第8話 三分間の仕掛け
奈緒は大庭の勤務表を会議室の壁へ貼った。二時十四分から二時十七分まで、三分の空白が五年前にも現在にもある。
「この三分で水路の弁を開ける」
大庭は椅子に座ったまま、否定しなかった。
「弁を開ければ、鐘が鳴る。鐘が鳴れば、箱が水路へ流れる」
「仕掛けを認めるんですね」
「私が作った。五年前に閉じた水路を、薬を運ぶために使った」
大庭は、旧河川敷に残った人々へ薬を届けるため、倉庫の在庫を少しずつ動かしていた。出庫票を書けば、患者の存在が明らかになる。正規の手続きを通せば、薬は届く前に回収される。
「だから盗んだ」
「そうだ。助ける方法が、他に見つからなかった」
奈緒は彼の動機を理解した。それでも、正規の患者の分まで不足させた責任は消えない。
「最後に薬箱が動いた夜、あなたは弁の前にいません」
「その夜は、私が開けていない」
奈緒は勤務表、監視カメラ、車の入出庫記録を照合した。大庭は嘘をついていない。最後の夜の二時十四分、彼は市役所の会議室で市長と話していた。
水路の奥にある小部屋から、濡れた名簿の原本が見つかった。名前の横には、榊原の会社が作った立ち退き順位が書かれている。大庭の仕掛けを、榊原が記録の隠蔽に利用したのだ。
奈緒は、二人の行為を同じ罪として扱わないことにした。大庭は薬の無断搬出、榊原は発電機の破壊と記録の隠蔽。別々の証拠を集めなければ、誰か一人を悪者にして終わる。
水路から濡れた紙片が流れた。そこには、榊原が最後の夜に使った車の番号が記されていた。
佐伯の返却時刻は、毎回二時二分になっていた。守衛室の時計は三分遅れているため、実際には二時五分だった。大庭の空白より前に、佐伯は倉庫周辺を確認できる。
奈緒は佐伯に、旧水路の鍵を貸した相手を尋ねた。
「大庭さんです。薬を運ぶためだと思っていました」
「最後の夜も?」
「最後の夜は、鍵は返ってきていません」
鍵が戻らなかったのに、倉庫の封印は残っている。奈緒は、最後の箱が扉から出ていないことを確信した。水野が受け取った箱は、古い機構の滑り台を通り、水路へ落ちた。
大庭の仕掛けは水圧で動く。弁を開ける人間がいなくても、一定量の雨水がたまれば鐘を鳴らせるよう改造されていた。大庭は二時十四分に手動で弁を開け、雨のない夜も機構を動かしていた。
最後の夜は、榊原が弁を操作した。彼は大庭の仕掛けを知り、鐘の音を利用した。では、誰が薬箱を水路へ置いたのか。
佐伯の守衛室から、古い青い外套が見つかった。袖の糸は水路で採取されたものと同じで、左足の踵には赤土が付着している。
「私が置きました」佐伯は言った。「大庭さんが助けようとした人たちを、私も見捨てたくなかった」
彼は薬を盗んだことを認めた。しかし、榊原が名簿を狙っていたことは知らなかった。奈緒は、二つの行為を切り分ける最後の証拠を得た。
佐伯は守衛室の壁に、五年前の小さな写真を飾っていた。洪水の夜、彼が無線機を持って立っている写真だった。右端には、今は撤去された鐘楼が写っている。
写真の時刻表示は二時十四分。佐伯はその時に旧水路の弁を閉める命令を受けていた。閉めた後、取り残された四人から救助を求める声を聞いたという。
奈緒は、佐伯の行為を理解しても見逃さないと決めた。理由がある人間ほど、証拠を残さずに済ませようとする。だからこそ、彼の歩いた道を最後まで記録する必要があった。
佐伯は守衛室の引き出しから、古い青い外套を出した。袖の糸を切り取った後も、外套は捨てられずに残っていた。
奈緒はそれを証拠袋へ入れ、佐伯の告白を録音した。明日は関係者を集め、誰の行為がどこまで重なるのかを順番に示す。
佐伯は外套を畳み、証拠袋の横へ置いた。逃げるための道具だったものが、今は自分を証明する物になっている。
奈緒は袋の封を閉じ、二時十七分の前に会議室の席を整えた。
奈緒は弁の開閉時刻を時計へ合わせた。三分の空白は、偶然ではなく、誰かが選んだ時間だった。
佐伯の供述書には、二時十四分という時刻が二度記された。過去の弁と現在の箱が、同じ三分でつながっている。奈緒はページを閉じた。窓の外では、雨が静かに止んでいた。朝が来る。新しい記録を始める朝だ。




