夏休み4日目
夏休み4日目。
1人では止まってしまった宿題を口実に、4人がもう一度集まります。
夏休み4日目の午前10時、灯は机の上へ頬をつけ、開いた宿題の冊子を横から眺めていた。
最初の3日間は、宣言どおり真面目に取り組んだ。英語の単語を2ページ書き、国語の漢字を埋め、社会の問題も教科書から答えを探せるところまでは終わらせた。しかし、やりやすいものから手をつけた結果、残っているページには数学の文章題や、途中式を書かなければ解けない問題ばかりが並んでいる。
右手には、誕生日に陽流からもらった青いシャープペンシルが握られていた。芯を出して問題文へ向けても、数字は少しも動いてくれない。試しに式らしいものを書き、違う気がして消す。紙の同じ場所だけが白く毛羽立ち、消し屑が机の上へ増えていった。
「3日もやったんだから、今日は休んでもいいよね」
誰もいない部屋で言ってみたが、机の端へ置いた携帯電話は返事をしなかった。
終業式の日、真帆には4日目から夏休みを楽しみ、そのまま8月の終わりまで楽しみそうだと言われた。今日休めば、明日も同じ理由で休む気がする。かといって、わからない問題を見つめ続けることを夏休みと呼びたくはなかった。
灯は身体を起こし、真帆との画面を開いた。
――宿題しよう。
送ってから1分も経たないうちに返事が来る。
――昨日までやってたんじゃないの?
――1人でやるのは昨日まで。
既読がついたあと、しばらく返事がなかった。呆れられているのだと思い、灯が数学の問題を写真に撮って追加で送ると、今度は文字ではなく着信が表示された。
『灯、夏休みって何日あるか知ってる?』
「40日くらい」
『そのうち3日やっただけで、どうして十分な顔ができるの?』
「十分とは言ってないよ。真帆と一緒なら、もう少しできるかもしれないと思ったの」
『数学を私に聞こうとしてる?』
「真帆だけじゃなくて、みんなでやろうよ。直人くんと陽流も呼んで」
『結局、教えてくれる人を増やしたいんだね』
電話の向こうで小さく息をついたあと、真帆は午後1時に市立図書館へ来るよう言った。2階の窓際には4人で使える大きな机があり、夏休みでも奥の閲覧席なら比較的空いているらしい。
「真帆、よく行くの?」
『たまにね。静かだし、窓から木が見えるから』
「じゃあ、直人くんと陽流にも聞いてみる」
『先に宿題を鞄へ入れて。連絡することに夢中になって、忘れてきそうだから』
「さすがに忘れないよ」
答えながら、灯はベッドの上へ置いた鞄を振り返った。中には財布とハンカチしか入っていない。通話を切る前に冊子と筆箱を入れると、真帆は音だけで確かめたように「よくできました」と言った。
*
市立図書館の自動扉を抜けると、外の蝉の声が急に遠くなった。
高い天井の下には紙と木の匂いが混ざり、貸出機の操作音や、受付で本の返却日を確かめる声が低く響いている。冷房はカラオケ店ほど強くなく、陽射しを浴びてきた腕の表面から、ゆっくり熱だけを取り去っていった。
1階の案内板で閲覧席の場所を確かめ、灯は階段を上がった。2階の奥には大きな窓が連なり、その向こうで街路樹の葉が夏の光を受けている。真帆は窓際にある6人掛けの机へ座り、すでに国語の宿題を開いていた。
背中までまっすぐ伸びた黒髪を下ろし、前髪の片側を小さな銀色のピンで留めている。窓から射す光が髪の表面を細く滑り、伏せた横顔と血色のよい白い肌を柔らかく浮かび上がらせていた。
灯は向かいへ座るより先に、その髪を見つめた。
「真帆、髪きれいだね」
ページをめくりかけた真帆の指が止まる。
「……急にどうしたの?」
「窓の光で光ってたから。黒くて、真っ直ぐで、きれいだなって」
「そういうの、今言わなくてもいいでしょ」
「あとで言ったら忘れそうだもん」
灯が隣へ回り、髪の先へ触れてもいいか尋ねると、真帆は教科書へ視線を落としたまま「引っ張らないなら」と答えた。指先でひと房だけ持ち上げる。見た目より柔らかく、灯の指の間を真っ直ぐ滑って元の場所へ戻った。
「やっぱりきれい」
「もうわかったから。宿題を出して」
真帆は髪を反対側の肩へ逃がすように払い、筆箱の位置を直した。冷房の効いた室内にいるのに、ピンを留めた側の耳だけが少し赤い。
「真帆、耳――」
「灯、図書館では静かにね」
いつもより早い声で遮られ、灯は笑いを堪えながら向かいの椅子へ座った。
間もなく、階段のほうから直人と陽流が一緒に歩いてきた。入口で会ったらしく、直人は社会の教科書と宿題の冊子を片腕へ重ね、陽流は問題集まで入っているらしい重そうな鞄を肩へ掛けている。
「灯、本当に4日目で止まったんだ」
机の上にほとんど進んでいない数学を見つけ、直人が声を潜めて笑った。
「止まってないよ。わからないところを残してたの」
「全部わからないところに見えるけど」
陽流が灯の冊子を覗く。
「今からわかるようになるんだからいいの。2人とも早く座って」
灯が自分の右隣を直人のために空けると、直人はそこへ教科書を置いた。陽流は一瞬だけ残った席を見てから、直人の向かいへ鞄を下ろす。窓側に真帆、その向かいに灯。灯の隣に直人が座り、向かいには陽流がいる形になった。
4人が同時に教材を広げると、6人掛けの机でも狭く感じられた。
「ここ、話してもいい席なの?」
直人が周囲を見ながら尋ねる。
「相談するくらいなら大丈夫。でも、倉田くんがカラオケで歌ってた時の声は駄目」
「図書館で歌わないよ」
「灯も、わからないたびに大きな声を出さないでね」
「出さないよ」
真帆は2人をまだ信用していないらしく、小さなノートを1冊取り出して机の中央へ置いた。表紙を開き、最初のページへ『質問』と書く。
「何度も話すと迷惑になるから、急がないものはここに書こう」
「学校の授業より厳しくない?」
「静かにできない人が2人いるから」
「誰と誰?」
灯が尋ねると、真帆は答えずノートを灯の前へ滑らせた。
*
最初の質問を書いたのは、やはり灯だった。
――問3が最初からわからない。
数学のページ番号も添えて、ノートを向かいの陽流へ押す。陽流は問題を読むと、灯の文章の下へ式を3行書いた。数字の移動を矢印で示し、符号が変わるところには小さな丸をつけて返してくる。
――字が小さい。
灯が書き足すと、陽流は同じ数字を少し大きく書き直した。
――数字は大きくしても答えは変わらない。
横から読んでいた直人の肩が揺れた。笑い声は出なかったものの、灯は見逃さず、さらにノートへ書く。
――今笑ったのは直人くん。
直人は自分の名前の横へ矢印を引いた。
――湊の書き方が悪い。
陽流がすぐ下へ加える。
――教わる人が言うことじゃない。
3人の間を行き来していたノートを、真帆が横から取り上げた。
――宿題をしてください。
丁寧な字で1行だけ書き、最後に時刻まで添えている。灯が顔を上げると、真帆は国語の冊子へ目を落としたまま、口元だけをわずかに緩めていた。
筆談をやめ、灯は陽流の式を自分の冊子へ写した。途中で数字を1つ書き間違えると、向かいから伸びてきた陽流の指が、その場所を軽く叩く。声を出さずに消しゴムを使い、もう一度計算する。今度は冊子の後ろにある答えと同じ数字になった。
灯が青いシャープペンシルを立て、小さく両手を上げると、陽流は何も言わずに頷いた。その視線が灯の手元へ一度だけ留まる。贈ったシャープペンシルを使っていることに気づいたのだとわかったが、図書館なので灯も声には出さず、軸を指先で回して見せた。
隣の直人が、灯の教科書の下へ重ねてあった読書感想文用の本に気づいた。
「その本、持ってきてくれたんだ」
直人が耳元へ近づき、周囲へ届かない声で囁く。
灯が開いていたのは、誕生日に直人からもらった青いブックカバーをつけた映画の原作だった。夏休みの間に読み終え、感想文へ使うつもりでいる。
「まだ最初のほうだけどね。映画と違うところ、見つけたよ」
「俺も読み直そうかな。灯が書き終わったら、感想見せて」
「恥ずかしいから嫌」
「俺が貸した本なのに?」
「本と感想は別でしょ」
声を抑えて言い合っていると、真帆が自分の唇の前へ人差し指を立てた。灯と直人は同時に口を閉じる。目が合い、それだけでまた笑いそうになったため、灯は本へ顔を伏せた。
鞄の持ち手では、真帆からもらった白い兎のキーホルダーが揺れている。青いシャープペンシルと、青いブックカバーと、小さな兎。3人からもらったものをすべて持ってきたことに、灯はその時初めて気づいた。
どれも自分が好きだと話したものだった。
陽流は灯が好きな色を覚え直し、直人は灯が欲しかった本を探し、真帆は灯が兎を好きなことを知っていた。3人とも違う形で自分を見てくれている。そのことが嬉しくて、宿題とは関係のない3つを順番に眺めていると、向かいからノートが戻ってきた。
――次、問4。
陽流の字だった。
灯は現実へ戻され、冊子の次の問題を開いた。
数学が3ページ進んだところで、社会へ移る。直人は自分の椅子を灯のほうへ少し寄せ、教科書の年表を指で辿った。以前の勉強会でも教えてもらったが、出来事を人の名前ではなく順番でつなぐ説明は、学校の授業より頭へ入りやすい。
「ここからここまで、1つの話だと思えばいいんだよ」
直人が小声で説明し、ノートへ短い矢印を書く。灯はその続きを青いシャープペンシルでつないだ。
「直人くん、この時代に生まれても詳しそう」
「生まれてないから詳しいんだよ。実際にいたら、何が起きてるかわからないと思う」
「真帆ならわかりそう」
「どうして私を見るの?」
「偉い人が何を考えてるのか当てそうだから」
「教科書に書いてある人の気持ちまで、私にはわからないよ」
そう答えながらも、真帆は灯のまとめた文章へ手を伸ばした。主語の抜けた部分へ印をつけ、同じ言葉が続くところを別の表現へ直していく。社会を直人に教わり、その説明を真帆に直され、途中の年代を陽流に暗算してもらう。1つの問題へ3人の手が次々と入るため、灯の冊子だけが4人の中央に置かれていた。
「これ、私の宿題だよね?」
「そうだよ」
真帆が答える。
「3人のほうが書いてない?」
「灯が自分で書かないからでしょ」
陽流に言われ、灯は冊子を自分の前へ引き寄せた。
「じゃあ、ここからは1人でやる」
「何分続くと思う?」
直人が時計を見る。
「次の休憩まで」
「休憩はいつ?」
「今決めるところ」
真帆が笑いを堪えるように顔を伏せた。長い黒髪が肩から前へ落ち、赤くなくなったはずの耳を隠した。
*
1時間半ほど経ったところで、4人は図書館の外へ出た。
自動扉が開くと、冷房で冷えた身体へ夏の空気が一気に押し寄せる。正面の広場では、植え込みの影まで陽射しに縁取られ、蝉の声が頭上から降っていた。図書館の隣にあるコンビニへ向かう短い道だけで、首筋へ汗が滲んでくる。
灯は高く結んだ髪を手で持ち上げ、首元へ風を入れた。隣を歩く真帆も長い黒髪を片手でまとめ、鞄から細い髪ゴムを取り出す。低い位置でひとつに結ぶ仕草が手慣れていて、灯はまた見つめそうになったが、先ほど褒めた時の反応を思い出して黙っておいた。
「何?」
真帆には視線だけで気づかれた。
「何でもない」
「言いたそうな顔してるけど」
「今言うと、また耳が赤くなるかなと思って」
「灯、今日の数学、残り全部1人でやる?」
「ごめんなさい」
すぐに謝ると、前を歩いていた直人が振り返った。
「小坂に何したの?」
「褒めただけ」
「それで怒られたの?」
「怒ってないよ」
真帆の返事が少しだけ速い。陽流は事情を聞かず、コンビニの扉を押さえて3人を先に入れた。
冷凍ケースの前で、灯はソーダ味の棒付きアイスを選んだ。直人はチョコレートの最中、陽流は同じ棒付きのレモン味を取り、真帆は少し迷ってから小さなバニラのカップを籠へ入れる。会計を別々に済ませ、図書館前の木陰にあるベンチへ移動した。
袋を開けた瞬間から、灯のアイスは表面が溶け始めた。慌てて口へ入れると、冷たさが歯へ沁み、眉間に力が入る。
「急いで食べるからだよ」
直人が笑いながら、自分の最中を半分に割った。
「溶けるから急いだの」
「頭痛くなってない?」
「なってない」
答えた直後、額の奥が遅れて痛み、灯は目を閉じた。直人はやっぱりと言い、自分の膝の上に置いていたハンカチを差し出す。アイスの雫が灯の指まで伝っていた。
「手もすごいことになってる」
「あとで洗うから大丈夫」
「その前に冊子へ垂らしそうだよ」
直人のハンカチで指を拭く。白い布の端に小さな青い染みがつき、灯が謝ると、洗えば落ちるから気にしなくていいと言った。
「これ、返す前に私が洗うね」
「そのままでいいよ」
「駄目。次に会う時、返すから」
「じゃあ、忘れないでね」
「忘れないよ」
直人が笑い、灯は借りたハンカチを汚れた面が内側になるよう畳んだ。次に会う理由を1つ預かったような気がして、鞄の小さなポケットへ丁寧にしまう。
向かいのベンチでは、真帆が木の匙でバニラを少しずつ食べていた。陽流は溶ける前にレモン味を食べ切り、棒に当たりの文字がないことを確かめてから袋へ戻している。
「午後は、あとどれくらいやる?」
直人が尋ねる。
「閉館まで」
真帆が答えた。
「そんなに?」
灯が思わず声を上げると、図書館へ入ろうとしていた親子がこちらを見た。
「冗談。灯の集中が切れるまで」
「それなら、もう切れてるかも」
「アイスを食べたら戻るよ」
真帆は当然のように言い、カップの蓋を閉じた。灯は助けを求めて直人を見る。
「俺も社会の残りを終わらせたいから、もう少しやろう」
「直人くんまで真帆の味方なの?」
「終わったら、駅前まで一緒に行こうよ」
続けて小さな声で言われ、灯は返事をする前に真帆と陽流を見た。2人には聞こえなかったらしく、真帆はごみをまとめ、陽流は図書館の時計を見上げている。
「2人で?」
「嫌なら4人でもいいけど」
「嫌じゃない。行く」
灯が答えると、直人は安心したように残りの最中を口へ入れた。
*
午後は、午前中より静かに進んだ。
灯は休憩前に宣言したとおり、数学の次のページを1人で解いた。途中で陽流のほうを3回見たが、そのたびに向かいから冊子を指され、質問ノートへ手を伸ばす前にもう一度考え直した。最後の答えまで辿り着いて顔を上げると、陽流は自分の問題集を解きながら、机の下で親指だけを立てた。
社会では直人に教わった順番を思い出し、国語では真帆がつけた印を頼りに文章を直す。1人で解いたはずなのに、3人の声がそれぞれ頭の中に残っていた。
窓の外では、午後の陽射しが少しずつ傾き、街路樹の影が歩道の上へ長く伸びていく。冷房の音とページをめくる音の間に、鉛筆が机を転がる小さな響きが混じる。4人とも話さない時間が続いても、教室とは違って気まずくはなかった。
灯が読書感想文の下書きを始めると、直人も同じ原作を自分の鞄から出した。映画との違いを見つけたページへ付箋を貼り、灯の本にも同じ場所があることを指で示す。2人で本を開きながら、声を出せない代わりに質問ノートの後ろのページへ感想を書き合った。
――映画より主人公が暗い。
灯が書く。
――灯は映画の主人公のほうが好きそう。
直人が返す。
――どうして?
――よく笑うから。
その答えを読んだ灯は、隣にいる直人を見た。直人もこちらを見ており、目が合うと少し照れたように本へ視線を戻す。
灯は文字の下へ、小さな笑顔の絵を描いた。
向かいでは、陽流が問題集の同じ行にしばらく鉛筆を止めていた。けれど灯が気づく前に次の問題へ進み、真帆だけが4人の間に置かれた質問ノートを見つめている。
真帆は何も言わず、灯が描いた笑顔の隣へ、国語の宿題とは関係のない花丸を1つ加えた。
*
館内放送が午後5時を知らせる頃、灯の宿題は午前中の倍以上進んでいた。
机の上に散らばった消し屑を集め、借りる本と返す本を分ける。真帆は質問ノートを閉じ、次に使う時まで自分が持っておくと言った。ほとんど灯の質問で埋まっているため、灯が持つべきではないかと思ったが、失くしそうだからと即座に却下された。
階段を下り、1階の貸出機で本を手続きする。外へ出ると、昼間の刺すような陽射しは弱まり、図書館前の広場に建物の影が落ちていた。それでも空気には熱が残り、蝉は朝から一度も休んでいなかったように鳴いている。
「明日もここでやる?」
灯が尋ねると、真帆は肩へ鞄を掛けながら首を振った。
「毎日集まったら、灯が1人でやらなくなるでしょ」
「今日、最後は1人でできたよ」
「3人の顔を順番に見ながらね」
「見ただけで聞いてないよ」
「じゃあ明日は、見なくてもできるね」
言い返せずにいる灯の隣で、直人が笑った。
「わからなかったら、俺に連絡して。社会なら教えられるから」
「数学は?」
「一緒に考えることはできる」
「それ、教えるとは言わないんじゃない?」
「答えを見るよりはいいだろ」
直人がそう言うと、陽流も隣で頷いた。
「灯は、誰かが一緒に考えてるだけでも少しは続くから」
「陽流まで、私が1人で何もできないみたいに言わないでよ」
「何もとは言ってないよ。宿題の話」
4人で駅前へ続く道まで歩き、最初の交差点で真帆が別れた。低く結んでいた黒髪を解くと、長い髪が背中へ真っ直ぐ落ちる。灯がまた見ていることに気づいたらしく、真帆は先に「何も言わなくていいから」と釘を刺した。
「またね、真帆。今日はありがとう」
「明日は自分でやってね」
手を振って離れていく真帆を見送り、次の角では陽流が足を止めた。
「俺、こっちから帰るよ」
家へ戻るなら灯と同じ道のはずだが、陽流が指した先には駅前の書店がある。問題集を見たいのだと言われ、灯は直人と顔を見合わせた。
「じゃあ、私たちも一緒に――」
「灯は直人と行くところがあるんだろ」
休憩中の小さな会話を聞かれていたらしい。灯が驚いて陽流を見ると、陽流は何でもない顔で鞄の肩紐を持ち直した。
「また明日」
「うん。またね」
陽流が書店の方向へ歩きだす。追いかける理由はないのに、灯は数歩ぶんだけその背中を見送った。
「灯、行こう」
直人に呼ばれ、隣へ向き直る。
2人で駅前を歩き、文房具店を覗いた。何か買うものがあったわけではない。新しいノートの表紙を見比べ、直人が使いやすそうな付箋を探し、灯は青いシャープペンシルに合う替え芯を1つ買った。それだけで30分ほどが過ぎた。
店を出ると、空はまだ明るいものの、建物の窓へ夕方の色が映り始めていた。
「今日、楽しかった?」
直人が尋ねた。
カラオケの帰りにも、直人から同じことを聞かれた。あの時は、陽流が自分の好きな曲を覚えていたことを最初に話してしまった。今日は何が楽しかったのか、灯は文房具店の袋を持ち直しながら考えた。
「うん。直人くんと一緒だったから、宿題なのに楽しかった」
直人は一度だけ瞬きをし、歩く速さをわずかに落とした。
「そういうこと、急に言うんだね」
「変だった?」
「違う。嬉しかったから、もう1回言ってほしいくらい」
「同じことを2回言うのは恥ずかしいよ」
「最初は恥ずかしくなかったの?」
「最初は思ったことを言っただけだから」
真帆に髪がきれいだと伝えた時と同じだった。思った瞬間なら言えるのに、一度意味を考えると急に言えなくなる。
灯が俯くと、直人はそれ以上頼まず、代わりに手を差し出した。
人通りの多い駅前では、以前より迷わずその手を取れるようになっていた。指を重ねると、図書館の冷房で冷えていた時とは違う体温が伝わる。直人の掌は少し汗ばんでいたが、自分も同じだと思えば気にならなかった。
「次は、宿題じゃない日に会おう」
「うん。夏休みだもんね」
灯が答えると、直人の指へ少しだけ力が入った。
*
夜、入浴を終えた灯は、机へ宿題の冊子をもう一度開いた。
昼間に借りた直人のハンカチは洗って部屋へ干してある。白い布の端に残っていた青い染みも、石鹸で擦るとほとんど見えなくなった。乾いたら畳み、次に会う時に返すつもりだった。
机の上には、青いブックカバーをつけた本と、白い星の筆箱が並んでいる。灯は筆箱から陽流にもらったシャープペンシルを取り出し、午後に解いた数学の続きを始めた。
携帯電話を机の端へ立て、直人と通話をつないでいる。
『そこ、教科書の次のページに同じ年表があるよ』
「本当だ。昼間に教えてくれたところとつながってる」
『だから言っただろ。1つの話だと思えばいいって』
「直人先生、今日は得意そうだね」
『今日はって何?』
「英語と数学の時は、あまり先生じゃなかったから」
『灯だって数学は湊にほとんど教えてもらってたじゃん』
「でも最後のページは自分でできたよ」
『3人の顔を順番に見ながら?』
「直人くんまで真帆と同じこと言う」
電話の向こうで直人が笑う。机へ向かっているはずなのに、学校や図書館で話す時より声が近く感じられた。
社会の問題を1ページ終え、答えを確かめる。全問正解していたことを伝えると、直人は自分のことのように喜んだ。
『じゃあ、今日はここまでにする?』
「もう少し話しててもいい?」
『宿題のこと?』
「宿題じゃなくても」
答えたあとで、自分からそんなことを言ったのが恥ずかしくなった。直人もすぐには返事をせず、電話の向こうで紙を揃える音だけが聞こえる。
『俺はいいよ。何話す?』
「まだ決めてない」
『じゃあ、決まるまで待ってる』
「それだとずっと黙ってることになるよ」
『灯が何か言うまで待つよ』
「直人くん、そういう時だけ気が長いよね」
灯は笑い、椅子の背へ身体を預けた。カーテンの隙間から見える隣家の2階には、陽流の部屋の明かりがついている。いつもなら何をしているのかとメッセージを送ることもある時間だった。
けれど今夜は、携帯電話の向こうに直人がいる。
灯は窓から机へ視線を戻し、今日図書館で見つけた映画と原作の違いを話し始めた。直人は途中で口を挟まず、灯が話し終えるまで聞いてくれた。
夏休み4日目は、1人で過ごした最初の3日より宿題が進んだ。
それ以上に、宿題をしている時間まで楽しかった。
直人と付き合うというのは、こういう日が少しずつ増えていくことなのかもしれないと、灯は思った。
「直人くんと一緒だったから、宿題なのに楽しかった」
特別なデートだけではなく、宿題をするだけの時間まで楽しくなる。灯と直人の恋は、少しずつ日常の中へ入り始めました。
次話「窓の向こうの明かり」へ続きます。




