知らないこと
長く一緒にいれば、何でも知っているのでしょうか。
誰かを知ることは、過ごした時間の長さではなく、今も見続けることなのかもしれません。
水族館へ行った翌日、直人は朝のホームルームが始まる前に、1冊の文庫本を灯の机へ置いた。
紺色の表紙には、古い洋館と、その屋根へ重なる大きな月が描かれている。以前貸してもらった作品と同じ作家の本だった。ページの上からは、昨日灯が渡したペンギンの栞が少しだけ顔を出している。
「もう使ってるんだ?」
灯が栞を指で揺らすと、鞄を机の横へ掛けていた直人が笑った。
「使うって送っただろ。昨日帰ってから、灯に貸す本を選んで挟んできたんだ」
「直人くんは、もう読んだの?」
「去年読んだ。今まで貸したのより少し怖いけど、灯が好きそうな話だったから」
「犯人がわかっても言わないでね」
「今回は俺のほうが先に読むんだから、言うとしたら灯じゃなくて俺だろ」
「直人くん、この前までずっと当たらなかったじゃん」
「1回当てたから、もう大丈夫」
根拠になっていない自信に笑いながら、灯は本を受け取った。代わりに、読み終えたばかりの文庫本を机の中から出す。そこには水族館でもらったクラゲの栞を挟んでいた。
「これ、返す。面白かった」
「栞は取っていいんだよ」
「わかってる。直人くんに見せようと思って、まだ挟んでただけ」
栞を抜き、灯は自分の筆箱へしまった。透明な板の中で、淡い青色のクラゲが朝の光を受けている。直人はそれを見届けてから本を受け取り、表紙を軽く撫でた。
昨日まで知らなかったものが、机の上で少しずつ交換されていく。直人が選ぶ本、読み進める速さ、犯人を当てたことをまだ少し誇らしく思っていること。どれも小さなことなのに、知るたびに直人の輪郭が前よりはっきりする気がした。
「おはよう」
真帆が教室へ入り、自分の席へ向かう途中で足を止めた。灯と直人の間に置かれた2冊の本を見て、すぐに事情を理解したらしい。
「昨日の栞、もう使ったんだ」
「うん。今度は私が借りるの」
「水族館も楽しかったみたいだね。昨日から写真が何枚送られてきたと思う?」
「8枚ぐらい‥だっけ?」
「27枚。魚だけの写真を含めて」
「だって全部違う魚だよ」
「灯、名前を覚えてる?」
真帆に尋ねられ、灯は昨日見た大水槽を思い浮かべた。銀色の群れ、岩陰にいた平たい魚、海底でほとんど動かなかった大きな魚。姿は浮かぶのに、名前を書いた案内板までは思い出せない。
「えっと……きれいな魚」
「全部それで送ってきたんだね」
真帆は呆れたように言いながらも、口元では笑っていた。直人は自分の携帯電話を取り出し、灯から送られてきた写真の枚数を確かめる。
「俺には31枚来たよ」
「直人くんには、2人で撮った写真も送ったから」
「差をつけられたわ」
真帆は少しも悔しくなさそうに言い、前の席へ鞄を置いた。担任が教室へ入ってくる姿が見え、直人も急いで自分の席へ座り直す。
灯は借りた本を机の中へ入れようとして、もう一度表紙を見た。
直人が好きな作家は知っている。好きな本の種類も、昨日初めて水族館へ行ったわけではないことも知った。けれど、それ以外のことを自分はどれくらい知っているのだろう。
昨夜送った「直人くんの好きなもの」という言葉が、今になって少し曖昧に思えた。
*
1時間目と2時間目の間の休み時間、灯は国語の教科書を持ったまま真帆の席へ行った。
次の授業の準備をしていた真帆は、灯が机の横へ立ってもすぐには顔を上げなかった。教科書、ノート、筆箱を机の左上へ揃え、最後に椅子の背へ掛けていた髪を肩の前へ払う。
「真帆、聞きたいことがあるんだけど」
「数学じゃないなら聞くよ」
「直人くんの好きなものを知りたいときって、どうしたらいいのかな」
真帆は机の上を整えていた手を止め、ようやく灯を見上げた。
「本人に聞けばいいんじゃない?」
「それだけ?」
「それ以外に何があるの?」
「もっと自然に知る方法とか。何気ない会話の中でわかるような」
「灯、昨日は誰と水族館へ行ったの?」
「直人くん」
「その倉田くんと話せばいいんだよ」
あまりに簡単に答えられ、灯は持っていた教科書を胸元へ抱え直した。
「でも、好きな食べ物は何ですか、好きな色は何ですかって、急に聞いたら変じゃない?」
「付き合っている相手の好きなものを知りたいって思うのは、変じゃないでしょ」
「真帆なら、もっと上手に聞けそう」
「私は本人へ聞かずに考えすぎて、たぶん全部間違えるよ」
真帆はそう言ってから、昨日の昼休みに自分で話したことを思い出したらしい。机の上の筆箱を意味もなく2cmほど動かした。
「それに、聞かないでわかったことと、聞いて教えてもらったことなら、どっちもその人のことを知ったことになるよ」
「聞いたら簡単すぎない?」
「簡単なほうがいいこともあるの。灯たちは特に」
最後の言葉に少し含みがあったが、その意味を尋ねる前に国語の教師が教室へ入ってきた。灯は自分の席へ戻り、教科書を開く。隣では直人がノートの日付を書いていた。
横顔を見ながら、何から聞こうかと考える。
好きな食べ物。好きな色。好きな季節。得意科目は知っている。教科書を忘れることがあるのも、英語の発音を間違えると笑ってごまかすことも知っている。
けれど真帆の言うとおり、知らないなら本人へ聞けばいいだけなのかもしれなかった。
*
昼休み、灯は弁当箱を開くより先に、ノートの最後のページを直人へ見せた。
授業中に考えた質問が、縦に5つ並んでいる。
好きな食べ物。好きな色。好きな季節。好きな動物。好きな場所。
直人は一番上から順に読み、最後まで行くと、もう一度最初へ視線を戻した。
「これ、全部俺に聞くの?」
「うん。だめ?」
「だめじゃないけど、学校の自己紹介みたいだなって」
「やっぱり変だった?」
「変じゃないよ。灯が俺のことを知りたいって思ってくれたんだから」
直人は声を抑えたが、うれしそうな表情までは隠せていなかった。灯も急に恥ずかしくなり、ノートを閉じようとする。直人はその前に手を伸ばし、ページの端を押さえた。
「答えるから、閉じないで」
「直人くんも私に質問していいよ」
「じゃあ、交代で答える?」
話がまとまったところへ、弁当を持った真帆がやってきた。いつものように前の席の椅子を回して座り、灯のノートを横から覗く。
「本当にそのまま聞くことにしたんだ」
「真帆が聞けばいいって言ったんでしょ」
「言ったけど、質問を授業中に書き出すとは思わなかった」
直人は最初の質問を指で示し、少し考えた。
「好きな食べ物は、カレーかな。父さんが日曜日に作るやつ」
「お父さんが作るの?」
「うん。料理ができるの、カレーと焼きそばだけだけど。次の日に残ったカレーのほうが好き」
「作った日じゃないんだ」
「次の日は少し濃くなるだろ」
灯はノートの「好きな食べ物」の横へ、父親が作る2日目のカレーと書き足した。
「そこまで書くの?」
「忘れないように」
「テストに出るみたい」
「出したら答えられるよ」
灯が胸を張ると、直人は箸を置き、自分の質問を考えた。
「灯は、オムライスだろ?」
「正解。なんで知ってるの?」
「この前、一緒に帰ったときに晩ご飯の話をしたじゃん。オムライスなら毎週でもいいって言ってた」
灯自身は、そんなことを話したのを半分忘れていた。直人は何気ない会話の中で聞いたことを覚えていたらしい。感心しながら正解の丸をつけると、直人が「本当に問題になってる」と笑った。
好きな色は、直人が深い緑。灯は青。
「青だったんだ」
直人が言うと、少し離れた後ろの席から別の声が重なった。
「黄色じゃないの?」
灯と直人が同時に振り返る。
陽流は自分の席で弁当を食べながら、こちらを見ていた。今日はほかの男子が購買へ行っているらしく、1人で座っている。真帆が椅子ごと少し横へずれ、陽流との間にあった机の隙間を空けた。
「それ、小学生の頃だよ」
「でも、黄色い筆箱を使ってただろ」
「小学校を卒業するときに壊れたでしょ。今はこれ」
灯は机の上にある筆箱を持ち上げた。明るい青色の布地に、白い星が小さく散っている。中学校へ入学するとき、真帆と文房具を買いに行き、自分で選んだものだった。
「ずっと使ってるよ」
「……そうだったな」
陽流は短く答え、弁当箱へ視線を戻した。灯は何となく気になり、筆箱を机へ置いたあとも陽流を見ていた。
「陽流もこっちで食べれば?」
「もう食べ終わるからいいよ」
「今、話に入ったじゃん。陽流なら私の好きなもの、全部わかるでしょ」
幼い頃から隣にいる陽流なら、質問を5つに絞る必要もない気がした。灯が当然のように言うと、陽流は箸を持ったまま少し考え、残っていた弁当を持ってこちらへ来た。
真帆の隣へ空いている椅子を寄せ、灯たちの輪へ加わる。直人は嫌な顔をせず、灯のノートを陽流から見える向きへ回した。
「湊なら、灯の好きなものは全部知ってそうだよな」
「さっきもう間違えたよ」
「色くらい変わるだろ」
陽流は言い訳するように答えた。真帆が青い筆箱を一度見てから、何も言わずに卵焼きを口へ運ぶ。
「次は好きな季節」
直人がノートを指した。
「俺は秋。暑くないし、本も読みやすいから」
「直人くんらしいね。私は春かな。寒くなくなって、外へ出たくなるから」
「夏じゃないの?」
今度は陽流が自信なさそうに尋ねた。
「夏も好きだけど、暑いのは苦手。陽流だって、私が毎年暑いって言ってるの知ってるでしょ」
「夏祭りは楽しみにしてるから」
「それと季節は別だよ」
2つ目も外れ、陽流は小さく息をついた。灯はからかうつもりで笑ったが、陽流は思っていたより悔しそうに見えた。
「好きな食べ物は当てられるよね?」
「オムライス。卵は固く焼いたのより半熟で、上にケチャップをかけるやつ」
「正解」
「グリーンピースは入れたら残す」
「それは書かなくていいよ」
「あと、付け合わせがポテトサラダなら先に食べる」
「そんなところまで言わなくていいってば」
灯がノートを隠すと、直人と真帆が同時に笑った。陽流もようやく少しだけ口元を緩める。
色や季節は変わっても、食べ方の癖までは変わらない。灯が覚えていないようなことまで陽流は知っている。それが何となくうれしくて、灯は隠したノートをもう一度開いた。
「じゃあ、今度は陽流の好きなものも当てる」
「なんで俺までやるんだよ」
「私だけ当てられるのは不公平でしょ。好きな食べ物は……ハンバーグ」
「それは嫌いじゃないけど、別に一番じゃない」
「じゃあ、甘いものならチョコレート」
「それ、兄貴だよ。俺はそんなに食べない」
「そうだったっけ?」
灯は記憶を探した。隣の家でもらったチョコレートを、陽流が食べているところを何度も見た気がする。けれど隣には、いつも遼介もいた。陽流が自分で選んで食べていたのか、兄から渡されていたのかまでは思い出せない。
「じゃあ、陽流は何が好きなの?」
尋ねると、陽流はすぐに答えなかった。直人と真帆までこちらを見ていることが落ち着かないのか、弁当箱の隅に残っていた米粒を箸で集めている。
「……プリン」
「プリン?」
「悪い?」
「悪くないけど、知らなかった」
「聞かれたことないから」
陽流は集めた米粒を口へ入れ、弁当箱の蓋を閉じた。
灯は何も返せないまま、その手元を見つめた。
物心ついた頃から一緒にいて、家の中まで知っている。陽流がどこへ物を置き、朝は何分あれば支度ができ、勉強するときにどんな音楽を聴くのかも知っている。それなのに、好きなものを尋ねたことはなかった。
自分は陽流のことなら何でも知っていると思っていた。ただ長く隣にいたというだけで、知らないことがないような気になっていたのかもしれない。
「灯、次は好きな動物」
直人に呼ばれ、灯はノートへ視線を戻した。
直人は犬。灯は兎。水族館のペンギンではないのかと聞かれ、好きになりそうではあるが、まだ1日しか見ていないから保留だと答えた。真帆は、好きな動物まで保留にする人を初めて見たと言った。
最後の好きな場所で、直人は少し考えてから「映画館」と答えた。
「本屋じゃないんだ」
「本屋も好きだけど、映画が始まる前の暗くなる時間が好きなんだ。みんなが話すのをやめて、これから何か始まるって感じがして」
直人が映画を好きなのは知っていた。けれど、映画館の中でも始まる前が好きだということまでは知らなかった。灯はその言葉も忘れないよう、ノートへ丁寧に書き足した。
「灯は?」
「自分の部屋かな。落ち着くから」
「陽流の部屋じゃなくて?」
真帆が何気なく尋ねた。
「なんで陽流の部屋なの?」
「子どもの頃は、よく行ってたんでしょ」
「今はほとんど行かないよ。陽流だって、私の部屋に来たの久しぶりだったし」
灯が答えると、陽流は閉じた弁当箱を鞄へしまった。動きが少しだけ速くなった気がしたが、理由はわからなかった。
予鈴が鳴り、昼休みの終わりを知らせる。直人はノートを灯へ返すと、自分の席へ戻る前に映画館と書かれた行を指で軽く叩いた。
「今度、俺が見たい映画に付き合ってくれる?」
「うん。そのために聞いたんだもん」
「来週から、好きな小説の映画が始まるんだ。日曜日でもいい?」
「空けておくね」
灯が答えると、直人はうれしそうに頷いた。映画の題名は放課後に送ると言い残し、自分の席へ戻っていく。
灯は質問を書いたページを見直した。
直人について、昨日より5つ多く知ることができた。陽流については、知らないことが1つ増えた。
*
5時間目の授業が始まる直前、真帆は前を向いたまま、後ろの陽流へ小さな声で話しかけた。
「湊くん、灯が青を好きなの、知らなかったんだね」
「小坂も楽しそうにしてたくせに、今さら慰めるつもり?」
「慰めてないよ。私も、湊くんなら全部当てると思ってた」
陽流は返事をせず、教科書とノートを机の上へ出した。少し離れた灯の机には、青い筆箱が置かれている。入学してからずっと使っていたと言われたのに、これまで色を意識して見たことがなかった。
「昔から知っていることと、今を知ろうとすることは、別なのかもしれないね」
「……直人のほうが、今の灯を知ってるって言いたいの?」
「比べる話じゃないよ。倉田くんだって、灯が兎を好きなのは今日初めて知ったんだから」
真帆はそこで振り返り、陽流の机の端を指先で軽く叩いた。
「知らないなら、聞けばいいだけじゃない?」
休み時間の終わりを告げるチャイムが鳴った。真帆は何事もなかったように前へ向き、教師が入ってくる前にノートを開く。
陽流も教科書を開いたが、書かれている文章は目に入らなかった。
知らないなら、聞けばいい。
灯が隣にいることを当たり前だと思っていたのと同じように、灯のことを知っているのも当たり前だと思っていた。だから確かめなかった。灯が何を好きになり、何を嫌いになったのか。いつから青を選ぶようになり、いつからミステリー小説を読むようになったのか。
直人が隣の席で少しずつ知ってきた今の灯を、自分は過去の灯を知っているというだけで、見落としていた。
教師が教科書の一節を読むよう指示し、陽流は慌てて指定された行を探した。その途中でもう一度、灯の机にある青い筆箱が目に入った。
白い星の散った青色は、見慣れていたはずなのに、今日は初めて見るもののように思えた。
*
放課後、灯と直人は駅前の映画館まで歩いた。
日曜日に上映される映画の時間を確かめるためだった。携帯電話でも調べられるが、大きなポスターを見せたいと直人が言い、少し遠回りして帰ることにした。
映画館の入口には、直人が好きだという小説を原作にした作品のポスターが貼られていた。雨に濡れた夜の駅を、傘も差さずに歩く男の背中。その上に白い文字で題名が書かれている。
「怖い映画?」
「怖くないよ。いなくなった友達を探す話」
「人は死なない?」
「……たぶん」
「今、少し考えたよね」
「原作と同じなら、そんなに怖くない」
直人の言う「そんなに」が信用できず、灯はポスターをもう一度見上げた。けれど好きなものを教えてもらったばかりで、行く前から断りたくはなかった。
「もし怖かったら、途中で目を閉じるからね」
「そのときは、終わったあとで何が起きたか教える」
「怖くないように説明して」
「それは難しそうだな」
上映時間を確認し、2人は映画館を離れた。帰り道で直人は原作の面白さを説明したが、結末を言わないように気をつけているため、途中から何の話をしているのかわからなくなった。それでも、好きなものについて話す直人の声はいつもより少し速く、楽しそうだった。
「直人くん、映画の話になるといっぱい話すね」
「話しすぎた?」
「ううん。もっと聞きたい」
「映画を見たあと、原作も貸すよ」
「また本が増える」
「灯が読むの、前より速くなったから大丈夫」
直人は灯が変わったことを知っている。そのことがうれしくて、灯は自分から手を伸ばした。
もう聞かなくてもいいと言ったとおり、直人は驚きながらも何も尋ねず、すぐにその手を握り返した。
*
翌朝、灯が玄関を出ると、陽流は門柱の前で携帯電話を見ていた。
「今日は1分前」
灯より先に画面を見せ、少しだけ得意そうに言う。
「陽流が時間を教えるの、私が遅れる前提になってない?」
「遅れるだろ」
「今日は間に合ったよ」
「今日はね」
並んで歩きだす。朝の陽射しはもう強く、塀に沿って細く残った影の中を選ぶように進んだ。灯は昨夜届いた映画の時間を確認しながら歩いていたが、陽流が何度かこちらを見ていることに気づき、携帯電話を鞄へしまった。
「どうしたの?」
「灯、最近何の曲を聴いてる?」
「急に何?」
「別に。知らないから聞いただけ」
陽流は前を向いたまま答えた。あまりに不自然な聞き方で、昨日の昼休みを思い出す。
「私の好きなもの、全部当てられなかったのが悔しかった?」
「違うよ」
「じゃあ、どうして聞くの?」
「知らないなら聞けばいいって、小坂が言ったから」
「真帆に言われたんだ」
やはり真帆は何でもわかっている。灯は笑いながら、最近よく聴いている曲の名前を答えた。陽流は知らない歌だったらしく、題名を一度だけ繰り返す。
「あとで聴いてみる」
「陽流も、好きな曲教えてよ」
「また今度ね」
「またそうやって逃げるんだから」
「朝から長くなるだろ」
「学校まで時間あるよ」
灯が追及すると、陽流は少し歩く速さを上げた。置いていかれないように隣へ並び、鞄の肩紐を掴む。陽流は迷惑そうな顔をしながらも振り払わず、灯が転ばないよう歩幅を緩めた。
直人の好きなものを知りたいと思った。
陽流の好きなものを知らなかったことは、少し寂しいと思った。
それが同じ気持ちから生まれたものなのか、まったく違うものなのか、灯にはまだわからない。
ただ、知らないままにしておきたくないということだけは、どちらも同じだった。
陽流は、黄色を好きだった昔の灯を知っていました。
直人は昔の灯を知らなくても、青を選ぶ今の灯の言葉を覚えています。
どちらが多く知っているかではなく、知らないと気づいたあとにどうするのか。次話「暗くなる時間」へ続きます。




