もう聞かなくても
お試しではない恋人になった2人にとって、同じ手をつなぐという行為も、少しずつ意味を変えていきます。
灯と直人、3回目のデートです。
翌朝、雨は上がっていた。
濡れた塀の上に細い陽射しが落ち、庭木の葉に残った雫を光らせている。灯が玄関を出ると、陽流は門柱にもたれず、道の端に立っていた。片手で鞄の肩紐を持ち、もう片方の手には昨日使った折り畳み傘がある。少し開いたままなのは、乾ききらなかったからだろう。
「今日は遅れてないよ」
灯が携帯電話の画面を見せると、陽流も時刻を確かめた。
「ぎりぎりだけどね」
「間に合ってるならいいでしょ」
「毎朝その考え方だから、いつも2分遅れるんだよ」
いつもどおりの声に安心しながら、灯は陽流の隣へ並んだ。昨夜の雨が歩道の窪みに残り、2人は同じ水溜まりを避けて歩く。陽流の歩幅は灯に合わせた速さだったが、昨日言いかけたことを思い出すと、その横顔を見るのが少しだけ難しかった。
学校までに言おうと決めていた。真帆に話したときよりも、直人へ自分の気持ちを伝えたときよりも、どうして陽流へ話すことがこんなに緊張するのかはわからない。
「陽流、昨日、言いかけたことなんだけど」
灯が切り出すと、陽流は前を向いたまま答えた。
「直人と、お試しじゃなくなったんだろ」
用意していた言葉を先に言われ、灯は足を止めかけた。
「知ってたの?」
「昨日、小坂から聞いた」
「真帆、私が自分で言うって話したのに」
「責めないでやって。俺が、別れたのかって勝手に聞いたから」
陽流の答えは少しだけおかしかった。別れたのかと尋ねたということは、それより前に真帆から何かを聞いたはずだ。灯が考えている間に、陽流は止まりかけた足をもう一度動かした。
「そっか。おめでとう」
笑っているようにも、笑っていないようにも聞こえる声だった。
「……ありがとう」
返事をすると、陽流は小さく頷いた。その先の角から自転車が現れ、灯のほうへ寄ってくる。陽流は折り畳み傘を持った手で灯の肩を押し、いつものように自分の内側へ寄せた。
「前見て歩けよ」
「見てたよ」
「俺の顔を見てただろ」
「それも前に入るでしょ。隣なんだから」
言い返すと、陽流は答えずに傘を持ち替えた。触れていた手が離れても、灯の肩には押された感覚だけが残った。
直人とちゃんと付き合うことになった。それを陽流へ伝えられたのだから、今度こそすっきりするはずだった。
けれど灯は、隣を歩く陽流の横顔をもう一度見ることができなかった。
*
昼休みになると、直人は自分の弁当を持って灯の席へ来た。
お試しで付き合っていたときから何度も繰り返してきたことで、周囲ももう珍しそうには見ない。真帆が前の席を借り、椅子の向きを変えて座るところまでいつもと同じだった。それでも、弁当箱の蓋を開けた直人と目が合っただけで、灯は金曜日の歩道橋を思い出した。
自分たちは今、ちゃんと付き合っている。
そう考えると、昨日までと同じ距離に座る直人が少しだけ違って見えた。
「灯、日曜日って空いてる?」
直人は卵焼きを箸で持ち上げたまま尋ねた。
「空いてるよ。どうしたの?」
「駅の向こうにある水族館、今月からクラゲの展示が増えたんだって。よかったら一緒に行かない?」
「水族館?行きたい」
灯がすぐに答えると、直人はほっとしたように笑い、持ったままだった卵焼きを口へ運んだ。
「よかった。じゃあ、時間とかはあとで送るよ」
「これって、ちゃんと付き合ってから最初のデートになるのかな」
「たぶん。お試しのときから数えたら3回目だけど」
「回数はそのままでいいんじゃない?」
真帆が小さな容器に入ったミニトマトを箸で刺しながら口を挟んだ。
「急に最初から数え直したら、今までの2回がなかったことみたいでしょ」
「それは嫌だな」
灯が言うと、直人も頷いた。
「じゃあ、3回目。ちゃんと付き合ってからは最初」
「長い名前のデートだね」
「灯が数え方を気にするからだろ」
直人に笑われ、灯も笑い返した。付き合う前なら、今の会話にも何か特別な意味があるのかと真帆の顔を見ていたかもしれない。けれど今日は、自分でうれしいとわかる。真帆に答えを教えてもらう必要はなかった。
それでも、真帆は灯の視線に気づき、「何?」と首を傾げた。
「真帆って、人の恋愛のことは何でもわかるよね」
「何でもではないよ。灯がわかりやすいだけ」
「じゃあ、真帆に好きな人ができたら、やっぱり何でもわかるの?」
真帆の箸が、ミニトマトを刺し損ねた。赤い実が容器の中で転がり、隣に入っていたブロッコリーへぶつかる。
「……どうして今、私の話になるの?」
「聞いてみたくなったから」
「たぶん、何もわからなくなるんじゃないかな」
「真帆でも?」
「自分の顔は、鏡がないと見えないでしょ。人のことを見るのと、自分のことを見るのは別」
きれいに説明し終えた真帆は、もう一度ミニトマトを刺そうとした。今度は力が強すぎたらしく、箸の先が実を突き抜けて容器の底に当たる。
「真帆、ちょっと動揺してる?」
「してないよ、別に」
「もしかして好きな人、いるの?」
「いないよ、そんな‥好きな人なんて」
返事が早すぎて、灯と直人は同時に顔を見合わせた。真帆は2人の反応を見て眉を寄せる。
「今は灯と倉田くんの話をしてたの。人に質問を返して逃げないで」
「私、何から逃げたの?」
「そうでしょ?」
真帆はようやく捕まえたミニトマトを口に入れ、それ以上の質問を受けつけないように弁当箱へ視線を落とした。耳が赤くなっているように見えたが、窓から入る陽射しのせいかもしれない。
人の気持ちなら何でも見抜いてしまう真帆にも、わからなくなることがあるらしい。その事実が意外で、少しかわいく思えて、灯はしばらく口元の笑いを隠せなかった。
*
日曜日、灯が待ち合わせ場所へ着いたのは、約束した時刻の3分前だった。
駅前の時計の下にはすでに直人がいた。紺色の半袖シャツに薄い灰色のパンツを合わせ、肩から小さな鞄を下げている。灯に気づくと携帯電話をしまい、まっすぐこちらへ歩いてきた。
「ごめん、待った?」
「待ってないの。俺が早く来ただけ」
「何分前?」
「5分くらいかな」
直人の答えを聞きながら、灯は駅前の時計を見た。携帯電話をしまう直前に表示されていた画面には、待ち合わせの時刻より10分以上前の数字が見えた気がする。
「本当はもっと早く来てたでしょ」
「実は……15分」
「えー、それは早すぎるよ」
「だって家にいても落ち着かなかったんだ」
正直に言われると、からかうことができなくなった。灯は「そっか」とだけ答え、自分の服へ目を落とした。今日は薄い黄色のカーディガンの下に白いブラウスを着て、紺色のスカートを合わせている。陽流にも真帆にも相談せず、昨夜1人で決めた服だった。
「似合ってるね」
直人が言った。
「今日の服。明るくて、灯っぽい」
「本当?」
「うん。ちゃんと自分で言おうと思ってた」
灯はカーディガンの袖口を指先でつまみ、広がりそうになる笑みを隠した。服を褒められたこともうれしいが、自分で選んだものを直人に似合うと言ってもらえたことが、もっと大きく胸へ残った。
水族館までは電車で20分ほど。
向かい合わせの席に座り、直人が調べてきた館内案内を2人で見る。期間限定のクラゲ展示、ペンギンの餌やり、海辺の生き物に触れられる水槽。直人は電車と入館時間だけを調べ、見る順番までは決めていなかった。
「前のデートは、直人くんが全部考えてくれたよね」
「あのときは、失敗したくなくて調べすぎたんだ。今日は灯が見たいところからでいいかなって」
「じゃあ、入ってから決めよう」
「そうだね。迷ったら両方見る」
予定が決まっていないことを不安に思わなくなったのは、3回目だからなのか、ちゃんと付き合い始めたからなのか。おそらく、その両方だった。
休日の水族館は、入口から家族連れで賑わっていた。券売機の前で直人が2人ぶんの料金を払おうとしたため、灯は先に自分の硬貨を入れた。
「今日は俺が出そうと思ってたのに」
「毎回そんなことしてたら、直人くんのお小遣いがなくなるよ」
「今日くらいなら大丈夫だって」
「だーめ。お母さんにも入館料をもらってきたから」
灯が譲らずにいると、直人は諦めて自分の券を買った。代わりに館内の小さな売店で飲み物を買う約束をし、2人は並んで入場口を通った。
最初の大水槽では、銀色の魚の群れが同じ方向へ向きを変え、青い光の中で大きなひとつの生き物のように動いていた。灯は水槽の正面へ近づき、頭上を通り過ぎる影を追って顔を上げる。魚が折り返すたび、鱗に反射した光が細かな星のように水中へ散った。
「すごいね」
隣へ声をかけたのに、直人からすぐに返事がない。振り向くと、直人は水槽ではなく灯を見ていた。
「直人くん?」
「いや、楽しそうだなって」
「直人くんは楽しくないの?」
「楽しいよ。灯が思ったより魚を見るのに夢中だから、それも面白い」
「魚を見に来たんだから、見るでしょ」
灯がまた水槽へ向き直ると、直人も今度は魚を見上げた。青い光に照らされた横顔は笑っていた。
触れ合い水槽では、小さなヒトデを手に乗せられると聞き、灯は真っ先に袖を捲った。けれど水の中でゆっくり動く姿を目の前にすると、伸ばした指が途中で止まる。
「触らないの?」
「思ってたより柔らかそう」
「硬そうに見えるけど」
「じゃあ直人くんが先に触って」
「真っ先に袖捲ってたのに?」
笑いながらも、直人は水へ手を入れた。係員に教わったとおり、底にいるヒトデの下へゆっくり指を差し入れ、掌に載せる。灯は直人の隣へ肩を寄せ、恐る恐る表面へ触れた。
「硬いね」
「だから言っただろ」
「でも、裏側はちょっと柔らかいよ」
「それ、俺の手じゃない?」
慌てて指を離すと、直人が声を抑えて笑った。灯もつられて笑い、ヒトデを驚かせないように2人で水槽へ戻す。濡れた指先を拭くため同じ紙タオルへ手を伸ばし、触れそうになった手をどちらからともなく引いた。
触れたいと思っているのに、触れようとすると遠慮してしまう。付き合う前と違うはずなのに、そこだけはまだ、お試しの頃と変わっていなかった。
昼のペンギンの餌やりでは、前へ出ようとする1羽が飼育員の魚を続けて奪い、少し離れたところにいた小さなペンギンは何度も首を伸ばしていた。灯が「そっちの子にもあげて」と呟くと、直人が隣で笑う。
「なに?」
「灯、自分が取られたみたいな顔してる」
「だって、あの子だけまだ食べてないよ」
「あとでもらえるって」
その直後、飼育員が小さなペンギンへ魚を投げた。見事に受け止めるのを見届け、灯は自分でも驚くほどほっとして息をつく。
「ほら、もらえた」
「うん、よかった」
「灯って、食べ物のことになると真剣だよね」
「そうじゃなくてペンギンの心配をしてたの」
「帰りに何か食べていこうか」
「それは賛成」
即答すると、やはり食べ物のことではないかと笑われた。
午後になり、期間限定のクラゲ展示へ向かう通路は、ほかの場所より暗く、人の流れもゆっくりしていた。壁の中へ埋め込まれた丸い水槽で、半透明のクラゲが光を受けながら浮き沈みしている。青、紫、淡い桃色へ照明が変わるたび、その輪郭まで違って見えた。
灯が水槽の前で足を止めたところへ、後ろから大勢の子どもたちがやってきた。列を作って移動しているらしく、引率する大人の声と弾んだ足音が狭い通路へ重なる。灯は邪魔にならないよう壁際へ寄ったが、人の流れに押され、直人との間が少しずつ開いていった。
「灯」
呼ばれて顔を上げる。直人は2歩ほど先で立ち止まり、こちらへ手を伸ばしかけていた。けれど途中で動きを止め、周囲の人が通り過ぎるのを待つ。
列が途切れると、直人は灯の前まで戻ってきた。
「手、つないでもいい?」
初めて手をつないだ日と同じ尋ね方だった。
直人はいつも、灯が迷わないように聞いてくれる。お試しで付き合うときも、手をつなぐときも、ちゃんと付き合うようになってからも、勝手に距離を縮めたことは一度もなかった。
その優しさが、今日は少しだけ遠慮に思えた。
「もう、毎回聞かなくてもいいよ」
直人が目を瞬いた。
「……それ、これからも?」
「付き合ってるんだから、手をつなぐたびに聞かなくてもいいってこと。嫌なときは、ちゃんと言うから」
「うん。それは言って」
まだ宙に残っていた直人の手を、灯から握った。
触れた瞬間、直人の指が驚いたように少し開く。すぐに握り返された手は、触れ合い水槽の水よりも温かかった。前に人混みでつないだときのように弱すぎず、強すぎもしない。灯が歩きだせば同じ速さでついてくる、ちょうどいい力だった。
2人は手をつないだまま、いちばん大きなクラゲの水槽まで歩いた。
天井近くまである水槽の中を、白いクラゲがゆっくり昇っている。照明が落とされると、暗い海の中に浮かぶ星のように見えた。灯と直人は正面の長椅子へ並んで座ったが、どちらも手を離さなかった。
「ちゃんと付き合うようになっても、急に何か変わるわけじゃないんだな」
水槽を見上げたまま、直人が言った。
「変わったよ」
「どこが?」
「今、私から手をつないだ」
「それは、かなり変わったかも」
直人の声がうれしそうで、灯は水槽から目を逸らせなくなった。頬まで青い光に染まっているはずなのに、熱くなっていることだけは隠せない。
「あと、直人くんのこと、前より知ってる」
「例えば?」
「待ち合わせに15分も早く来ること。ヒトデを怖がらないこと。ペンギンより私の顔を見てること」
「最後のは忘れて」
「もう覚えたから無理」
灯が笑うと、つないだ手に少しだけ力が加わった。
「俺も、灯のこと、前より知ってるよ」
「例えば?」
「水族館に来ると魚より先に走ること。ヒトデの裏と俺の手を間違えること。ペンギンが魚をもらえるまで本気で心配すること」
「変なことしか覚えてないじゃん」
「かわいいところを言ったつもりなんだけど」
今度こそ、灯は何も答えられなかった。直人もそれ以上は言わず、2人の間へ視線を落とす。重なった手の上を、水槽の光が青から紫へゆっくり通り過ぎた。
*
出口近くの売店には、館内で見た生き物のぬいぐるみや文房具が並んでいた。
灯は棚の端にあった栞を見つけ、足を止めた。薄い透明な板の中に、小さな魚やペンギン、クラゲが印刷されている。文庫本へ挟んでも上の飾りだけが残る作りで、直人から借りている本にちょうどよさそうだった。
「これ、いいね」
「本読むときに使えそう」
同じことを考えていたらしい。2人で棚を覗き込み、灯は魚を抱えたペンギンの栞を手に取った。今日ずっと魚をもらえなかった1羽とは違い、そのペンギンは誇らしそうな顔をしている。
「直人くん、これ使う?」
「くれるの?」
「今日、飲み物を買ってもらったから」
「値段、こっちのほうが高いよ」
「じゃあ、次に本を貸してくれる分も入れて」
「それなら、何冊でも貸す」
直人はペンギンの栞を受け取り、代わりに淡い青色のクラゲが浮かぶものを選んだ。細い触手の周囲には銀色の点が散り、水槽で見た光によく似ている。
「灯には、こっち」
「私ももらっていいの?」
「次に貸す本へ挟んで。返しても、栞は灯が持ってていいから」
会計を終え、店の外で交換する。栞は薄くて軽いのに、鞄へしまうときには折れないよう何度も位置を確かめた。
帰りの電車は、行きより空いていた。
並んで座り、今日撮った写真を直人の携帯電話で見返す。大水槽の前で係員に撮ってもらった2人、餌を待つペンギン、青く光るクラゲ。最後の写真には、水槽のガラスへ映った灯と直人の姿も小さく重なっていた。
「この写真、送って」
「全部?」
「そう、全部」
「魚だけのも?」
「それも今日の思い出だから」
直人は笑いながら写真を選び、灯の携帯電話へ送った。届いた画像を順に見ているうち、規則的な電車の揺れと朝から歩き回った疲れが重なり、灯の瞼は少しずつ重くなっていった。
次に目を開けたとき、頬のすぐそばに紺色の布があった。
灯は直人の肩へ頭を預けていた。慌てて体を起こすと、直人も張りつめていた背中をようやく動かすように息をつく。
「私、寝てた?」
「少しだけね」
「少しって、どのくらい?」
「2駅くらいかな」
「それは少しじゃないよ。起こしてよ」
「次の駅までは大丈夫だったから」
直人はそう言いながら、灯が寄りかかっていたほうの肩をゆっくり回した。
「重かったでしょ」
「全然」
「今、肩痛そうにした」
「動かさないようにしてたから固まっただけ。灯が重かったわけじゃないから」
「えー、でも、ごめん」
「謝らなくていいって」
直人は肩を回すのをやめ、少し照れたように窓の外を見た。
「次も眠くなったら、使っていいから」
「直人くんの肩?」
「ほかに貸せるものがないし」
灯は笑って「考えておく」と答えた。窓の外では、傾き始めた陽射しが住宅の屋根を次々と流れていく。朝は15分も早く来ていた直人と、帰りは2駅ぶん同じ眠りを分け合った。そのどちらも、今日まで知らなかったことだった。
*
家へ帰り、灯は鞄からクラゲの栞を取り出した。
直人から借りている文庫本を机の上へ置き、昨日まで読んだページへ挟む。透明な板は紙の間へ隠れ、上端から淡い青色のクラゲだけが顔を出した。水槽の中で見たときのように、机の明かりを受けて銀色の点が小さく光る。
携帯電話が震え、直人からメッセージが届いた。
――今日はありがとう。栞、次に読む本に使う。
続けて、ペンギンの栞を文庫本へ挟んだ写真が送られてくる。灯も自分の机の上を撮り、返信した。
――私も使ったよ。今日は楽しかった。誘ってくれてありがとう。
既読がつき、少しして次の言葉が届く。
――次は、どこへ行きたい?
灯はすぐには答えず、今日1日を順番に思い返した。大水槽も、ペンギンも、クラゲも楽しかった。けれどいちばん胸に残っているのは、水族館のどこを見たかではなく、そのとき隣で直人が何を見て、何を言っていたかだった。
――今度は、直人くんが行きたいところがいい。私も知りたいから。
送信してから、少し言葉が足りない気がした。
――直人くんの好きなもの。
今度はすぐに返事が来た。
――じゃあ、考えておく。今度は10分前に着くようにする。
――それでも早いよ。
灯は笑いながら携帯電話を伏せた。
手をつなぐことも、隣を歩くことも、これからはいちいち聞かなくていい。けれど、言葉にしなくても何でもわかるほど、灯はまだ直人のことを知らなかった。
だから知りたいと思う。
直人が好きなものを、これからひとつずつ。
毎回尋ねることは、直人の優しさでした。
「もう、毎回聞かなくてもいいよ」という灯の言葉は、その優しさを拒むものではなく、直人を信じて自分から近づいた証です。
次話「知らないこと」へ続きます。




