第3話 赤土の足跡が向かう先
奈緒は水野の配送車を市役所裏の屋根付き駐車場へ移した。朝の風に混じって、濡れたアスファルトと段ボールの匂いがする。
荷台には病院へ届けた輸液の空箱が並んでいた。床に赤土はない。薬箱を車へ積み、旧河川敷へ運んだなら、どこかに同じ土が残るはずだった。
「疑っているなら、警察に渡してください」
水野は運転席に座ったまま言った。
「疑いを証拠に変えるまでは、誰にも渡しません」
「その間に、弟の薬がなくなったら?」
その言葉で奈緒の手が止まった。水野は、センターの医薬品が旧河川敷の人々へ流れていることを知っていた。弟という言葉を聞かれたと気づき、口を閉じる。
奈緒は靴底の泥を採取した。赤土の粒は大きく、乾いている。薬箱の底板に付着した泥は細かく湿っていた。同じ場所から採れた土でも、歩いた靴と水に押された箱では残り方が違う。
吉川が台車の車輪跡を見つけた。跡は防災センターの裏から旧河川敷へ続き、排水口の前で途切れている。排水口の格子には、鐘楼の内部に使われる真鍮の切れ端が引っかかっていた。
「水野さんが台車を押した?」
「私なら車を使います」水野は答えた。「台車を使う人は、道があることを知っている人です」
奈緒は旧水路の図面を土木課から借りた。水路はセンターの倉庫の下を通り、河川敷の廃ポンプ場へつながっている。ポンプ場は五年前に使われなくなった施設だ。
その夜、奈緒と吉川は水路の入口を調べた。中から水滴の落ちる音が一定の間隔で聞こえる。壁の高さ一メートルほどの場所に、青い布の繊維が付着していた。
「人が通った跡です」
吉川が先へ進もうとした時、奥で何かが倒れた。ライトを向けても、そこには古い毛布しかない。
翌朝、水野が配送センターへ来なかった。彼女の机には、旧河川敷の地図と、鉛筆で書かれた「悠斗」という名前が残されていた。
奈緒は、泥の足跡を追うだけでは足りないと悟った。水野が隠しているのは薬ではなく、誰かの存在だった。
奈緒は土木課の小さな分析室を借り、薬箱の泥と水野の靴底の泥を拡大鏡で見比べた。薬箱の泥には黒い鉄砂が多く、靴の泥には枯れ草の細片が混じっている。水野は河川敷を歩いたが、箱をその道から運んだわけではない。
配送センターの同僚、浜田は、水野が毎週火曜に戻りの時間を十二分ずつ変えていたと証言した。
「急いでいる時ほど、あの人は同じ道を使いました」
「旧河川敷へ寄るためですか」
「寄っていたかは知りません。ただ、車の荷台に小さな毛布がある日がありました」
奈緒は毛布の繊維と、水路の壁に残った青い繊維を比較した。材質は同じだった。水野は誰かを運んだのではなく、誰かに毛布を届けていた。
旧水路の出口には、子ども用のスニーカーの跡が残っていた。サイズは悠斗の記録と一致する。だが、足跡は一つだけで、そこから先は台車の車輪跡に重なって消えている。
吉川は水野を捜しに行こうとした。奈緒は警察へ届けるべきか迷った。水野が逃げたなら、証拠を消す危険がある。一方で、彼女が守っている相手が体調を崩しているなら、追跡が救助を遅らせる。
奈緒は配送センターの端末に残る最後の位置情報だけを警察へ渡し、水野の弟の名前は伏せた。証拠を隠すのではなく、まだ保護されていない人を危険にさらさないためだった。
水野の机の引き出しには、古い病院の領収書が束になっていた。金額は小さいが、支払人の欄には毎回違う名前が書かれている。悠斗の治療費を、河川敷の住民が少しずつ負担していたのだ。
奈緒はその領収書を証拠品にせず、水野へ返した。私生活を調べることと、薬箱の経路を調べることを混同したくなかった。
代わりに、配送端末の停止位置だけを正式な記録にした。数字なら、誰の悲しみを見せ物にせずに事実を残せる。
水野の机に残った名前を、奈緒は写真に撮った。紙そのものは持ち去らない。誰かの家族を、捜査の都合でさらに失わせたくなかった。
旧河川敷へ向かう車の窓に、雨の跡が流れている。足跡の持ち主が消えた今、奈緒は残された場所から次の証言を探すことにした。
水野の机に残った鉛筆は、芯がほとんど削れていた。誰かが急いで名前を書いたのではなく、何度も消して書き直した痕がある。
奈緒はその紙を封じ、明朝に病院の古い記録を照合することにした。
分析室の窓に朝日が差し、泥の粒が金色に光った。小さな違いを見落とさなかったことが、水野の行動を盗難から救った。




