第1話 二時十七分に鳴る鐘
午前二時十七分、日向市防災センターの屋上から、乾いた鐘の音が三度響いた。
三枝奈緒は仮眠室の薄い毛布を跳ねのけ、窓へ走った。夜の街は雨上がりで、道路の照明が水たまりに細く伸びている。鐘楼はセンターの東端にあり、五年前の洪水で旧分署が閉鎖されてから、一度も使われていない。
「火災ですか?」
夜勤の警備員、佐伯が無線機を握った。
「消防からの連絡はありません。救助要請も入っていません」
奈緒は壁時計を見た。表示は二時十七分で止まっていた。電池切れではない。秒針だけが、二時十七分の位置で小刻みに震えている。
危機管理課の臨時職員である奈緒は、倉庫の在庫確認を担当していた。人の顔色を読むのは得意ではないが、数のずれには気づける。前の職場では、毎月一箱ずつ消えていた部品の記録から、不正な返品を見つけた。
彼女は災害用医薬品の棚を開けた。鎮痛剤、抗生物質、輸液の箱が並んでいる。そのうち抗生物質だけが一箱欠けていた。出庫票はなく、在庫表の残数は前日のままだった。
倉庫の扉には市の封印が貼られている。封印は破れていない。鍵穴の周囲にもこじ開けた跡はなかった。
「記録漏れでしょう」危機管理課長の大庭が言った。五年前の洪水で現場指揮を執った男で、鐘の音を聞いてから、左手の腕時計を何度も確かめている。
「鐘と薬箱が同じ夜に動いています」
「古い機械の誤作動と事務のミスだ。二つを事件にするな」
奈緒は返事をせず、棚の写真を撮った。薬箱があった場所の奥に、濡れた紙片が落ちている。
『二時十七分、忘れられた場所へ』
差出人の名前はない。紙には川底のような黒い砂が付着していた。奈緒が封筒へ入れようとした時、鐘楼の方から水の流れる音が聞こえた。
雨は一時間前に止んでいる。倉庫の床は乾いている。それなのに、扉の下から細い水の筋が伸び、東の壁へ消えていた。
奈緒は翌朝までに、薬箱がどこへ消えたのかを確かめることにした。課長の命令より、空欄になった一行の方が気になった。
奈緒は鐘楼へ続く扉の前に立った。封印の紙は乾いている。扉の内側から聞こえた水音だけが、さっきの出来事を証明していた。
佐伯が鍵を差し出す。「入るなら、私も同行します」
「今まで何を見ていましたか」
「鐘は鳴らないと思っていました。五年前から、誰も鳴らすなと言われていたので」
階段の壁には洪水の水位線が残っている。奈緒は線の高さを測り、鐘が鳴った時刻と古い水路の水が増える時刻を比べた。雨が止んだ後に流れが生まれたなら、どこかで人工的に水が通されたことになる。
鐘の舌には新しい擦り傷があり、綱を引いた跡はなかった。奈緒は傷の幅を紙へ写し、倉庫の棚から見つかった金具と照合することにした。
「課長へ報告しますか」
「まだです。報告書に犯人という言葉を書いたら、調べる前に結論が決まります」
仮眠室へ戻ると、内線電話が鳴った。相手は名乗らず、「薬箱は盗まれたのではない」とだけ言った。奈緒が問い返す前に通話は切れた。
受話器の履歴には、旧河川敷の公衆電話の番号が残っていた。
奈緒は、鐘の音を録音した端末の波形を拡大した。三度目だけ音が低く、直前に水が金属板へ当たる音が混じっている。鐘そのものが鳴ったのではなく、内部の舌へ外から力が加わったのだ。
彼女は水路の図面を壁へ貼った。倉庫の真下にある配管は、鐘楼の基礎を通って東へ向かう。箱を運ぶ通路と鐘を鳴らす仕組みが同じ場所にあるなら、犯人は倉庫の鍵を持たなくてもよい。
大庭が報告書を急がせた理由も変わった。誤作動として処理すれば、誰も床下を調べない。奈緒は調査対象を「盗難」ではなく「移動経路」と書き換えた。
奈緒は内線の発信元を記録し、紙片の黒砂を小袋へ移した。公衆電話から倉庫へ連絡できる人間は限られている。事件は外から始まったのではなく、センターの勤務を知る誰かが呼び込んだ。
夜が明ける前、彼女は空欄の出庫票へ赤い線を引いた。数字を埋めるのは、真相を見つけてからでいい。
その番号へ電話をかけると、受話器の向こうで水の音がした。
「明日の夜も鐘は鳴ります」
奈緒は時刻を確認した。「鳴るなら、今度は音の前に行きます」
電話は切れた。誰かは、彼女が調べ続けることを知っている。
奈緒は壁時計の電池を交換した。止まっていた針が動き出し、二時十八分を指す。事件の時刻は過ぎても、調べるべきことは残っていた。




