知らなかった声
夏休み最初の日、4人はカラオケへ向かいます。
いつもの教室を離れた場所で、それぞれの知らなかった声が聞こえてきます。
終業式の日、最後のホームルームが終わった瞬間、教室の空気が変わった。
担任が夏休み中の注意を話している間から、生徒たちの気持ちはすでに校門の外へ向かっていた。机の上には通知表と宿題の冊子が重ねられ、黒板の端には次の登校日が大きく書かれている。事故に気をつけるようにという最後の言葉へ、教室中から普段より大きな返事が返った。
担任が廊下へ出ると、椅子を引く音と話し声が一斉に広がった。夏休みの予定を確かめる者、部活動へ向かう者、通知表を見せ合う者。開け放した窓から蝉の声と熱気が入り、まだ午前中なのに教室は少しも涼しくない。
「本当に今日から休みなんだね」
灯は宿題の冊子を鞄へ押し込みながら、窓の外を見た。校庭の向こうには、強い陽射しに白く霞んだ住宅の屋根が並んでいる。
「なんだかその言い方、明日も学校へ来そう」
前の席で帰り支度をしていた真帆が振り返った。
「来ないよ。宿題がこんなにあるんだから、学校まで来る暇ないもん」
「休み初日からやるつもり?」
「最初の3日くらいは」
「4日目からは?」
「夏休みを楽しむに決まってるっしょー」
「あはは、そのまま8月の終わりまで楽しみそう」
真帆に先を読まれ、灯は宿題の冊子を鞄の奥へ押し込んだ。隣では直人が通知表を二つ折りにしようとして、折れば家で怒られると思い直したのか、教科書の間へまっすぐ挟んでいる。
「今日、このあとどうする?」
直人が尋ねた。
「まだお昼前だし、このまま帰るのももったいないよね」
灯が答えると、真帆は窓から入る熱気を避けるように薄いカーテンを閉じた。
「外を歩き回るのは嫌だな。暑すぎるから」
「じゃあ、涼しいところ」
「図書館とか?」
「夏休み最初の日から勉強するの?」
「灯が涼しいところって言うから」
3人で考えているところへ、後ろから陽流が鞄を肩へ掛けて歩いてきた。すでに帰るつもりらしく、手には宿題の冊子も通知表もなく、全部きれいに鞄へ収まっている。
「あ、陽流!このあと暇?」
灯が呼び止めると、陽流は教室の時計を見た。
「暇だけど、帰るよ」
「暇なら一緒にどこか行こうよ。4人で」
「どこかってどこ?」
まだ行き先を決めていなかったため、灯は直人と真帆を交互に見た。直人が少し考え、駅前の方向を指す。
「カラオケは? 昼なら安いし、涼しいよ」
「いいね。行きたい」
灯はすぐに賛成した。真帆も携帯電話を取り出し、駅前の店の料金を調べる。
「学生料金がある。4人なら、2時間でこれくらい」
「小坂、行く気になってる」
「涼しいところがいいとは言ったから」
3人の視線が陽流へ集まる。陽流は鞄の肩紐を持ち直し、断る言葉を探すように一度だけ教室の出口を見た。
「言っとくけど俺、歌わないよ」
「行くとは言ったよね」
真帆がすぐに指摘する。
「歌わないなら来ても楽しくないでしょ」
「聴いてればいいよ。陽流、私たちが歌うのも嫌なの?」
「それは‥嫌とは言ってないけど」
「じゃあ決まりね!」
灯が陽流の返事を待たずに鞄を持つと、直人も笑いながら立ち上がった。真帆は4人で店へ向かうことを前提に予約画面を開いている。
陽流はまだ納得していない顔をしていたが、1人だけ別の方向へ帰ることはせず、3人のあとから教室を出た。
*
駅前のカラオケ店は、学校を終えたばかりの生徒たちで混み始めていた。
受付で学生証を見せ、4人ぶんの料金を先に払う。案内されたのは廊下のいちばん奥にある小さな部屋だった。扉を開けると、向かい合うように置かれた黒いソファと、壁いっぱいの画面が見える。冷房の風が制服の熱を一気に奪い、灯は部屋へ入っただけで大きく息をついた。
「わー、涼しい」
「今日ここへ来た目的の半分はそれだから」
真帆は鞄をソファの端へ置き、選曲用の端末を手に取った。直人は壁際に並んだ2本のマイクを確かめ、灯へ1本渡す。陽流は画面からいちばん遠い隅へ座り、自分は関係ないという顔で飲み物の案内を眺めていた。
飲み物を取りに行き、灯はメロンソーダ、直人はコーラ、真帆は無糖のアイスティー、陽流は烏龍茶を選んだ。4つのグラスをテーブルへ並べると、透明な氷が冷房の風を受けて小さく鳴った。
「さえ、トップバッターは誰が歌う?」
直人が尋ねる。
「言い出した人」
真帆が端末を直人へ差し出した。
「えー、俺?」
「そう、カラオケを提案したのは倉田くんでしょ」
「いやいや、最初はちょっと待って。まだ喉の準備ができてない」
「歌うのに準備がいるの?」
灯が笑うと、直人は水分が必要だと言い、コーラをひと口飲んだ。真帆は自分も最初は嫌だと端末を押し返す。陽流へ視線を向けても、歌わないと宣言したまま首を振った。
「じゃあ私が歌う」
誰も始めなければ2時間が飲み物だけで終わってしまう。灯は端末を受け取り、最近よく聴いている曲の一覧から、明るい曲を選んだ。
「『夏色シグナル』これならみんな知ってるでしょ」
「あー!知ってる」
直人が答え、真帆も頷いた。陽流は曲名の表示された画面を見てから、何も言わずに烏龍茶のグラスへ手を伸ばす。
前奏が始まり、灯は画面の前へ立った。最初の歌詞が色を変えたのに、マイクから声が出ない。慌てて手元を見ると電源が入っておらず、直人がソファから身を乗り出してスイッチの場所を教えた。
「そこ、下のところ」
「最初からやり直せない?」
「まだ間に合うよ。次から歌えば大丈夫」
2行目から声が出ると、3人が同時に拍手した。灯は笑いながら歌を続けた。
音程は大きく外れないものの、歌詞を追うことに夢中になると少し遅れ、知っている部分へ来ると今度は先に進みすぎる。間奏では何もすることがなくなり、映像に出てくる振りを真似て片手を動かした。直人が同じ動きをし、真帆まで座ったまま小さく手を振る。陽流は参加しなかったが、曲に合わせて膝の上の指を動かしていた。
歌い終わると、画面に84点と表示された。
「最初を歌えてたら、もう少し高かったかも」
灯が言うと、真帆は端末へ次の曲を入れながら首を振った。
「採点は、最初にマイクが入っていなかったことより、途中で歌詞を間違えたほうを見てると思う」
「うそ、間違えてないよ」
「いや2番の最初、違う言葉を歌ってた」
「でも意味は同じだったでしょ」
「歌詞はね、意味が同じなら変えていいものじゃないよ」
国語の問題を直されているようで、灯はマイクを直人へ渡した。
「次、直人くん。真帆に採点されるよ。厳しいよー」
「採点は機械だけで十分なんだけどな」
直人はそう言いながらも立ち上がり、端末へ自分の選んだ曲を入れた。運動部の応援にも使われるような、速くて力強い曲だった。前奏に合わせて肩を回し、歌い始めるまでは、4人の中でいちばん上手そうに見えた。
最初の数行のキーは確かに原曲に近かった。
次第に音が高くなるところで届かず、低く歌い直したところから、少しずつ旋律が別の方向へ進んでいく。本人は気づかず、画面へ向かって最後まで真剣に歌っていた。灯は途中から笑いを堪えられなくなったが、直人が楽しそうなので声を出して笑いながら手拍子を続けた。
歌い終わり、画面に68点が表示される。
「倉田くん、途中から別の曲になってたよ」
真帆が静かに言った。
「小坂、もう少し優しく言えない?」
「そうだなー、最後まで止まらなかったのはよかったと思う」
「それ、歌の感想じゃないだろ」
直人が肩を落とすと、灯は立ち上がって大きく拍手した。
「でも直人くんの歌、楽しかったよ」
「上手かったとは言わないんだ」
「それはほら、楽しかったほうが大事でしょ」
「……灯がそう言うなら、いいことにする」
直人は笑い、マイクをテーブルへ置いた。低い点数まで隠さず携帯電話で撮り、「次は70点を超える」と題名をつけて保存する。
そのまま直人が選んだ次の曲は、男女で交互に歌う『放課後メロディ』だった。
「灯、これ一緒に歌わない?」
「知ってる。歌う」
2本目のマイクを取り、灯は直人の隣へ立った。男子の部分を直人、女子の部分を灯が歌い、最後のサビだけ2人で声を合わせる。直人は自分の音程を保とうとすると灯へつられ、灯は直人を待とうとして歌詞に遅れた。何度も目を合わせて笑い、最後にはどちらが正しいのかわからないまま同時に歌い切った。
点数は78点。
「やった!1人のときより10点上がった」
直人が素直に喜ぶ。
「私の84点と平均したら76点だよ」
「ん?灯、暗算合ってる?」
真帆に確認され、灯は指を使って計算した。陽流が離れたところから「76で合ってるよ」と答える。
「今日は合ってた」
「歌より暗算で褒められてる」
灯が不満を言うと、直人がマイクを持ったまま笑った。陽流もわずかに口元を緩め、真帆は次の曲を入れるふりをして、自分の番を先延ばしにしている。
「真帆、次だよ」
「もう少しあとでいい」
「私たち2曲歌ったよ」
「湊くんはまだ1曲も歌ってない」
「俺は最初から歌わないって言ったよ」
「4人で来たのに、2人ともずっと聴いてるだけ?」
灯が2人を交互に見る。真帆はしばらく端末を指でなぞっていたが、逃げ続けるほうが目立つと思ったのか、小さく息をついた。
「もー、しょうがないな。1曲だけね」
選んだのは『月と手紙』という、少し前に流行った静かな曲だった。灯も題名は知っているが、最初から最後まで聴いたことはない。
真帆はマイクを受け取ると、画面の前へ立たず、ソファへ座ったまま歌い始めた。
声は大きくなかった。それでも音楽に埋もれず、ひとつひとつの言葉がはっきり聞こえた。音程をなぞるだけではなく、どの言葉を長く残し、どこで息を吸うのかまで考えているように、静かな歌が部屋の空気を変えていく。
灯は途中で手拍子をやめた。直人もテーブルへ伸ばしかけた手を止め、陽流は烏龍茶のグラスを置いて真帆を見る。
最後の音が消えるまで、誰も声を出さなかった。
画面に95点が表示された瞬間、灯はソファから立ち上がった。
「真帆、すごく上手い」
「95点って初めて見た」
直人も驚いている。
「機械の点数だから。声が合っていただけだよ」
真帆はマイクを置き、すぐにアイスティーへ手を伸ばした。3人から見られていることが落ち着かないのか、グラスの中の氷をストローで何度も動かす。
「真帆、歌手になれるよ」
「大げさ。1曲歌えただけでなれないよ」
「どうして今まで歌わなかったの?」
「歌う機会がなかったから。はい!もう私の番は終わり」
褒められるほど表情が硬くなり、真帆は話を切るように端末を陽流へ差し出した。
「次、湊くん」
「俺は歌わないよ」
「私も1曲歌ったんだから、公平に歌って」
「公平の使い方、間違ってない?」
「歌わないなら、私が湊くんの曲を選ぶけど」
真帆は本当に選曲画面を開き、陽流が歌えそうな曲を探し始めた。陽流は自分の知らない曲を入れられると思ったのか、仕方なく端末を受け取る。
「1曲だけだからな」
「それ、さっき私が言ったやつ」
真帆が少し笑う。
陽流は検索欄を開いて何度か文字を打ち、1曲を選んだ。予約を知らせる表示のあと、画面に『水色と夏』という題名が出る。
「あっ!これ私が好きって言った曲」
少し前、学校までの道で陽流に教えた曲だった。あのとき陽流は、あとで聴いてみると答えた。灯は話したことさえ半分忘れていたのに、本当に聴いていたらしい。
「陽流も好きになったの?」
「今、ちゃんと歌える曲がこれくらいしかなかったから」
「覚えるくらい聴いたんでしょ」
「歌えるところまでね」
陽流は灯を見ず、画面へ向かってマイクを持った。
前奏が終わり、歌い始めた声は普段話すときより少し低く、落ち着いていた。無理に原曲へ似せようとせず、速い部分も言葉を崩さない。真帆のように完璧ではないが、音程はほとんど外れず、部屋の中へまっすぐ届いた。
灯は驚いて陽流を見つめた。
家が隣でも、陽流が歌っているところを聞いた記憶はない。幼い頃に一緒に歌った童謡や、学校行事の合唱ならあったかもしれない。それでも、今の陽流の声で、自分が好きな曲を聴くのは初めてだった。
サビへ入ると、灯の口も無意識に歌詞をなぞった。マイクは持っていないため声は音楽に消えたが、知っている部分を小さく一緒に歌う。陽流は画面を見ていたものの、間奏に入る直前、一度だけ灯へ視線を向けた。
その短い間奏の間に陽流と灯の目が合う。
灯は声を出さず、続きを促すように笑った。陽流はすぐに画面へ顔を戻し、最後まで歌った。
採点結果はは89点で概ね好意的なコメントが添えられている。
「陽流、歌上手かったんだ」
「そうかな、普通だよ」
「ううん、普通は89点取れない。もう1曲歌って」
「1人1曲って言っただろ」
「それは最低1曲って意味だよ」
「勝手に意味を変えないで」
陽流はマイクを置き、灯が渡そうとした端末から逃げるようにソファへ座った。灯はもう一度同じ曲を入れれば歌うかもしれないと考えたが、真帆が先に別の曲を予約した。
4人とも知っている、アニメの主題歌『勇者の地図』
「最後まで2人ずつで歌えばいいよ」
真帆が2本のマイクを灯と直人へ渡し、2番で交代するよう提案した。
1番は灯と直人が歌った。直人はまた少し音程を外したが、灯が合わせるのを諦めて原曲どおりに歌うと、途中から無理やり同じ音へ戻ってきた。2番では真帆と陽流がマイクを持ち、真帆の声に陽流の低い声が重なる。最後のサビはマイクのない灯と直人も加わり、4人の声が狭い部屋の中で混ざった。
誰の音程が正しいのかも、採点が何点だったのかも、今度ばかりは誰も気にしない。
*
それからの1時間は、最初よりずっと短く感じられた。
灯と真帆は女性2人組の曲を選び、直人は70点を超えるため、先ほどよりゆっくりした曲へ挑戦した。結果は69点で、目標には1点届かなかった。陽流は2曲目を拒み続けたが、ほかの3人が歌うときには手拍子をし、ときどき知っている部分だけ口を動かしていた。
途中で注文したフライドポテトが、曲が終わるたびに少しずつ減っていく。直人が歌っている間に灯が最後の1本を食べると、歌詞の途中で「あ」と声を出し、採点の音程表示が大きく外れた。真帆はそれも点数が伸びなかった理由のひとつだと言い、陽流は歌っている最中に食べ物を見るほうが悪いと笑う。
終了10分前を知らせる電話が鳴り、真帆が受話器を取った。
「延長はしないよね?」
「したい!まだ帰りたくなーい」
灯はすぐに答えたが、真帆は宿題を忘れないようにと受話器を置いた。直人も家で昼食を食べると話してきたらしく、今日は予定どおり終えることになった。
最後にもう1曲だけ、全員で歌える明るい曲を入れる。灯は立ったままマイクを持ち、直人と交代で歌った。真帆はソファに座りながらも声を重ね、陽流もマイクなしで最後の部分だけ加わった。
曲が終わると同時に、画面へ退室時刻の案内が表示された。
「ねー、夏休みが終わる前に、もう1回来ようよ」
灯が言うと、直人は次こそ70点を取ると宣言した。真帆は宿題が終わっていればと条件をつけ、陽流は返事をしなかった。
「陽流もまた来るでしょ?」
「今日は1曲歌ったから、次は行かなくていいよね」
「次は2曲歌えばいいよ」
「なんでそこで増えるんだよ」
荷物をまとめながらも会話は途切れなかった。テーブルに残った空のグラスを戻し、冷えた部屋から廊下へ出る。店の自動扉が開いた瞬間、外の熱気が4人へまとわりついた。
灯は思わず目を細めた。2時間前より陽射しは高く、駅前の舗装から揺れるような熱が上がっている。冷房で冷えた制服が、歩き始めるとすぐに温かくなった。
「楽しかった」
灯が言うと、真帆が隣で頷いた。
「思ったよりね」
「真帆が一番上手かった」
「点数の話はもういいよ」
「私はもう1回聴きたいな」
「灯は湊くんにも同じこと言ってたでしょ」
真帆は褒められる話から逃げるように歩く速さを上げた。陽流がその隣へ並び、灯と直人は少し遅れてあとを歩く。
直人は前を行く2人を見てから、灯へ尋ねた。
「今日、楽しかった?」
「うん。陽流があの曲を知ってたの、びっくりした」
答えたあとで、質問はカラオケ全体のことだったと気づいた。灯は続けて楽しかったことを話そうとしたが、直人が先に笑う。
「湊、思ったより上手かったな」
「うん。私が教えた曲、本当に聴いてくれてた」
「きっと灯が好きな曲だから、覚えたんだろうな」
「そうかな。今度聞いてみる」
直人はそれ以上何も言わず、歩調を灯へ合わせた。信号の前で4人が追いつくと、灯は自分から直人の手を取った。直人は少し驚いた顔をしたものの、すぐに握り返す。
「直人くんの歌も楽しかったよ」
「それ、俺が聞いたから言ってる?」
「違うよ。本当に楽しかった。次は70点取れるといいね」
「灯まで点数の話をするんだ」
直人が笑い、信号が青へ変わる。4人は並んで横断歩道を渡った。
*
駅前の交差点で、4人の帰る方向が分かれた。
真帆は駅へ向かい、直人も途中までは同じ道を使う。灯と陽流は住宅街へ続く道へ曲がるため、横断歩道の手前で足を止めた。
「また連絡するね」
灯は直人の手を離し、真帆と2人へ向かって手を振った。直人も手を上げ、陽流は短く「また」と言う。信号が変わり、灯と陽流は先に道路を渡った。
向こう側へ着くと、灯はすぐに陽流の隣へ並んだ。何かを尋ねながら、先ほど歌った曲のサビを小さく口ずさんでいる。陽流は迷惑そうに答えたあと、灯が間違えた音を同じ部分だけ歌って直した。
2人の背中は、住宅街へ続く道の先へ遠ざかっていく。
直人は信号が再び変わるまで、その姿を見ていた。
「倉田くん、行かないの?」
隣に残っていた真帆に呼ばれ、直人は足元の白線から顔を上げた。
「行くよ。信号待ってただけ」
「そう」
真帆はそれ以上尋ねず、青になった横断歩道を渡り始めた。直人も少し遅れて隣へ並ぶ。
今日、灯は何度も笑っていた。直人の歌にも笑い、2人で同じマイクを持ち、店を出てからは自分から手をつないでくれた。楽しかったという言葉に嘘はない。
それでも、何が楽しかったかと尋ねたとき、最初に灯の口から出たのは陽流の名前だった。
幼なじみなのだから、知らなかった一面に驚くのは当たり前だ。自分だって、陽流が歌えるとは思っていなかった。そう考えれば、それだけのことだった。
直人は灯から言われた言葉も、きちんと覚えている。
――直人くんの歌も楽しかったよ。
その言葉を疑う理由はなかった。
ただ、陽流が歌っていた間、灯が一度も画面を見ず、その横顔を見つめていたことだけが、曲の終わったあとも直人の中へ残っていた。
灯は直人の歌にも笑い、自分からその手をつなぎました。楽しかったという言葉に、嘘はありません。
それでも何が楽しかったのかと尋ねられ、最初に灯の口から出たのは陽流の名前でした。
直人は灯の言葉を疑いません。ただ、陽流が歌う間、灯がずっとその横顔を見つめていたことだけが残りました。
次話「夏休み4日目」へ続きます。




