第8話 帳簿に残らない幸福
王都東館の朝は、石の色が明るい。
雨上がりの庭に、低い雲が薄く残っていた。窓の外では、刈り込まれた月桂樹の葉先から水が落ちる。ぽつり、ぽつり、と白い敷石に小さな跡を作った。
机の上には、三日分の資料が積まれている。
国境水路税改定案。
倉庫滞留日数一覧。
東区と南倉庫の支払い順序。
どの紙にも、私の字が少しずつ残っていた。赤ではなく青。未払いではなく、根拠変更の色。
「この頁で終わりです」
私は最後の索引に紐を通した。
麻紐が紙の穴を抜けるとき、乾いた音がする。帳簿箱を閉じる音よりも軽い。けれど、頼りないわけではない。
向かいの席で、レオンハルト殿下が資料を受け取った。
「三日で終わらせる量ではありませんでした」
「最初に三日と決めましたので」
「決めたから終わるなら、国境税の会議はもっと短く済みます」
殿下の声は淡々としている。けれど、紙をめくる指は丁寧だった。端を折らない。行を飛ばさない。私の書いた小さな注記にも、同じ速度で目を通す。
「ここは、あなたの判断ですか」
殿下が指したのは、東区の水門費だった。
雨の年は、徴税前に修繕費を先出しする。
あとから税で戻す。
そう書いた行。
「はい。職人への支払いが遅れると、次の雨で戻す費用のほうが高くなります」
「損を小さくするために、先に払う」
「帳簿上は、一度赤く見えます」
「現場では、黒に近い」
私は殿下を見た。
数字の色を、机の外まで見ている人だ。
「その言い方は、初めて聞きました」
「今、作りました」
真顔で言われたので、少しだけ息が抜けた。
笑うほどではない。けれど、胸の奥の固いところが、紙を一枚抜かれたように薄くなる。
扉が叩かれた。
東館の書記官が入り、封書を二通置いていく。一通はファルナー家から。もう一通は、王都公証人ペルネ老の封蝋だった。
私はまず、公証人の封を切った。
婚約解消届、受理。
グレイヴ伯爵家との実務管理終了確認、登録。
私名義外の承認責任なし。
短い文面だった。
何度も読んだ言葉なのに、公証人の印が押されると、紙は別の重さを持つ。
もう、私だけが覚えていなくてもよい。
記録が覚えている。
「よろしい知らせですか」
殿下が尋ねた。
「終わった知らせです」
「では、よろしい知らせでしょう」
私は封書を畳んだ。
父からの手紙には、もう少し長い文があった。
グレイヴ伯爵家は、南倉庫の一部を手放すことになった。
ガルト商会とは、前金の半分を失う形で契約を縮小した。
使用人の給与は、遅れた分を利付きで払う。
セシリア様はロアン家へ戻り、花商への支払いはロアン家とグレイヴ家で分ける。
ユリウス様は、しばらく領地の水路管理に入るという。
別紙が一枚、同封されていた。
薄い便箋に、セシリア様の字が小さく並んでいる。
印章がリディア様のものだと、知っておりました。知らないふりをしました。外せば、何も持たない私に戻るのが怖かったのです。
花商への支払いは、ロアン家へ申し出ます。
文面の最後に、父の字で短く添えられていた。
お前が戻る必要はない。
私はその一行を、指でなぞらなかった。
なぞらなくても、読めた。
「お父上からですか」
「はい」
「顔色が変わりました」
「そうでしょうか」
「先ほどまで、未払い一覧を見る顔でした。今は、閉じた帳簿を見る顔です」
私は手紙を封筒へ戻した。
「閉じた帳簿にも、時々、指を挟みます」
「挟んだ指は、抜けばよい」
殿下はそう言って、机の端に置いた小さな木箱をこちらへ寄せた。
「こちらも、本日のうちに確認を」
箱の中には、任命書が入っていた。
ヴァイスベルク王国臨時財政顧問補佐。
期間は三か月。
職務範囲は、国境水路税と倉庫料の整理。
報酬、守秘、辞退の条件。
そして、一番下に、空いた欄がある。
受諾者署名。
「三か月」
「最初から長く縛るのは、よくありません」
「短くありませんか」
「延ばすには、双方の合意が要ります」
双方。
その言葉は、暖炉の火より穏やかに温かかった。
「私が断る余地も、残してくださったのですね」
「余地ではありません。権利です」
殿下は窓の外へ視線を移した。
庭師が、雨で倒れた月桂樹の枝を起こしている。折れたのではなく、濡れて傾いただけの枝。
「あなたは、頼まれると範囲を広げる癖がある」
「仕事として必要なら」
「必要に見えるものは、多い」
低い声が、紙の上に落ちる。
「私は、境界線を紙に書けば守れるものだと思いがちです」
殿下は任命書の端をそろえた。
「紙にできない痛みを読み落とすなら、止めてください」
その言葉は、命令ではなかった。
不器用な頼み方だった。
「私も、すぐには気づけないと思います」
「そのときは、書き足しましょう」
「だから先に、線を書いておきましょう」
私は任命書を読んだ。
できること。
できないこと。
引き受けないこと。
あの日、白紙に書いた一行が、ここにも入っている。
私名義外の承認を負わない。
ただし、今回はもう一行増えていた。
勤務時間外の呼び出しは、本人の同意を要する。
「これは」
「あなたが書かなかったので」
「気づきませんでした」
「だから、こちらで案に入れました。不要なら削ります」
私は紙を見た。
勤務時間外。
そんな言葉を、自分のために使ったことがなかった。
夜会の前も、朝食の後も、雨の日も、誰かの困った声があれば、私の時間はそこへ流れていった。水路のように。流れて当然のものとして。
「削りません」
殿下は頷いた。
「では、署名を」
私はペンを取った。
リディア・ファルナー。
名前を書く手は、以前より少し速かった。急いだのではない。迷う余白が減ったのだ。
最後に、文具箱から祖母の印章を出す。
白い象牙の鈴蘭。
もう胸元に下げるための飾りではない。
誰かの不安を鎮める道具でもない。
私が選んだ仕事に、私が責任を持つための印。
封蝋に押すと、鈴蘭の細い線が赤の中に浮かび上がった。
殿下はそれを見て、静かに言った。
「よい印です」
「祖母のものです」
「では、今日はお祖母様にも報告ですね」
「叱られるかもしれません」
「何を」
「昼食前に、また帳簿を見ていました」
殿下は少しだけ目元を緩めた。
「それは、私も同罪です」
扉の外で、昼を告げる鐘が鳴る。
一つ、二つ、三つ。
書記官が昼食の用意を知らせに来た。銀の盆に、小さな丸パンと温かいスープ。湯気が白く立っている。
「食べながら帳簿を見ると、叱られます」
私が言うと、殿下は資料の束を閉じた。
「では、帳簿を閉じましょう」
その言葉だけで、部屋の中の時間が少し変わった。
閉じても、誰も困らない。
今ここで一口スープを飲んでも、水門は壊れない。誰かの支払いが消えるわけでもない。私の名前が、どこか知らない紙に押されることもない。
私は匙を取った。
スープは熱かった。
舌に残る塩気と、胡椒の香り。湯気で少し曇った視界の向こうで、殿下が自分の椀にも手を伸ばす。
「リディア嬢」
「はい」
「三か月の後、あなたが望むなら、正式な任を改めて申し入れます」
匙が椀の縁に当たった。
小さな音。
「望まなければ」
「別の道を探しましょう。あなたの索引は、どこへ行っても役に立つ」
言い切られて、私は少し困った。
困ったのに、息は詰まらない。
この人の前では、断る未来まで机に置いてよいのだと分かる。
「では、三か月後に考えます」
「はい」
殿下はそれ以上、急がなかった。
窓の外で、雲が切れる。
庭の敷石に残っていた水跡が、少しずつ薄くなっていく。月桂樹の枝は、庭師の支柱に支えられ、元の高さへ戻されていた。
机の端には、閉じた帳簿。
その上に、受諾済みの任命書。
引き出しには、婚約解消届の写し。
どれも大切な紙だ。
けれど、今の匙の温かさや、昼の鐘の余韻や、こちらを急かさずに待つ沈黙は、どの帳簿にも残らない。
残らなくても、失われないものがある。
私は、祖母の印章を文具箱へ戻した。
蓋を閉じる音は、軽かった。
もう我慢ではなく、選んだものだけを、この手に残していく。




