第5話 五年前の記録にある二時十七分
市役所の地下書庫は、昼でも蛍光灯が暗かった。紙と防虫剤の匂いがこもり、棚の間を歩くたびに床が小さく鳴る。
奈緒は五年前の洪水記録を借り出した。水位表、避難勧告、救助隊の出動表、未帰還者名簿。どの記録にも二時十七分という時刻が現れる。
「避難勧告が二時十七分なら、その前に水路は危険だったはずです」
吉川が地図へ定規を当てた。橋が流された時刻は二時五分。住民は、勧告が出る前に逃げ道を失っていた。
奈緒は名簿の人数を数えた。記載された未帰還者は十二人。消防団の古い出動表には十六人とある。差の四人が、記録から消されている。
その時、古参の消防団員、グレンが書庫へ入った。彼は五年前の現場にいたが、当時のことをほとんど話さない。
「四人は、旧河川敷の診療所に残っていた」
「なぜ記録にないんですか」
「撤退命令が出た。戻るなと言われた」
グレンは、当時の隊長が大庭だったと認めた。大庭は全員を救うための人員が足りないと判断し、旧水路の弁を閉めた。弁を閉めた時刻が二時十七分だった。
奈緒は大庭を問い詰めた。大庭は否定しなかった。
「救助できなかったことを、数字の整理で隠した。今も後悔している」
「後悔しているから、薬を無断で動かしているんですか」
「それは、まだ君に話せない」
大庭の勤務表には、現在も毎週二時十四分から二時十七分まで空白がある。奈緒は、鐘の仕掛けを作れる人物が大庭だと考えた。
だが、書庫の貸出記録には別の名前があった。再開発会社の榊原が、三日前に旧水路の図面を借りている。
古い罪を悔やむ人間と、古い罪を利用する人間。奈緒はどちらを先に追うべきか決められなかった。
奈緒は、五年前の救助無線を聞くため、消防署の保管庫へ向かった。古い録音機はテープを巻くたびに甲高い音を出す。二時十七分の前後だけを再生すると、四人の住民が取り残されたという通報が残っていた。
通報の発信者は、当時の臨時職員だった佐伯だった。彼は救助隊へ場所を伝えたが、隊長から「記録にない区域だ」と返されている。
佐伯は現在の守衛室で、ようやく口を開いた。
「私は、あの夜に戻れなかった。だから今度は、水路を使えば薬を届けられると思った」
「仕掛けを作ったのは大庭さんでは?」
「仕掛けを知っていたのは大庭さんです。私が鍵を貸した」
この証言で、奈緒は佐伯が単独犯ではないと考えた。彼は倉庫へ入れるが、鐘の機構を作った技術はない。大庭は技術を持つが、最後の夜の位置が合わない。
グレンは古い隊員名簿の裏へ、四人の名前を鉛筆で書いた。消される前に覚えていた名前だという。
「名前を戻しても、五年は戻らない」
「でも、戻さなければ五年がなかったことになる」
奈緒は名簿の署名を拡大した。最後の頁だけ、現在のボールペンで追記されている。大庭の署名に見えた文字は、別人がまねたものだった。犯人は過去の記録を知り、責任者を大庭に見せかけている。
グレンは四人の名前を読み上げる時、二人目のところで声を詰まらせた。その人は彼の妹で、救助隊の記録では最初から現場にいなかったことになっている。
奈緒は名簿の数字を訂正せず、元の欄を残したまま別紙へ事実をまとめた。古い記録を上書きすれば、改ざんの跡まで消える。
大庭は「数字で人を救えると思っていた」と話した。奈緒は前職で数字を信じていた自分を思い出し、正しい数字だけでは足りない場合があると初めて認めた。
書庫を出る前、奈緒は名簿の複写を二部作った。一部は警察へ、一部は生存者へ渡す。原本を一か所に置けば、また誰かが消せるからだ。
大庭の空白と榊原の図面貸出。二つの時刻が初めて同じ紙の上で重なった。奈緒は、次に動く人物を待つことにした。
大庭の机には、まだ提出されていない退職届があった。日付は五年前の洪水の翌日になっている。
奈緒は届を持ち去らず、写真だけを残した。過去の判断は、現在の記録で確かめなければならない。
古い録音テープは、最後まで再生すると無音になった。そこに残らなかった声こそ、これから探すべき証言だった。
グレンは書庫の鍵を返し、入口で立ち止まった。「今度は、記録の続きを書ける」と言った。奈緒はその言葉を聞き、名簿の余白を閉じなかった。




