それでいいの?
灯と直人の関係から、「お試し」という言葉が消えました。
一方、何も変えないことを選んだ陽流へ、真帆が初めて真正面から問いかけます。
月曜日の朝、灯が玄関を出ると、陽流は門柱にもたれたまま空を見上げていた。
頭上には薄い雲が広がっているものの、雨が降りそうな暗さではない。灯もつられて見上げ、それから陽流の手に折り畳み傘があることに気づいた。
「今日、雨降るの?」
「午後から降るって」
「こんなに明るいのに?」
「降水確率60%。灯、傘持ってきた?」
灯は自分の鞄を開き、教科書の間まで確かめた。入れた覚えがないのだから見つかるはずもなく、陽流へ向かって首を振る。
「時間あるから取ってくれば?」
「戻ったら遅れるよ」
「今日はまだ1分前だよ」
「往復したら2分以上かかるでしょ。陽流、傘持ってるんだよね?」
「折り畳みだから、2人で入ったら狭いよ」
「少しくらい濡れても平気。帰りは入れてね」
「最初から忘れる気だったみたいに言わないでよ」
陽流は呆れながら傘を鞄へしまった。灯が隣へ並ぶと、いつもの歩幅で学校へ向かう。
金曜日、直人とお試しではなく付き合うことを決めてから、土曜日と日曜日を挟んだ。学校へ行くのは今日が初めてだ。隣に陽流がいて、教室には直人と真帆がいる。そのことは先週までと同じなのに、直人と交わした言葉を思い出すたび、灯は自分だけが少し変わったような気がした。
「何かいいことあった?」
陽流に尋ねられ、灯は自分が笑っていたことに気づいた。
「どうして?」
「さっきから機嫌よさそうだから」
「うん。ちょっとだけ」
「何?」
言おうとして、灯は陽流の顔を見た。
直人とちゃんと付き合うことになった。そう伝えるだけなのに、なぜか朝の道では言いにくかった。前にお試しで付き合い始めた時は、真帆に止められなければすぐに話すつもりだったのに、今日は言葉が喉の手前で止まる。
「あとで話す」
「今じゃだめなの?」
「学校に着いてから」
「別にいいけど」
陽流は不思議そうに灯を見たが、それ以上は聞かなかった。いつもの横断歩道で車が曲がってくると、灯の前へ腕を出して止める。信号が青へ変わるまで待ち、2人で並んで渡った。
*
教室へ入ると、直人は自分の席で鞄の中を探していた。
灯に気づき、机の中から文庫本を1冊取り出す。金曜日に次は交換して読もうと話した本らしい。
「おはよう。これ、持ってきた」
「もう貸してくれるの?」
「昨日読み終わったから。今度は灯が犯人を当ててよ」
「最初から推理小説って決めないでね」
「違う本がいい?」
「直人くんが面白かったなら何でも読むよ」
差し出された本を受け取る。指先が触れたのは一瞬だったが、金曜日に手をつないだ時の温度が戻ったようで、灯は表紙を胸元へ寄せた。
直人も少し照れた顔をしている。お試しという言葉が消えても、2人の呼び方も、教室で交わす挨拶も変わらない。それでも互いに同じことを覚えているのだと思うと、灯はまた笑ってしまった。
「朝から楽しそうだね」
真帆が自分の席からやってきて、灯と直人の間にある本を覗き込んだ。
「次に読む本を借りたの」
「それだけ?」
「それだけって?」
「灯、何か話したそうな顔をしてるから」
朝の道では言えなかったことを、真帆にはすぐに見抜かれた。灯は直人を見る。直人が頷いたため、真帆の腕を引き、教室の窓際へ少し離れた。
「お試し、終わったよ」
真帆の目がわずかに大きくなる。
「別れたの?」
「違うよ。お試しじゃなくて、ちゃんと付き合うことにしたの」
「ああ、そっち」
真帆は息をつき、肩の力を抜いた。驚いた顔を隠すように窓の外へ一度目を向け、それから改めて灯を見る。
「倉田くんから言われたの?」
「私から。お試しっていつまでなのか聞いたら、直人くんは私がやめたいんだと思ったみたいで。それで、お試しじゃなくてちゃんと付き合うのはだめかって聞いたの」
「灯から言ったんだ」
「そんなに意外?」
「少しね」
真帆の口元が緩む。からかわれるのかと思ったが、何も言わず灯の手を取った。
「そっか。おめでとう」
「ありがとう」
「倉田くんのこと、好きって言えた?」
「うん。最初よりずっと好きだって」
答えると、真帆は握っていた手へ少しだけ力を込めた。嬉しそうに笑いながらも、その奥で何かを考えているように見える。
「どうしたの?」
「何でもない。灯が自分で決めたなら、それでいいと思うよ」
「陽流にも話そうと思ったんだけど、朝はなんだか言えなかった」
「どうして?」
「わからない。学校に着いてからなら言えると思ったの」
真帆は教室の後ろへ視線を向けた。陽流は自分の席に座り、先ほど灯が直人から受け取った本を見ている。目が合う前に教科書へ視線を落としたため、灯は見られていたことに気づかなかった。
「言うなら、今度は灯が自分で言ったほうがいいよ」
「今度は止めないの?」
「前とは違うから」
「何が違うの?」
「それも、そのうちわかるんじゃない?」
予鈴が鳴り、真帆は答えを残したまま自分の席へ戻った。
*
昼休み、直人は自分の弁当を持って灯の机へ椅子を寄せた。真帆も一緒に食べるつもりで前の空いた席へ座り、3人で机を囲む。
お試しではなくなったことを知っているのは、今のところ真帆だけだった。周囲の生徒には以前から付き合っていると思われているため、わざわざ伝えることもない。教室の後ろでは陽流が男子数人と弁当を食べており、灯は何度かそちらを見たが、話しに行くきっかけを掴めなかった。
「ちゃんと付き合って、何か変わった?」
真帆が卵焼きを箸で切りながら尋ねる。
「まだ何も変わってないよ」
「今日が最初の学校だからね」
直人も弁当箱から顔を上げた。
「何か変えたほうがいい?」
「どうして私に聞くの?」
「灯に聞いてるんだよ」
「私?」
「急に呼び方を変えるとか、毎日一緒に帰るとか。灯がしてほしいことがあるなら考えるけど」
直人は真面目な顔で尋ねていた。灯は付き合う前から名前で呼ばれ、昼食も帰り道も一緒に過ごしている。これ以上何を変えれば恋人らしくなるのか考え、すぐには思いつかなかった。
「今までどおりでいいよ」
口にしてから、その言葉を前にも使ったことを思い出した。
陽流と朝、一緒に学校へ行くこと。直人と付き合っても、それは今までどおりでいいと譲らなかった。今度は直人との関係に同じ言葉を使っている。
「お試しって言わなくてよくなっただけで、私は嬉しいから」
「俺も。それはかなり違う」
直人が笑い、灯も肩の力を抜いた。
「じゃあ、今日も一緒に帰ろう」
「うん。陽流には先に言っておく」
「湊に毎回報告しなくてもいいんじゃない?」
「朝は一緒に来たから、帰りも待ってるかもしれないでしょ」
「そっか」
直人はそれ以上何も言わなかった。小さく頷いて弁当へ視線を戻したが、箸はすぐに動かなかった。
真帆は2人の間を流れた短い沈黙を聞いていた。それでも何も指摘せず、灯の弁当から形の崩れた卵焼きを見つけ、今日はずいぶん不器用な形だと別の話を始めた。
5時間目が終わると、陽流が灯の席まで来た。次の授業の教科書を持ったまま机の横へ立ち、直人が教師に呼ばれて席を外していることを確かめるように一度だけ後ろを見る。
「朝、あとで話すって言ってたこと、まだ聞いてないんだけど」
「覚えてたの?」
「あとでって言われたら、普通は覚えてるだろ」
灯は机の中へ入れかけていた教科書を持ったまま、陽流を見上げた。真帆にはすぐに言えたのに、陽流を前にすると、やはり最初の言葉が出てこない。
「直人くんのことなんだけど」
陽流の指が、教科書の角を少し強く掴んだ。
「うん」
「お試しで付き合ってたでしょ。それで……」
続きを言う前に、次の授業を担当する教師が教室へ入ってきた。廊下にいた生徒が慌てて戻り、灯と陽流の間も横切っていく。
「ごめん。続きは帰りに話す」
「またあとで?」
「今度はちゃんと話すから」
陽流は何か言いたそうに灯を見たが、教師から席へ着くよう促され、教室の後ろへ戻った。入れ替わるように直人が戻り、灯の隣へ腰を下ろす。
「湊に話した?」
「途中で先生が来ちゃった。帰りに話すって言ったよ」
「俺から言おうか?」
「ううん。私から言う。真帆にもそう言われたから」
直人は頷き、机の上へ教科書を開いた。灯も前を向いたが、教室の後ろから陽流が見ているような気がして、授業が始まるまで振り返ることができなかった。
*
6時間目の途中から、教室の窓に細かな雨粒がつき始めた。
黒板へ向かっている間にも雨脚は強くなり、授業が終わる頃には校庭の白線が見えなくなっていた。部活動の中止を知らせる放送が流れ、廊下には迎えを頼む生徒や、傘を忘れた者の声が重なる。
灯は朝の約束を思い出し、帰り支度を終えると陽流の席へ向かった。
「本当に降ったね」
「だから言っただろ」
陽流は鞄から折り畳み傘を取り出し、まだ巻いたままの紐を外す。灯が自分の鞄を肩へかけたところで、直人も教室の後ろへ来た。
「灯、帰れる?」
「陽流の傘に入れてもらうところ」
「俺、大きい傘持ってるよ。駅までなら一緒に入る?」
直人は鞄の横へ差していた紺色の傘を見せた。陽流の折り畳み傘より一回り大きく、2人で入っても肩が濡れずに済みそうだった。
灯は陽流を見る。
朝から入れてもらう約束をしていたが、陽流は広げかけた傘を一度畳み、鞄へ戻した。
「直人の傘のほうが大きいし、そのほうが濡れないよ」
「陽流は?」
「俺は折り畳みがあるから大丈夫」
「じゃあ、今日は直人くんと帰るね」
「うん。気をつけて」
直人は陽流へ一度視線を向けた。
「悪いな、湊」
「何で直人が謝るんだよ。朝、灯が傘を忘れたから貸すって言っただけだよ」
陽流は笑い、濡れないうちに帰るよう2人を促した。
昇降口で直人が傘を開く。大粒の雨が紺色の布を叩き、2人の頭上だけに小さな乾いた場所ができた。灯が隣へ入ると、直人は車道側へ傘を傾け、自分の肩を少し外へ出す。
「直人くん、そっち濡れてるよ」
「灯が濡れるよりいいよ」
「よくない。もっと真ん中にして」
灯が柄へ手を添え、傘を2人の間へ戻す。直人の手と重なり、肩も触れた。近すぎる気がして一度離れかけたが、直人が傘を持つ手だけはそのままにしたため、灯も指を添えたまま歩きだす。
「これなら2人とも濡れないね」
「少し歩きにくいけど」
「離れたら、どっちかが濡れるでしょ」
「じゃあ、このままでいいよ」
雨音に声が消されないよう、いつもより近くで話す。制服の袖が歩くたびに擦れ、傘の縁から落ちた雫が足元で弾けた。
「ちゃんと付き合ってから、初めて一緒に帰る日が雨だね」
「俺は悪くないと思うけど」
「歩きにくいって言ってたのに?」
「近くないと話せないから、それはいい」
直人が前を向いたまま答える。傘の影でも耳が赤くなったことはわかり、灯は柄へ添えた手を離さなかった。
「陽流に、まだちゃんと話せてないの」
「お試しじゃなくなったこと?」
「うん。朝から話そうとしてるのに、どうしてか言いにくくて」
「無理に今日言わなくてもいいんじゃない?」
「でも、陽流にはいつも何でも話してるから。隠してるみたいになるのは嫌なの」
直人は短く「そっか」と答え、雨の先へ視線を向けた。灯が陽流へ話すことを止めようとはしない。その代わり、肩の触れる距離を少しだけ確かめるように、傘を持つ手へ力を込めた。
校門を出る前に振り返ると、昇降口の屋根の下に陽流と真帆が立っていた。灯が手を振ると、陽流も片手を上げる。真帆は2人の後ろ姿を見つめたまま、しばらく動かなかった。
*
灯と直人の傘が校門の向こうへ小さくなるまで、陽流は折り畳み傘を開かなかった。
朝、灯を入れるつもりで持ってきたわけではない。天気予報を見て、自分が濡れないために鞄へ入れただけだ。それでも帰りは一緒に使うのだと思っていた。直人の傘のほうが大きいと口にしたのも、そのほうが灯が濡れずに済むからで、間違ったことは何もしていない。
「湊くん」
隣に残っていた真帆が呼ぶ。
「小坂も傘あるの?」
「あるよ」
真帆は鞄から細い折り畳み傘を出したが、開こうとはしなかった。校門のほうを見たまま、何から話すか決めるように少し間を置く。
「灯と倉田くん、お試し、終わったよ」
陽流は真帆を見た。
「……別れたの?」
考えるより先に出た言葉だった。
真帆は陽流の顔を見つめ、一瞬だけ目を伏せた。
「逆。お試しじゃなくて、ちゃんと付き合うことにしたの。灯のほうから言ったんだって」
「灯から?」
「うん。倉田くんが好きだって、自分で言えたって」
雨が昇降口の屋根を強く叩いている。周囲にはまだ何人か生徒が残っていたが、話し声も足音も雨に紛れ、真帆の言葉だけがはっきり聞こえた。
灯から言った。
直人に告白され、断れずに始めた関係ではない。お試しの先へ進むことを、今度は灯自身が選んだ。
「そうなんだ」
陽流はそれだけ答え、手に持っていた傘の紐を外した。指がうまく動かず、留め具が何度か滑る。
「湊くんは、それでいいの?」
「灯が決めたことだから」
「灯のことじゃなくて。湊くんは、それでいいの?」
陽流の指が止まった。
それでいいはずがない。灯に好きだと言いたかった。直人より先に隣へいたことを、誰より灯を知っていることを、全部理由にして引き止めたかった。
けれど、それを言って何になるのか。
灯は直人を選んだ。直人は友達で、灯を大事にしている。自分が気持ちを伝えれば、困るのは灯だ。灯を困らせるために好きになったわけではない。
答えられない陽流を、真帆は急かさずに待った。
「倉田くんから奪えばいいって言ってるんじゃないよ」
「わかってる」
「でも、灯が決めたことを理由にして、自分の気持ちまでなかったことにするのは違うと思う」
「なかったことにしないと、困るのは灯だろ」
ようやく出た声は、自分で思っていたより強かった。真帆は反論せず、静かに頷く。
「そうかもしれない。でも、困らせないことと、湊くんが何も感じていないふりをすることは同じじゃないよ」
「俺が好きだって言ったら、灯は困る。直人も友達だし、2人がちゃんと付き合うって決めたのに、今さら何を言えばいいんだよ」
「だから、何かしろとは言ってないよ」
真帆はそこで初めて、自分の傘の紐を解いた。
「ただ、その答えを『灯が決めたから』だけにしないで。湊くんがどうしたいのかまで、灯に決めさせないほうがいいと思う」
傘が開き、真帆の顔が薄い布の影へ入る。
「先に帰るね」
真帆は雨の中へ歩きだした。陽流は呼び止めず、校門の先で姿が見えなくなるまでその場に残った。
*
家へ戻り、自分の部屋で濡れた傘を広げていると、机の上の携帯電話が震えた。
灯からだった。
――今日は先に帰ってごめんね。明日は一緒に行こうね。
謝る必要はない。直人と帰ることは、灯が決めたことだ。そう考えながら返信欄を開く。
――別に謝らなくていいよ。明日は遅れないでね。
すぐに既読がついた。
――2分だけ待ってて。
いつもと同じ言葉に、陽流は少しだけ笑った。
――時間どおりに来いよな。
返事を送り、携帯電話を伏せる。
明日の朝になれば、また灯を待つ。家の隣にいて、学校まで並んで歩く。直人と付き合っていても、灯がそれを望むなら、陽流は今までどおり隣にいられる。
けれど真帆の問いだけは、雨の中へ置いてくることができなかった。
――湊くんは、それでいいの?
画面の消えた携帯電話には、どこにも答えが書かれていなかった。
「灯が決めたことだから」
それは灯を尊重する優しさであり、自分の気持ちから逃げるための言葉でもあります。
雨の中で残された真帆の問いに、陽流はまだ答えを出せません。
次話「もう聞かなくても」へ続きます。




