答えのない問題
数学の問題には答えがある。
けれど、自分の気持ちを問う問題には、どこにも正解が書かれていません。
月曜日の朝、灯の鞄には同じ本が2冊入っているような気がした。
実際に入っているのは、土曜日に買った推理小説が1冊だけだ。けれど直人の鞄にも同じ表紙の本があり、同じところまで読み進めようと約束している。それだけで、離れた場所にもう1冊あることまで自分の持ち物のように意識してしまう。
玄関を出ると、陽流はいつもの門柱の前で待っていた。
「おはよう。今日は時間どおりだね」
「今週は遅れないって決めたの」
「まだ月曜日だけど」
「最初が大事でしょ」
灯が隣へ並ぶと、陽流は鞄の膨らみに目を向けた。
「何か重そうだね」
「本を持ってきたの。直人くんと同じのを買ったから、どっちが先に犯人を当てるか勝負するんだ」
「直人に勝てるの?」
「直人くん、今まで1回も当てたことないんだよ」
「じゃあ勝てそうだね」
陽流が少し笑う。灯は土曜日に本屋で話したことを順に思い出し、写真シールを撮ったところまで口にしかけた。
手をつないだことも、言えば陽流は聞いてくれるだろうか。
けれど朝の道で改めて話すには恥ずかしく、結局、本の内容だけを話した。陽流はいつもと変わらず相槌を打ち、灯が歩道の段差へ躓きそうになると、鞄の持ち手を後ろから軽く引いた。
「今週ずっと遅れないなら、転ばないことも目標にしたら?」
「そんなに転んでないよ」
「転びそうにはなってる」
「転んでないなら同じでしょ」
「違うと思うけど」
言い合いながら学校へ着く。教室へ入ると、直人は自分の席で文庫本を開いていた。灯に気づき、栞を挟んで表紙を閉じる。
「灯、どこまで読んだ?」
「先に直人くんが言って」
「嫌だよ。俺が言ったところより先まで読んでたら、そこに合わせるだろ」
「そんなずるしないよ」
「昨日の夜、何ページまで読んだ?」
探り合っている2人の机へ、真帆が後ろから教科書を置いた。
「朝から何の勝負?」
「同じ本を読んで、どっちが先に犯人を当てるか勝負してるの」
「まだ読んでる途中なんでしょ?」
「うん。だから、どこまで話していいか確認してるところ」
灯が説明すると、真帆は机の上に並んだ同じ表紙を見比べた。
「ちゃんと付き合ってるんだね」
「その言い方、写真を見た時にも言ってたよ」
「だって灯、本当に付き合ってるのか時々心配になるから」
「付き合ってるよ。ね、直人くん」
「俺に確認することなの?」
直人は困りながらも、少し嬉しそうに本を鞄へしまった。
*
朝のホームルームで、担任が1学期の期末テストの日程を黒板へ書いた。
教室中から同時に不満の声が上がる。テストまでは、あと10日。国語、数学、英語、理科、社会の5教科に加え、実技教科の試験もある。担任は日程表を配りながら、今から始めれば十分に間に合うと励ましたが、その言葉を素直に信じた生徒は少なかった。
「星川、数学の小テスト返すぞ」
日程表に続き、先週受けた連立方程式の答案が返された。
名前を呼ばれて前へ出た灯は、伏せられた用紙を受け取る。席へ戻ってからそっと表へ返すと、赤い数字で58点と書かれていた。
「微妙」
「微妙じゃなくて、悪いんじゃない?」
隣から覗いた直人が言う。
「平均点がわからないから、まだ決められないよ」
教師が黒板に平均点を書いた。71点だった。
「悪かったね」
「俺が言ったみたいにしないでよ」
「直人くんは?」
答案を裏返していた直人の手を押さえ、数字を見る。82点だった。
「高い」
「今回はたまたま。最後の問題は全然わからなかった」
「82点の人に58点の気持ちはわからないよ」
「教えようか?」
「直人くんが?」
「その反応なら、やめてもいいけど」
灯が慌てて頼もうとした時、前の席から真帆が答案を差し出した。74点と書かれている。
「私も人に教えている場合じゃないみたい」
「真帆でも数学は苦手なんだね」
「でもって何?」
「真帆、何でもできそうだから」
「残念でした。数字は読んでも気持ちがわからないから苦手なの」
真帆はそう言いながら、教室の後ろへ視線を向けた。陽流は返された答案を机に置き、間違えた箇所を見直している。
「湊くん、何点だった?」
真帆が尋ねると、陽流は答案の上へ筆箱を置こうとした。
「その隠し方は高い人でしょ」
「98点」
「どこ間違えたの?」
「最後の計算で符号を1つ間違えた」
「2点で済む人と、途中から答えが全部違う人がいるんだけど」
真帆が灯を見る。灯は自分の答案を両手で隠した。
「今週の日曜日、勉強会しない?」
「いいね。真帆、教えてくれる?」
「今の点数を見て、どうして私に教えてもらおうと思ったの?」
「私より19点も高いよ」
「灯、16点だよ」
教室の後ろから陽流に訂正され、灯は自分と真帆の答案を見比べた。
「……ほら、そういうところ。数学を教える人は、もっと適任がいるでしょ」
真帆の視線を追い、灯も陽流を見た。
「陽流、日曜日空いてる?」
「今のところは」
「じゃあ、数学教えて」
「灯、前にも同じところ教えたよね」
「前に教えてもらったところは、もうできるよ。今回は新しいところ」
「その答案、本当に見てもいい?」
「見なくていい」
陽流が笑い、灯は答案をさらに胸元へ引き寄せた。
「俺も行っていい?」
直人が尋ねると、真帆は灯より先に頷いた。
「もちろん。倉田くんは社会を教えて。英語は灯に教えてもらったほうがいいと思うけど」
「そこまで悪くないよ」
「この前の授業でも同じところを間違えてたよね」
灯が言うと、直人は何も返せず答案を裏返した。
「場所はどうする?」
「灯の家でいいんじゃない? 湊くんも隣なら集まりやすいし」
真帆に言われ、灯はすぐに頷いた。
「うん。お母さんに聞いておく」
直人だけが一瞬答えるのを遅らせた。灯の家へ行くのは初めてなのだと思い出し、灯は改めて直人を見る。
「直人くんも来てね」
「行くよ。ちゃんと勉強しに」
「ほかに何をしに来るの?」
「何でもない」
直人の耳が少し赤くなり、真帆が笑いを堪えるように口元へ手を当てた。
*
日曜日の午後、灯はリビングのテーブルへ4人分の教科書とノートを並べた。
母は午前中から出かけていたが、冷蔵庫に麦茶があることと、戸棚の菓子を自由に出していいことを伝えてくれた。灯は人数分のグラスを用意し、まだ誰も来ていないうちから麦茶を注ぎかけ、真帆にぬるくなると言われそうで冷蔵庫へ戻した。
約束の10分前に真帆が着き、その3分後に直人が来た。玄関を開けると、直人は紺色のシャツに薄い色のパンツを合わせ、片手に小さな紙袋を持って立っていた。
「こんにちは。早すぎた?」
「真帆ももう来てるよ。上がって」
直人は揃えなくても整っている靴を、さらにきちんと揃えてから家へ入った。廊下の先を気にするように見回し、灯のあとへついてくる。
「これ、みんなで食べようと思って」
差し出された紙袋には、小さな焼き菓子がいくつか入っていた。
「勉強会なのに、わざわざ買ってきてくれたの?」
「初めて灯の家に来るから、何も持たずに来るのもどうかと思って」
「中学生がそんなこと気にしなくてもいいのに」
リビングから真帆が顔を出す。
「倉田くん、灯よりよっぽどしっかりしてるね」
「真帆、私だってお菓子くらい出せるよ」
「まだ出てないけどね」
灯が言い返そうとしたところで、玄関の扉が開く音がした。呼び鈴は鳴っていない。
「灯、いる?」
陽流の声が廊下から聞こえる。
「いるよ。入って」
陽流は自分の家から持ってきたらしい教科書と筆箱を片手に抱え、リビングへ入ってきた。直人の姿を見ると一度だけ足を止めたが、すぐにいつもの顔へ戻る。
「直人、もう来てたんだ」
「湊こそ、呼び鈴くらい鳴らせよ」
「いつも鳴らさないから」
「鍵が開いてたからって、勝手に入らないでよ」
灯が言うと、陽流は少し驚いた顔をした。
「今さら?」
「今日はお客さんがいるから」
「俺も一応、お客さんなんだけど」
「陽流は隣の人でしょ」
「隣の人はお客さんじゃないの?」
「知らない。早く座って」
灯に急かされ、陽流は空いている椅子を引いた。灯がいつも使う席の左に陽流、右に直人、向かいに真帆が座る。4人で教科書を開くと、広いはずのテーブルが急に狭くなった。
*
最初に始めたのは数学だった。
陽流は自分の問題集を開くより先に、灯の答案を見せるよう手を出した。学校では隠したものの、教えてもらう以上は仕方がない。灯が折り畳んだ用紙を渡すと、陽流は間違えた問題へ順に目を通した。
「ここ、移項した時にマイナスが抜けてる」
「ちゃんと書いたよ」
「最初の行にはね。次で消えてる」
「そんな小さい記号、見えないよ」
「大きさの問題じゃないよ」
向かいで同じ問題を見ていた真帆も、自分の答案と見比べる。
「私もここで間違えてる」
「小坂は途中式を省きすぎ。頭の中でやろうとするから符号を落とすんだよ」
「湊くん、教える時だけ先生みたいだね」
「学校の先生より厳しいよ。できる人は、できない人の気持ちがわからないから」
灯が不満を言うと、陽流は新しい紙へ式を書き直した。さっきより1行ずつ間隔を空け、移動した数字に小さな矢印をつける。
「これなら見える?」
「うん。最初からそう書いてくれたらわかるのに」
「今書いたんだよ」
「じゃあ次も同じように書いて」
「自分で書かないと意味ないだろ」
口では呆れながらも、陽流は灯が式を書き終えるまで待った。直人も横から答案を覗き、別の解き方を考えるように鉛筆を動かしている。
「ここ、先に両方を2倍すれば分数が消えるんじゃない?」
「それでも解けるよ。灯はこっちのほうがわかりやすいかも」
陽流が直人の書いた式を灯の前へ移した。
「本当だ。数字が少なくなった」
「だろ?」
直人が少し得意そうに笑う。
「じゃあ、こっちで覚える」
「答えが合えば、解き方は1つじゃないから」
陽流はそう言い、次の問題へ印をつけた。
数学だけで1時間近くかかり、休憩を挟んで社会へ移った。直人は教科書に付箋を貼り、出来事の順番を短い言葉へ置き換えて説明する。灯が似た名前の人物を取り違えると、名前ではなく行ったことと結びつければ覚えやすいと、ノートへ簡単な表を書いた。
「直人くん、教えるの上手だね」
「社会は好きだから。数学は湊の説明のほうがわかりやすいけど」
「陽流は話すのが速いよ」
「灯が途中で別のことを考えるからだろ」
「考えてないよ」
「さっきから、その写真を何回見てるの?」
陽流が灯のノートの横を指した。
携帯電話の透明なケースには、土曜日に撮った写真シールを1枚だけ挟んである。灯は無意識に画面を伏せるたび、その写真へ目を向けていたらしい。
「土曜日に撮ったの。見たい?」
携帯電話を差し出すと、真帆が先に受け取った。
「私には送ってくれたけど、これが一番まともに撮れてたやつだね」
「ほかのは直人くんが目を閉じてたから」
「灯だって笑うの間に合ってなかっただろ」
「最後はちゃんと撮れたでしょ」
真帆から直人へ渡り、直人は照れたように写真を見た。次に陽流の前へ置こうとすると、陽流は教科書へ視線を落としたまま首を振る。
「朝、聞いたからいいよ」
「写真を撮ったことは言ってないよ」
「今見えたから」
「もっと近くで見ないとわからないでしょ」
「勉強中なんだから、そろそろ戻ろう」
陽流は社会の教科書を閉じ、英語の問題集を開いた。真帆は写真を灯へ返しながら、何も言わずに陽流を見ていた。
*
英語では、教える側と教わる側が入れ替わった。
直人が教科書の例文を読み、灯は3語目で手を上げて止めた。
「そこ、発音が違うよ」
「また?」
「この前の授業でも同じところ間違えてたよね」
「似た単語が多すぎるんだよ」
「綴りも全然違うよ。ここを見て」
灯が指で単語を区切り、ゆっくり発音する。直人はその口元と教科書を交互に見ながら繰り返した。2度目も少し違い、3度目でようやく灯が頷く。
「今のは合ってた」
「灯先生、厳しくない?」
「直人くんが何回も間違えるからでしょ」
「数学の時、同じことを言われてなかった?」
真帆に指摘され、灯は口を閉じた。陽流は問題集へ顔を伏せたまま、肩だけを小さく揺らしている。
「陽流、笑った?」
「笑ってないよ」
「絶対笑った」
「英語を続けたら?」
さっきまで教える側だった陽流に言われ、灯は直人の教科書へ向き直った。
最後は国語だった。真帆は問題文に線を引き、登場人物の気持ちを答える箇所で、直前の台詞と動作を囲んだ。
「書いていない気持ちを勝手に想像するんじゃなくて、書いてある言葉から考えるの。ここで目を逸らして、そのあと話題を変えてるでしょ」
「言いたくないことがあるってこと?」
「うん。だから、素直に答えられない」
「そんなの、言ってくれなきゃわからないよ」
灯が言うと、真帆は一瞬だけ顔を上げた。
「そうだね。でも、言えないから別のところに出るんだよ」
「別のところ?」
「目とか、手とか、いつもと違う言葉とか」
真帆はそれ以上説明せず、灯の解答欄を指で叩いた。
「今はこの問題の答えを書いて」
「真帆はわかってるんでしょ?」
「国語の問題ならね」
灯は首を傾げながら、囲まれた文章をもう一度読んだ。
隣では、陽流が作文の問題を前に手を止めていた。選択問題はすべて埋まっているのに、自分の考えを80字以内で書く最後の欄だけが白い。
「湊くん、答えが決まってる問題は速いのに、自分の考えを書くところだけ真っ白だね」
真帆に言われ、陽流は困ったように鉛筆を置いた。
「何を書けば正解かわからないから」
「自分の考えに、最初から正解なんてないよ」
「だから一番難しいんだよ」
陽流は白い解答欄を見たまま答えた。
真帆もそれ以上は言わず、自分のノートへ視線を戻す。灯には、2人が国語の問題とは別の話をしているように聞こえたが、何のことかまではわからなかった。
*
窓の外が夕方の色へ変わる頃、勉強会は終わった。
直人と真帆を玄関まで送り、灯は門の前で2人に手を振った。直人は途中の交差点まで真帆と同じ方向らしく、並んで歩いていく。真帆が何かを言い、直人が振り返る。灯はもう一度手を振り、2人の姿が角を曲がるまで見送った。
「片づけなくていいの?」
後ろから陽流に言われ、灯は家へ戻った。
リビングのテーブルには、4人分の消し屑と、書き込みの増えたノートが残っている。陽流はグラスを重ね、空になった菓子の皿と一緒に持ち上げた。
「それ、置いておいていいよ」
「台所に持っていくだけだから」
どの扉を開ければいいか迷うこともなく、陽流は台所へ入る。直人が初めての家で廊下を見回していた姿を思い出し、灯は少しだけ笑った。
「何?」
「陽流、本当にうちのこと何でも知ってるね」
「隣だからね」
「直人くんは、靴を置く場所も迷ってた」
陽流の手が一瞬止まった。けれどすぐにグラスを流しへ置き、灯のほうへ振り返る。
「初めて来たなら普通だろ」
「そうだよね。今度来たら、もう迷わないかな」
「また勉強会するの?」
「2人でもいいけど」
「……そう」
陽流はテーブルへ戻り、自分の教科書と筆箱を重ねた。
「作文、書けた?」
「一応」
「何て書いたの?」
「見せないよ」
「どうして?」
「自分の考えだから」
「真帆は、正解はないって言ってたよ」
「正解がないから、見せたくないんだよ」
陽流は教科書を抱え、玄関へ向かった。灯もあとを追い、開いた扉の前に立つ。
「今日はありがとう。数学、前よりわかった」
「テストで同じところを間違えなかったらね」
「大丈夫。次は80点取るから」
「急に上げすぎじゃない?」
「目標は高いほうがいいでしょ」
「じゃあ、取れなかったらまた教えるよ」
陽流はそう言い、数歩先にある自分の家へ戻った。
*
夜、灯は自分の部屋で数学の問題を解き直した。
陽流が矢印をつけた式。直人が分数を消してくれた解き方。真帆に途中式を省かないよう書かれた注意。その3つを見比べながら進めると、昼間は難しかった問題の答えが今度は正しく合った。
解答欄へ丸をつけ、携帯電話を手に取る。透明なケースの中では、直人と肩を寄せた写真がこちらへ笑っている。
土曜日、手をつないだことは嬉しかった。今日、同じ本の話をしたことも、隣で勉強したことも楽しかった。直人のことを知るたび、付き合う前より好きになっている。それは間違いではないと思う。
けれど歩道橋で自分から口にした、直人と同じ「好き」かという問いに、今なら迷わず答えられるのだろうか。
灯は携帯電話を伏せ、次の問題を開いた。
数学の問題には、教科書の後ろを見れば必ず答えがある。
自分の気持ちを問う問題だけは、どこを探しても正解が書かれていなかった。
同じ本、同じ写真、つないだ手。
灯は確かに、付き合う前より直人を好きになっています。それでも「直人と同じ好きなのか」という問いだけは、まだ解けないままです。
次話「お試しじゃなくて」へ続きます。




