第2話 三本の鍵と空白の出庫票
朝六時、奈緒は倉庫の鍵を机の上へ並べた。
管理鍵は大庭、予備鍵は警備員の佐伯、配送鍵は市の委託業者に預けられている。三本とも別の番号が刻まれているが、同じ錠前を開けられる。
消防団から応援に来た吉川悠真が、濡れた床を避けながら中へ入った。彼は現場を見るとすぐ動きたがる。奈緒が測定を始めると、苛立ったように腕を組んだ。
「箱は一つだ。なくなったなら、誰かが持ち出した」
「持ち出した時刻が分からなければ、誰の行動とも照合できません」
奈緒は出入口の幅、棚の高さ、薬箱の重さを台帳から拾った。箱は十六キロある。窓の格子は外せず、扉を通らずに出すには床下の通路しかない。
佐伯は、地下の古い排水設備を知っていると話した。五年前、洪水の水を逃がすために使われたが、現在は封鎖されている。
「床を壊した跡はありません」
「壊さなくても、元から通路があれば箱を動かせます」
配送員の水野千夏は、昨夜十一時に中央病院へ薬を届け、その後は自宅へ戻ったと証言した。奈緒は配送車の記録端末を確認した。病院からセンターへ戻る途中、車が旧河川敷の入口で十二分停止している。
「休憩していました」
「その場所を選んだ理由は?」
「道が狭くて、後ろの車を先に行かせたんです」
水野の靴底には赤茶色の土が付いている。センター周辺の土は灰色で、赤土は旧河川敷にしかない。彼女が何かを隠している可能性は高い。
奈緒は三人の鍵の返却時刻を確認した。大庭は午前一時四十分、佐伯は二時二分、水野の配送鍵は二時三十一分。水野が鐘の直前に鍵を返していないことだけは分かった。
その時、佐伯が倉庫の棚を動かした。床板の隙間から、赤い糸の付いた小さな金具が出てくる。金具には「旧水路弁」と刻まれていた。
「これは何ですか」
佐伯の顔から血の気が引いた。
「廃棄した設備の部品です。なぜ、そこにあるのかは知りません」
奈緒は出庫票の空欄を指でなぞった。数字を埋めれば安心できる。しかし今は、空欄そのものが一番正直な証拠だった。
奈緒は三本の鍵を順番に鍵穴へ入れ、回す角度と抵抗を記録した。管理鍵は最後まで滑らかに回る。予備鍵は途中で一度引っかかる。配送鍵には赤い粉が詰まっていた。
佐伯は予備鍵を使ったのは前夜の巡回時だけだと言った。しかし巡回表の記載時刻と、守衛室の入退室センサーの時刻が四分ずれている。四分は、倉庫を開けて箱を動かすには十分だった。
奈緒は彼の制服の袖口に、紙と同じ青いインクを見つけた。佐伯は倉庫の棚卸し票を清書したことは認めたが、箱を触ったことは否定する。
「金具は知りません」
「でも、旧水路のことは知っている」
「昔の設備です。今さら使えるとは思わなかった」
吉川が床板の下へ細いカメラを差し込んだ。映ったのは、泥の上に残る二本の線と、折れた木の滑り台だった。箱を持ち上げずに、傾斜で水路へ送ったらしい。
奈緒は台帳の重量欄を見直した。消えた箱は十六キロ、戻った箱は十五・八キロ。わずかな差は、薬包が一つ抜かれた重さとほぼ一致する。
誰かは箱を運び、誰かは中身を抜き、誰かは記録を空欄にした。三本の鍵は一人の犯人を示さなかった。
奈緒は出庫票の用紙を一枚ずつ透かした。空欄の票だけ、紙の繊維が水分で膨らんでいる。書かれた文字が消されたのではなく、濡れた状態で最初から何も書かれていなかった。
佐伯は倉庫へ入った記憶がないと言ったが、守衛室の湯飲みには同じ黒い砂が付いていた。誰かが水路から戻り、給湯器のそばで手を洗った形跡だった。
奈緒は鍵を使った人物を追うのではなく、鍵を使わずに箱を動かせる人物を探すことにした。鍵の数は三本でも、道は一つしかない。
佐伯は鍵を受け取る時、いつも番号を声に出していた。奈緒はその習慣を勤務記録の端へ書き留めた。番号を知っていれば、鍵を持たずに複製を作れる。
床板の金具は、倉庫の中ではなく、過去の設備から来たものだった。明日は旧水路の出口を調べる。
奈緒は三本の鍵を保管箱へ戻し、鍵の横へ使用目的を書く札を付けた。誰が持つかだけでなく、なぜ持つかが必要だった。
床下から、遠くで金属を叩く音が返ってきた。水路の先に、まだ人がいる。
鍵の札を並べると、空いた欄が一つだけ残った。返却時刻ではなく、借りた理由を書く欄だ。奈緒はそこへ「旧水路確認」と記した。




