている。
湊家の庭に穴を掘り、2人で西瓜の種を埋めた。翌朝には芽が出ていると思い、何日も水をやった。けれど何も生えず、陽流の母が育てていた紫陽花の根元だけが毎日濡れていた。
「陽流、一緒に埋めてくれたよね」
「灯が本当に泣きそうだったから」
「芽が出るかもって、陽流も毎朝見てたじゃん」
「あれは灯が水をやりすぎてないか確認してたんだよ」
「でも、出なかった時、来年もう1回やろうって言った」
「覚えてない」
陽流は西瓜を1切れ取り、種の少ない端へかじりついた。否定する時に目を合わせないのは、昔から変わらない。
灯も1切れ持ち、先端から食べた。冷えた果汁が口の中へ広がり、唇の端から落ちそうになる。慌てて皿へ顔を寄せると、遼介が机の横へ箱から出したティッシュを置いた。
「灯ちゃん、服に垂らすなよ。陽流の部屋で西瓜の染みまで作ったら、今度は何を借りるかわからないからな」
「昨日、直人くんのハンカチを汚しただけです」
話してから、遼介には何も説明していなかったことに気づいた。
「そういうことか。彼氏のハンカチなら、ちゃんと洗って返さないとな」
「もう洗いました。次に会う時に返します」
遼介は一度だけ陽流を見たが、何も言わなかった。空気を変えるように残りの西瓜を指し、自分のぶんを1切れ持って部屋を出ていく。
扉が閉まると、雨の前のような静けさが残った。
「直人くん、昨日、アイスが手に垂れた時に貸してくれたの」
尋ねられてはいないが、灯は続きを話した。
「洗ったら、青い染みもほとんど落ちたよ。返すために、次に会う約束ができたみたいで、ちょっとうれしかった」
「よかったじゃん」
「夜も電話したの。宿題が終わってからも、話すことを決めないまま話してた」
陽流は西瓜の種を指先で取り、皿の端へ置いた。
「付き合ってるなら、そういうこともするんじゃない?」
「陽流は、誰かと付き合ったことないのに知ってるの?」
「それくらいは想像できるよ」
「私、付き合う前は、何を変えたら恋人になるのかわからなかったんだ。でも、直人くんと付き合うと、次に会う理由とか、話す時間とかが少しずつ増えていくみたい」
「楽しい?」
陽流が尋ねた。
「うん。昨日も楽しかったよ」
灯が答えると、陽流は小さく頷いた。
「それならよかった」
声はいつもと変わらなかった。けれど西瓜を食べ終えても、皿へ置いた種をしばらく見ていた。
「陽流は、昨日、書店へ行って楽しかった?」
「問題集を買っただけだよ」
「30分くらいいたでしょ」
「どうして知ってるの?」
「私たち、文房具店に30分くらいいたから。帰る時も陽流を見なかったし、家に着いた頃もまだ帰ってなかった」
「俺の部屋、見たの?」
「明かりがついてるか見ただけ。いつも見えるから」
陽流は窓の向こうへ目をやった。
昼間は灯の部屋のカーテンが開き、机の端と、壁に貼られた小さな写真だけが見える。互いの部屋が向かい合っていることを意識しなくなったのは、いつ頃からだっただろう。見ようとしなくても明かりがついたことがわかり、消えれば眠ったのだと思う。それほど長く、同じ場所に窓があった。
「本当に、いつも見てるんだな」
「陽流も見るでしょ」
「たまに」
「昨日も?」
陽流は答えず、灯の冊子を指した。
「ほら、西瓜を食べ終わったなら、あと1問やるよ」
「今、質問に答えてない」
「答えてないって、宿題をしに来たんだろ」
「西瓜も届けに来たよ」
「わかったわかった。どっちでもいいから、手を拭いて」
渡されたティッシュで指を拭き、灯は青いシャープペンシルを持ち直した。
*
午後2時を過ぎた頃、窓の外が急に暗くなった。
朝から白く光っていた空を、低い雲が覆っている。遠くで雷が鳴り、少し遅れて風が庭木を大きく揺らした。開けていた窓から湿った空気が入り、机に置いた冊子の端を持ち上げる。
「雨、降るかな」
灯が窓へ近づくと、陽流も空を見た。
「もう向こうで降ってるよ」
住宅の屋根の先が、白く霞み始めている。雨の境目が道を渡り、こちらへ近づいてくるようだった。
携帯電話が続けて震えた。
母から、庭へ干してある洗濯物を取り込むよう頼む文章が届いている。
「帰らなきゃ」
「雨が来る前に急いだほうがいいよ」
冊子と筆箱を鞄へ入れる時間も惜しく、灯は片脇へ抱えた。部屋を出て階段を下りると、遼介が玄関の外を見ながら透明な傘を差し出す。
「持っていけ。もう降り始めてるぞ」
「隣だから大丈夫ですよ」
「いや、隣でも濡れる時は濡れるだろ」
言い合っている間に、屋根へ雨粒が当たり始めた。最初は間を空けていた音がすぐに重なり、庭の石を濃い色へ変えていく。
「ほら、借りてきな」
遼介に傘を押しつけられ、灯は礼を言って玄関を出た。
門から自宅までは数歩しかない。それでも傘を開いた瞬間には雨脚が強まり、透明な面を大きな雫が流れた。冊子を胸元へ抱え、門柱を回り込む。自宅の玄関へ着いた時には、足元と肩の片側が濡れていた。
振り返ると、湊家の玄関に陽流が立っている。
「もう着いたよ」
雨音に負けないよう声を張ると、陽流は見ればわかるというように片手を上げた。
灯も手を振り、家へ入った。
母と2人で洗濯物を取り込む。最後のタオルを外したところで雨が庭を白く覆い、窓を閉めても大きな音が室内まで届いた。
借りた傘は玄関で開いたまま乾かす。西瓜を渡しに行っただけのはずなのに、数学が4ページ進み、西瓜を食べ、傘まで借りて帰ってきた。
「ずいぶん長くかかったね」
母に言われ、灯は濡れた冊子の端をタオルで押さえた。
「陽流に宿題を教えてもらってたの」
「昨日もみんなでやったんじゃなかった?」
「今日は昨日の続き」
「夏休みに入ってから、学校がある時より勉強してない?」
「それは、宿題が多いからだよ」
自分から問題集を持って隣家へ行ったことは言わず、灯は部屋へ戻った。
窓の向こうでは、陽流が自分の部屋の窓を閉めている。目が合うと、灯は借りた傘が濡れたことを身振りで伝えようとしたが、うまく通じなかった。陽流は首を傾げ、やがて諦めたようにカーテンを引いた。
*
夜になっても、雷雨は続いた。
夕食を終え、入浴を済ませた灯は、机で直人から借りた本を読んでいた。窓の外が光るたび、少し遅れて低い音が響く。映画のように何かが現れるわけではないとわかっているため、怖くはなかった。
直人からは、雷が近いけれど大丈夫かとメッセージが届いている。
――大丈夫。映画の大きな顔より平気。
返すと、笑っている顔の絵文字が届いた。
――まだあの場面のこと言ってる。
――直人くんが、少ししか怖くないって言ったから。
――今度は本当に怖くない映画にする。
次に会う時の話が始まり、灯は借りたハンカチを入れた鞄へ目をやった。返すだけなら学校が始まってからでもいい。それでも夏休みのうちに会いたいと言われることがうれしく、空いている日を思い出していると、窓の外がひときわ明るく光った。
ほとんど間を置かず、大きな雷鳴が響く。
部屋の照明が一度揺れた。
次の瞬間、すべての明かりが消えた。
扇風機の音も、階下から聞こえていたテレビの声も同時に止まり、雨だけが急に大きくなったように感じられる。本の上に置いていた携帯電話の画面だけが、暗い部屋で灯の手元を照らしていた。
「灯、大丈夫?」
階下から母の声がする。
「大丈夫。携帯あるよ」
返事をし、画面の明かりを頼りに窓へ近づいた。
通りの街灯も、向かいの家々も暗い。自宅だけではなく、周辺一帯が停電しているらしい。昼間まで明るかった陽流の部屋も、カーテンの向こうまで黒く沈んでいた。
明かりが見えないと、隣家がいつもより遠く感じられる。
灯は携帯電話の照明をつけ、窓ガラスへ向けた。
白い光を手で3度隠す。
小学生の頃、窓を見てほしい時に決めた合図だった。3回で「窓を見て」。2回なら「見てる」。何度も間違え、どちらが何回だったかで喧嘩したのに、いつの間にか2人とも同じ意味で使えるようになった。
3回目の光を消し、暗い窓の向こうを待つ。
何も起きない。
携帯電話を持っているのだから、普通にメッセージを送ればいい。もう中学生なのに、停電しただけで昔の合図を使ったことが急に恥ずかしくなった。
灯が照明を下ろしかけた時、陽流の部屋に小さな光が現れた。
1度消え、もう一度つく。
2回。
――見てる。
意味が言葉のように伝わり、灯は暗い部屋で笑った。
陽流との画面を開く。
――覚えてたんだ。
すぐに既読がついた。
――灯が3回やったから。
――停電したね。
――見ればわかるよ。
――雷、怖くない?
――灯じゃないんだから。
――私も怖くないよ。映画より平気。
そこで返事が少し途切れた。陽流の携帯電話の光は、窓際に残っている。画面へ文字を打っているのか、こちらからも時々明るさが変わった。
――じゃあ、なんで呼んだの?
尋ねられ、灯は暗い窓を見た。
停電したから。昔の合図を思い出したから。陽流も覚えているか、試してみたかったから。どれも間違いではないが、最初に光を向けた時に感じたこととは少し違う。
灯は文字を打った。
――電気が消えたら、陽流の部屋が見えなくなったから。
送ってから、返事が来るまでに時間がかかった。
窓の向こうでは、携帯電話の光だけが消えずに残っている。陽流が何を考えているのかは、暗くて見えなかった。
やがて短い文章が届いた。
――いるよ。
灯はもう一度、照明を2回点けたり消したりした。
決めた意味にはない回数だったが、陽流の部屋からも同じ2回が返ってくる。
次の瞬間、天井の照明がついた。
扇風機が回り始め、階下ではテレビの音と、電気が戻ったことを喜ぶ家族の声が重なる。通りの街灯も順番に明るくなり、雨の筋を白く浮かび上がらせた。
陽流の部屋にも明かりが戻った。
窓際に立つ姿が見える。顔までははっきりしないが、灯が大きく手を振ると、陽流も片手を上げた。
携帯電話が震えた。
直人からだった。
――返事が止まったけど、停電した?
――したよ。今戻った。
――大丈夫だった?
――うん。陽流と昔の合図をしてた。
――昔の合図?
灯は、窓へ光を3回向けると陽流が2回返すことを説明した。小学生の頃、携帯電話を持っていなかったために決めたこと。回数を何度も間違え、結局窓を開けて話した年もあったこと。
直人からの返事は、少し間を置いて届いた。
――湊、今でもすぐわかったんだ。
――うん。覚えてた。
――さすが幼なじみだね。
その文章は、教室で真帆が言う時よりも少し静かに見えた。けれど続けて、今度の土曜日は空いているかと尋ねられる。
――空いてるよ。ハンカチも返すね。
――それもあるけど、宿題じゃない日に会う約束しただろ。
灯は昨日、駅前でつないだ手を思い出した。
――うん。今度は何する?
2人で相談し、駅の反対側にある大きな公園へ行くことになった。池の周りに木陰が多く、近くには直人が行ってみたい喫茶店もあるらしい。雨が降った場合は、駅ビルの中で本を見ようと決めた。
約束がまた1つ増えた。
やり取りを終え、灯は携帯電話を机へ置いた。
停電していたのは10分にも満たなかった。電気が戻れば、窓の向こうにはいつもの明かりがある。陽流ももう机へ戻ったらしく、人影は見えなくなっていた。
灯は本を開き直し、直人との約束を思い出しながら栞を挟んだ場所へ目を落とした。
机の上には、陽流からもらった青いシャープペンシルがある。鞄の中には、直人へ返すための白いハンカチが入っている。
直人とは、これから増えていく約束があった。
陽流とは、もう使わないと思っていた合図が残っていた。
どちらも同じ夏の夜にあり、灯にとってはどちらも大切だった。
窓の外では雷が遠ざかり、雨の音だけが静かに続いていた。
直人とは、これから増えていく約束がある。
陽流とは、言葉にしなくても残っていた合図がある。
停電で明かりが消えた時、灯が確かめたくなったのは、陽流がまだそこにいることでした。
次話「これから覚えること」へ続きます。




