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彼女を守るために私を使った婚約者の末路  作者: むむさん


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7/8

第7話 私のために、もう我慢はいたしません

公証人の部屋は、紙の匂いが濃かった。


壁一面の棚に、革紐で綴じられた証書が並んでいる。窓辺の机には、封蝋を温める小さな銀炉。火は細く、音もなく燃えていた。


私の前には、白い紙が三枚ある。


ファルナー家私印の返還確認。


四月十三日以降の私名義承認停止。


婚約期間中の実務管理終了。


文字にすると、どれも短い。


あれほど重かった鍵も、帳簿も、印章も、紙の上では数行で済む。


「リディア嬢、ご確認を」


公証人のペルネ老は、丸眼鏡を指で押し上げた。声は乾いている。毎日、誰かの始まりと終わりを紙にしている人の声だ。


私は一枚ずつ目を通した。


日付、名、範囲、責任の所在。


余計な言葉はない。だからよい。


「相違ございません」


父は私の右に座っていた。母は少し後ろ、ミーナの隣にいる。誰も私の代わりに答えない。


それが、今はありがたかった。


ペンを取ると、羽根の軸が指先に馴染む。


リディア・ファルナー。


書き終えたところで、廊下が騒がしくなった。


雨に濡れた靴音。慌てて止める使用人の声。扉の外で、聞き慣れた息が乱れている。


「リディア、いるのだろう」


ユリウス様だった。


ペルネ老が私を見る。


「お通ししますか」


父の手が椅子の肘掛けにかかった。


私は首を振る。


「ここで伺います」


扉が開く。


ユリウス様は、外套を濡らしたまま立っていた。髪の先から水が落ち、床に暗い点を作っている。夜会で見た柔らかな笑みはない。けれど、怒りでもない。


困っている人の顔だった。


「急に押しかけてすまない」


「公証人の前です。ご用件を」


私が言うと、彼は部屋の中を見回した。


紙。


父。


母。


公証人。


それから、私の手元のペン。


「そこまでする必要があるのか」


「必要があるので、しております」


「印章は返した。花代も、こちらで払う。セシリアも反省している」


セシリア様の名が出ると、彼の声だけ少し柔らかくなる。


以前なら、その柔らかさの余白を私が埋めていた。


「それは、よろしゅうございました」


ユリウス様の眉が動いた。


「リディア、頼む。今だけでいい。ガルト商会との契約を見てほしい」


私はペンを置いた。


銀炉の火が、小さく揺れる。


「収支報告書の四頁目に記しました」


「読んだ。父にも言われた。だが、もう契約してしまったんだ」


濡れた外套から、雨と馬の匂いがした。


「君なら、どこを直せばいいか分かるだろう。交渉に同席してくれれば、損を抑えられる」


「私は、グレイヴ家の管理を終了しております」


「分かっている。だが、これは家の問題だ。東区の人間も困っている。使用人もだ」


彼は一歩、前に出た。


「君は、そういう人たちを見捨てるような人ではない」


その言葉は、きれいな刃だった。


見捨てない。


我慢できる。


分かってくれる。


どれも、私の形をして、私ではなかった。


「東区には、必要な書面を渡しました。水路番には仮留めの記録を残すよう伝えてあります」


「そういうことではない」


「では、どういうことでしょう」


ユリウス様は唇を結んだ。


水が一滴、彼の袖口から落ちる。


「セシリアが、責められている」


部屋の空気が、少しだけ冷えた。


「花商の件も、印章の件も、彼女が悪いように言われている。彼女はただ、不安だっただけだ。君に嫌われたと思って、どうすれば許されるか分からなくなって」


私は膝の上で、手袋の縫い目を押さえた。


「それで、私に何を」


「君が一言、彼女は悪くないと言ってくれればいい」


声は、懇願に近かった。


「君が戻って、帳簿を少し見て、皆の前でセシリアを責めないと言えば、家は落ち着く。父も使用人も、君の言うことなら聞く」


ミーナの息が、後ろで止まる気配がした。


父は何も言わない。


母も。


公証人のペルネ老だけが、静かにペン皿を直した。小さな陶器の音。


「彼女のためだ」


ユリウス様は、はっきりと言った。


「我慢してくれ」


その言葉は、広間の白百合の匂いを連れてきた。


私の席次札。


胸元に下がった祖母の印章。


赤い紐の契約書。


鍵束の乾いた音。


最後の収支報告書の黒い線。


全部が、一枚ずつ机の上に戻ってくる。


私は、文具箱から小さな革袋を出した。


中には祖母の印章が入っている。磨き直した象牙は、手のひらの中で静かに冷たい。


「ユリウス様」


「リディア」


「私は、セシリア様を裁く立場にございません」


彼の顔に、かすかな安堵が浮かんだ。


「なら」


「同時に、かばうための道具でもございません」


安堵が止まる。


私は印章を机の上に置いた。


鈴蘭の紋が、窓からの光を受ける。


「私の名で押されたものは、私が責任を負います。けれど、私が知らないもの、私が承認していないもの、私を黙らせるために使われたものまでは負いません」


「誰も、君を黙らせようとしたわけでは」


「声を荒げなければ、黙らせたことにならないのですか」


ユリウス様は返事をしなかった。


私は公証人へ向き直る。


「ペルネ様、三枚目に追記をお願いいたします」


「文言は」


「四月十三日以降、グレイヴ伯爵家に関する実務支援、交渉同席、私名義による信用補完を行わない」


ペルネ老は、静かに頷いた。


ペン先が紙を走る。


信用補完。


少し硬い言葉だ。けれど、私がされてきたことには、その硬さが似合う。


ユリウス様が首を振った。


「そんな書き方をしなくてもいいだろう。僕はただ、助けてほしいだけだ」


「助けてほしい、とおっしゃればよかったのです」


「だから今、頼んでいる」


「いいえ」


私は息を吸った。


紙の匂い。封蝋の熱。雨で冷えた空気。指の中の印章の重み。


どれも、私をここに留めてくれる。


「あなたは今も、セシリア様のために私へ我慢を求めています」


ユリウス様の濡れた睫毛が動いた。


「違う。僕は、家のために」


「家のためでも、彼女のためでも、同じです」


声は揺れなかった。


揺れないように、机の縁へ指を添えた。


膝の上のもう片方の手は、手袋の内側で冷えていた。


言えば、戻れなくなる。


戻らないために、ここへ来た。


「私のために、もう我慢はいたしません」


銀炉の火が、ふっと低くなる。


誰も、すぐには動かなかった。


ユリウス様は、私を見ていた。


初めて帳簿を見るときの顔でも、困った人の顔でもない。見慣れたものが、見慣れない形をしていたときの顔。


「リディア、僕たちは婚約者だ」


「はい」


私は三枚目の紙へ署名した。


「でした」


ペン先を置く音は、思ったより小さかった。


父が横で、低く息を吐く。


母の手が、膝の上で組み直される。


ミーナはまだ黙っている。けれど、背後に立つ気配が少し近い。


ペルネ老が封蝋を垂らした。


赤い蝋が紙に丸く落ちる。


私は文具箱からファルナー家の事務印を出した。祖母の印章ではない。これは家の記録に使う、ただの事務印だ。


「こちらで」


ペルネ老が目を上げる。


「鈴蘭の私印ではなく」


「はい。あれは、私が選ぶ仕事に使います」


事務印を押す。


小さな音がした。


ユリウス様の肩が、そこでようやく落ちた。


「セシリアは、どうすれば」


「ご自分で責任をお取りになるべきです。ユリウス様も」


「僕も」


「はい」


私は紙を受け取った。


乾ききらない封蝋が、まだ少し艶を持っている。


「誰かを守りたいなら、そのために別の誰かを差し出さないでください」


ユリウス様の手が、濡れた外套の前で握られる。


言葉を探しているのが分かった。


けれど、私はもう待たなかった。


「本日は、これで失礼いたします」


立ち上がると、椅子が床をかすかに鳴らした。


ユリウス様は道をふさがなかった。


扉のそばを通るとき、彼の袖から落ちた雨水が床に丸く残っていた。白百合の花びらではない。銀杯の音でもない。ただの水の跡。


廊下に出ると、ミーナが外套をかけてくれた。


「お嬢様」


「何」


「昼食は」


その声が、いつもより少しだけ低い。


「温かいものにいたしますか」


私は窓の外を見た。


雨は上がりかけている。雲の切れ目から、薄い光が石畳に落ちていた。


「ええ。今日は、熱いものを」


ミーナが短く頷く。


背後の部屋から、ユリウス様の声は聞こえない。


彼の末路は、私の復讐ではない。


彼自身が選び続けた優しさの形だった。


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