第9話 鐘を鳴らした男
奈緒は防災センターの会議室に、時刻の書かれた札を並べた。
二時十四分、榊原の調査車が旧河川敷へ入る。二時十五分、発電機の燃料タンクが外される。二時十六分、水路の弁が開く。二時十七分、鐘が鳴る。二時二十分、水が止まる。
榊原は、二時十四分には工事事務所にいたと主張した。しかし、事務所の電話記録は二時十三分で終わり、次の発信は二時二十一分。調査車の運転席からは、燃料用ホースの包装紙が見つかった。
「あなたは大庭の仕掛けを知っていた。だから鐘の音を合図に使った」
「推測です」
「推測だけなら、これを出しません」
奈緒は紙袋から赤い塗料の付いた工具を出した。発電機の配線と、旧水路の金具に同じ塗料が残っている。さらに、榊原の会社の作業靴には、排水口の黒い鉄砂が挟まっていた。
榊原は黙った。彼は薬を盗んだのではない。薬箱が毎晩移動する仕組みを利用し、診療所を無人に見せるため発電機を壊した。名簿を消せば、再開発契約は守られる。
大庭も会議室へ呼ばれた。薬を持ち出したことを認め、出庫票を残さなかった理由を話す。水野は運搬を手伝った。佐伯は古い水路の鍵を渡した。奈緒は、それぞれの行為を別の欄へ書いた。
「一つの悪意にまとめれば、分かりやすい。でも、分かりやすさのために責任を混ぜるのは、五年前と同じです」
榊原は録音機へ手を伸ばした。吉川が腕をつかむ。
「触るな。今度は記録を残す」
奈緒は大庭へ手錠を差し出した。大庭は自分から手を出した。榊原は最後まで抵抗したが、車の記録と工具の跡が、彼の夜を正確に並べていた。
奈緒は、関係者を同じ部屋へ集めなかった。大庭には薬の出庫記録、榊原には車と工具、佐伯には外套と鍵を別々に示す。証拠を混ぜれば、誰かが他人の罪へ隠れる。
まず、大庭の話を聞いた。彼は五年前に水路の仕組みを作り、現在も三夜分の薬を出した。出庫票を書かなかったのは、旧河川敷の患者が行政上存在しないためだった。
次に水野へ、箱の受け取りを確認した。彼女は薬を運んだが、箱を準備していない。足跡の向きと箱の重さが、その証言を裏づける。
榊原は、発電機を壊し、名簿を隠すために弁を開けた。だが、薬の箱を毎晩準備した人物ではない。工具の塗料、会社の車、立ち退き順位が彼の行動を示している。
最後に佐伯へ、五年前の録音を聞かせた。彼の声で救助を求めた記録が流れる。佐伯は、救助隊が来なかった後、自分で水路の鍵を持ち帰ったことを話した。
「大庭さんが仕掛けを直した。私は倉庫から箱を受け取り、ポンプ場へ置いた。二時十七分に鳴る鐘は、薬を回収する合図だった」
奈緒は、佐伯が箱を運んだ証拠を示した。外套の袖の青い糸、左足を引く歩き方、床下に残った同じ靴底の跡。水野が見た人物の特徴と一致する。
佐伯は抵抗せず、薬の無断搬出を認めた。彼は善意で動いたが、正規の患者の薬を抜き、記録を作らなかった。奈緒は彼の動機を理解しながらも、責任を消さなかった。
「助けたことと、許されることは別です」
「分かっています。あの夜も、分かっていれば戻れた」
夜明け前、奈緒は証拠一覧へ全員の署名をもらった。鐘が鳴る時刻は、もう謎ではない。残るのは、消された名前をどう戻すかだった。
佐伯の供述が終わると、窓の外が明るくなった。雨雲の切れ間から、鐘楼の屋根だけが見える。
奈緒は証拠一覧の最後に、犯行を成功させた人間だけでなく、止める機会があった人間も記した。大庭は行政へ届けなかった。水野は正規の手続きを使わなかった。榊原は他人の仕掛けを利用した。佐伯は鍵を返さなかった。
誰か一人を倒せば解決する事件ではない。関係者がそれぞれ一つずつ選択を誤り、二時十七分の鐘を鳴らした。
奈緒は全員の供述を時刻表へ反映し、最後に空欄を二つ残した。佐伯が箱を置いた時刻と、榊原が弁を開けた時刻である。
空欄が埋まった時、事件は終わる。だが、名前が戻るまで本当の決着にはならない。奈緒は夜明けを待たず、記録の提出先へ電話をかけた。
大庭は提出書類の最後へ署名した。佐伯も続き、榊原だけがペンを持つ手を止めた。
奈緒は署名の有無を記録した。認めない態度も、記録すべき事実の一つだった。
会議室の録音機には、全員の声が残った。聞き返す人がいる限り、消された記録はもう一度消えない。




