第4話 消えた配達員と廃ポンプ場
水野の自宅は、センターから歩いて十五分の古い団地にあった。部屋の鍵は開いていたが、台所の湯は冷め、玄関には履き替えていない靴が残っている。急いで出たのだ。
奈緒は部屋を荒らさず、テーブルの上だけを確認した。病院の受領控え、弟の写真、そして「二時十七分」と書かれた小さな付箋。付箋の裏には、赤い門を三つ目の石から数えるような線が引かれていた。
「弟の悠斗は、五年前の洪水で行方不明になっています」吉川が市の記録を読んだ。「遺体未確認のまま、死亡扱いです」
「家族が生存を信じているだけではありません。水野さんは、会っている」
二人は旧河川敷へ向かった。崩れかけたポンプ場の扉は、針金で留められているだけだった。中には電気毛布、缶詰、薬の空袋が並び、壁には日付の書かれた丸印があった。
水野は奥の部屋にいた。手には抗生物質の箱があり、足元には赤い救急袋が置かれている。
「悠斗はどこですか」
「病院へ行きました。熱が下がらなかったから」
水野は、五年前の避難所で弟が別の家族に連れ出されたと話した。市の名簿から悠斗の行を探しても見つからない。最近、河川敷の診療所で働く女性から、生存を知らせる連絡が来たという。
「薬箱は盗みましたか」
「私は受け取っただけです。誰かが水路へ置き、鐘が鳴った後に回収します」
「誰が置くのですか」
「救助隊の古い外套を着た人。顔は見ていません」
外から車のドアが閉まった。吉川が飛び出すと、黒い車が砂利を跳ねて遠ざかった。ナンバーの末尾だけが見える。市の再開発事業者が使う車だった。
奈緒は水野を連行しなかった。彼女を疑い続けることより、次の受け渡しを見届ける方が、薬箱を動かす人物に近づける。
ポンプ場を出る前、水野が倉庫から持ってきた箱を開けた。中身は薬ではなく、濡れた古い名簿だった。
ポンプ場の奥には、診療所として使われた部屋が二つあった。水野は一つの机に薬を並べ、もう一つの部屋には毛布を敷いている。壁際には、患者の名前ではなく症状だけを書いた紙が貼られていた。
「名前を書けば、誰かがまた消します」
「名前がなければ、助けを呼べません」
「だから、弟の名前だけは残しました」
悠斗は五年前の洪水で流されたのではない。避難所から別の施設へ移された後、書類の取り違えで死亡扱いになった。水野は数か月前、施設の古い写真から弟を見つけたという。
奈緒は、薬箱の受け渡しが始まった日を尋ねた。水野は壁の丸印を指した。最初の日は、古い名簿が市役所で廃棄された日と一致している。
水路へ薬を置く人物は、外套の袖に青い糸を付けていた。水野は顔を見ていないが、歩く時に左足を引いていた。大庭にはその癖がない。佐伯は右足を引く。奈緒は黒い車の持ち主へ疑いを移した。
その時、外でガラスが割れた。誰かが窓へ石を投げ、壁の患者一覧が落ちる。水野は弟の写真を胸へ押しつけた。
奈緒は追跡を諦め、診療所の薬を安全な箱へ移した。敵を追えば、ここにいる人たちが無防備になる。彼女は初めて、調査の速さより現場を守る判断を選んだ。
水野は弟の写真を奈緒へ渡さなかった。写真の裏に、五年前の避難所の受付番号が書かれているからだという。その番号を市の記録へ入力すれば、悠斗の移送先が分かるかもしれない。
奈緒は窓から外を見た。黒い車はもうないが、砂利の上にタイヤの溝が残っている。車の左後輪だけ空気圧が低く、曲がる時に深い線を引いていた。
彼女は車を追う代わりに、タイヤ痕を撮影した。足の速い人間より、残る跡の方が逃げない。
ポンプ場を出る時、水野は奈緒へ小さな鍵を渡した。悠斗が使っていた薬箱の鍵だという。
「あなたが本当に助けるつもりなら、箱を開ける時は一人で決めないで」
奈緒は頷き、鍵を証拠袋へ入れた。守ることと隠すことの境目を、これから確かめなければならない。
奈緒は診療所の入口に、市の救急連絡先を書いた紙を貼った。隠れた場所に、正式な助けの道を一つだけ作る。
水路の外で、黒い車のエンジンが再びかかった。追うべき夜が、もう一度始まる。
ポンプ場の患者たちは、奈緒へ名前を告げなかった。代わりに必要な薬の数を伝えた。彼女はその数を、今度は正式な表へ記録した。




