第7話 私のために、もう我慢はいたしません
公証人の部屋は、紙の匂いが濃かった。
壁一面の棚に、革紐で綴じられた証書が並んでいる。窓辺の机には、封蝋を温める小さな銀炉。火は細く、音もなく燃えていた。
私の前には、白い紙が三枚ある。
ファルナー家私印の返還確認。
四月十三日以降の私名義承認停止。
婚約期間中の実務管理終了。
文字にすると、どれも短い。
あれほど重かった鍵も、帳簿も、印章も、紙の上では数行で済む。
「リディア嬢、ご確認を」
公証人のペルネ老は、丸眼鏡を指で押し上げた。声は乾いている。毎日、誰かの始まりと終わりを紙にしている人の声だ。
私は一枚ずつ目を通した。
日付、名、範囲、責任の所在。
余計な言葉はない。だからよい。
「相違ございません」
父は私の右に座っていた。母は少し後ろ、ミーナの隣にいる。誰も私の代わりに答えない。
それが、今はありがたかった。
ペンを取ると、羽根の軸が指先に馴染む。
リディア・ファルナー。
書き終えたところで、廊下が騒がしくなった。
雨に濡れた靴音。慌てて止める使用人の声。扉の外で、聞き慣れた息が乱れている。
「リディア、いるのだろう」
ユリウス様だった。
ペルネ老が私を見る。
「お通ししますか」
父の手が椅子の肘掛けにかかった。
私は首を振る。
「ここで伺います」
扉が開く。
ユリウス様は、外套を濡らしたまま立っていた。髪の先から水が落ち、床に暗い点を作っている。夜会で見た柔らかな笑みはない。けれど、怒りでもない。
困っている人の顔だった。
「急に押しかけてすまない」
「公証人の前です。ご用件を」
私が言うと、彼は部屋の中を見回した。
紙。
父。
母。
公証人。
それから、私の手元のペン。
「そこまでする必要があるのか」
「必要があるので、しております」
「印章は返した。花代も、こちらで払う。セシリアも反省している」
セシリア様の名が出ると、彼の声だけ少し柔らかくなる。
以前なら、その柔らかさの余白を私が埋めていた。
「それは、よろしゅうございました」
ユリウス様の眉が動いた。
「リディア、頼む。今だけでいい。ガルト商会との契約を見てほしい」
私はペンを置いた。
銀炉の火が、小さく揺れる。
「収支報告書の四頁目に記しました」
「読んだ。父にも言われた。だが、もう契約してしまったんだ」
濡れた外套から、雨と馬の匂いがした。
「君なら、どこを直せばいいか分かるだろう。交渉に同席してくれれば、損を抑えられる」
「私は、グレイヴ家の管理を終了しております」
「分かっている。だが、これは家の問題だ。東区の人間も困っている。使用人もだ」
彼は一歩、前に出た。
「君は、そういう人たちを見捨てるような人ではない」
その言葉は、きれいな刃だった。
見捨てない。
我慢できる。
分かってくれる。
どれも、私の形をして、私ではなかった。
「東区には、必要な書面を渡しました。水路番には仮留めの記録を残すよう伝えてあります」
「そういうことではない」
「では、どういうことでしょう」
ユリウス様は唇を結んだ。
水が一滴、彼の袖口から落ちる。
「セシリアが、責められている」
部屋の空気が、少しだけ冷えた。
「花商の件も、印章の件も、彼女が悪いように言われている。彼女はただ、不安だっただけだ。君に嫌われたと思って、どうすれば許されるか分からなくなって」
私は膝の上で、手袋の縫い目を押さえた。
「それで、私に何を」
「君が一言、彼女は悪くないと言ってくれればいい」
声は、懇願に近かった。
「君が戻って、帳簿を少し見て、皆の前でセシリアを責めないと言えば、家は落ち着く。父も使用人も、君の言うことなら聞く」
ミーナの息が、後ろで止まる気配がした。
父は何も言わない。
母も。
公証人のペルネ老だけが、静かにペン皿を直した。小さな陶器の音。
「彼女のためだ」
ユリウス様は、はっきりと言った。
「我慢してくれ」
その言葉は、広間の白百合の匂いを連れてきた。
私の席次札。
胸元に下がった祖母の印章。
赤い紐の契約書。
鍵束の乾いた音。
最後の収支報告書の黒い線。
全部が、一枚ずつ机の上に戻ってくる。
私は、文具箱から小さな革袋を出した。
中には祖母の印章が入っている。磨き直した象牙は、手のひらの中で静かに冷たい。
「ユリウス様」
「リディア」
「私は、セシリア様を裁く立場にございません」
彼の顔に、かすかな安堵が浮かんだ。
「なら」
「同時に、かばうための道具でもございません」
安堵が止まる。
私は印章を机の上に置いた。
鈴蘭の紋が、窓からの光を受ける。
「私の名で押されたものは、私が責任を負います。けれど、私が知らないもの、私が承認していないもの、私を黙らせるために使われたものまでは負いません」
「誰も、君を黙らせようとしたわけでは」
「声を荒げなければ、黙らせたことにならないのですか」
ユリウス様は返事をしなかった。
私は公証人へ向き直る。
「ペルネ様、三枚目に追記をお願いいたします」
「文言は」
「四月十三日以降、グレイヴ伯爵家に関する実務支援、交渉同席、私名義による信用補完を行わない」
ペルネ老は、静かに頷いた。
ペン先が紙を走る。
信用補完。
少し硬い言葉だ。けれど、私がされてきたことには、その硬さが似合う。
ユリウス様が首を振った。
「そんな書き方をしなくてもいいだろう。僕はただ、助けてほしいだけだ」
「助けてほしい、とおっしゃればよかったのです」
「だから今、頼んでいる」
「いいえ」
私は息を吸った。
紙の匂い。封蝋の熱。雨で冷えた空気。指の中の印章の重み。
どれも、私をここに留めてくれる。
「あなたは今も、セシリア様のために私へ我慢を求めています」
ユリウス様の濡れた睫毛が動いた。
「違う。僕は、家のために」
「家のためでも、彼女のためでも、同じです」
声は揺れなかった。
揺れないように、机の縁へ指を添えた。
膝の上のもう片方の手は、手袋の内側で冷えていた。
言えば、戻れなくなる。
戻らないために、ここへ来た。
「私のために、もう我慢はいたしません」
銀炉の火が、ふっと低くなる。
誰も、すぐには動かなかった。
ユリウス様は、私を見ていた。
初めて帳簿を見るときの顔でも、困った人の顔でもない。見慣れたものが、見慣れない形をしていたときの顔。
「リディア、僕たちは婚約者だ」
「はい」
私は三枚目の紙へ署名した。
「でした」
ペン先を置く音は、思ったより小さかった。
父が横で、低く息を吐く。
母の手が、膝の上で組み直される。
ミーナはまだ黙っている。けれど、背後に立つ気配が少し近い。
ペルネ老が封蝋を垂らした。
赤い蝋が紙に丸く落ちる。
私は文具箱からファルナー家の事務印を出した。祖母の印章ではない。これは家の記録に使う、ただの事務印だ。
「こちらで」
ペルネ老が目を上げる。
「鈴蘭の私印ではなく」
「はい。あれは、私が選ぶ仕事に使います」
事務印を押す。
小さな音がした。
ユリウス様の肩が、そこでようやく落ちた。
「セシリアは、どうすれば」
「ご自分で責任をお取りになるべきです。ユリウス様も」
「僕も」
「はい」
私は紙を受け取った。
乾ききらない封蝋が、まだ少し艶を持っている。
「誰かを守りたいなら、そのために別の誰かを差し出さないでください」
ユリウス様の手が、濡れた外套の前で握られる。
言葉を探しているのが分かった。
けれど、私はもう待たなかった。
「本日は、これで失礼いたします」
立ち上がると、椅子が床をかすかに鳴らした。
ユリウス様は道をふさがなかった。
扉のそばを通るとき、彼の袖から落ちた雨水が床に丸く残っていた。白百合の花びらではない。銀杯の音でもない。ただの水の跡。
廊下に出ると、ミーナが外套をかけてくれた。
「お嬢様」
「何」
「昼食は」
その声が、いつもより少しだけ低い。
「温かいものにいたしますか」
私は窓の外を見た。
雨は上がりかけている。雲の切れ目から、薄い光が石畳に落ちていた。
「ええ。今日は、熱いものを」
ミーナが短く頷く。
背後の部屋から、ユリウス様の声は聞こえない。
彼の末路は、私の復讐ではない。
彼自身が選び続けた優しさの形だった。




