第6話 善人の帳尻
ガルト商会の契約書は、香油の匂いがした。
薄い青紙の端に、甘い匂いが染みている。王都の商人が好む香りだと、セシリアが言った。高価な店ほど、紙までよい香りがするのだと。
ユリウスは、署名欄の前でペンを止めた。
窓の外では、雨が細く降っている。東区の水路番が来てから、三日目の雨だった。
「本当に、今日のうちに手配できるのか」
向かいに座るガルト商会の男は、柔らかく笑った。
丸い指に、赤い石の指輪。袖口は白い。机の上に置いた帽子だけが、少し湿っている。
「もちろんでございます。グレイヴ伯爵家のご用命とあれば、倉庫をひとつ空けましても」
父は不在だった。
南通りの肉屋と厨房給与の件で、執事長ハンスを連れて出ている。帰りは夕刻になる。
それまでに、東区の穀物を押さえなければならない。
ユリウスはそう考えていた。
いや、考えたつもりだった。
机の端には、リディアの収支報告書が置かれている。二頁目に赤紙。四頁目に青紙。ガルト商会案、再見積もり必須。
その文字は、見えていた。
けれど、今は水路番が待っている。倉庫の戸板も、麦も、支払いも、花商の請求も、全部がこちらを向いている。
「リディア様は、ガルト商会には気をつけたほうがいいと」
セシリアが小さく言った。
長椅子の端で、薄い肩掛けを握っている。胸元に印章はない。返してから、彼女はそこを空いた手で押さえる癖がついた。
「けれど、私には分かりません。ユリウス様がよいと思われるなら」
彼女の視線は、青紙の「契約不可」のあたりに落ちていた。
その声は、頼る形をしていた。
ユリウスはペン先をインク壺に浸す。
リディアなら、二社以上の見積もりを取るだろう。
リディアなら、納入遅延時の補償を見るだろう。
リディアなら。
ペン先から、黒い滴が紙へ落ちた。
「今は、手を打つことが大事だ」
商会の男が、すぐに吸い取り紙を差し出す。
「さすがでございます。ご判断が早い」
判断。
その言葉に、ユリウスの背筋が少し伸びた。
父も使用人も、ここ数日、彼を見る目が硬い。リディアは来ない。セシリアは泣く。なら、自分が決めなければならない。
署名欄に名を書いた。
ユリウス・グレイヴ。
家印を押すと、赤い封蝋が青紙の上で沈んだ。鷹の紋が、少し傾く。
商会の男は、それでも美しい印でございます、と言った。
その午後、雨は強くなった。
◇
最初の荷は、約束の日に届かなかった。
届いたのは、ガルト商会からの詫び状だった。
南街道冠水につき、納入を三日延期。倉庫確保料は契約通り買主負担。
ユリウスは詫び状を握ったまま、執務室に立っていた。暖炉には火がない。湿った紙の匂いが部屋に溜まっている。
「三日なら、まだ」
セシリアが言った。
彼女は机に近づき、詫び状を覗き込む。
「私、契約のことは分かりませんけれど、商会の方も困っていらっしゃるのでは」
「そうだな」
ユリウスは頷いた。
そう言われると、まだ取り返しがつく気がした。
扉が叩かれる。
返事を待たずに、父が入ってきた。
外套の裾が濡れている。靴には泥。顔の色は、雨雲の下の石に近い。
「ガルト商会と契約したのか」
ユリウスは詫び状を机に伏せた。
「東区のためです」
「契約書を見せろ」
「今は納入が少し遅れているだけで」
「見せろ」
父の声が、机の上の紙を震わせた。
ユリウスは青紙を出した。
父は一行目から読む。指で追わない。目だけが速く動く。
前金三割。
納入遅延時の補償なし。
解約条項、商会側の承諾を要す。
追加倉庫料、買主負担。
父の喉が、低く鳴った。
「これは、誰が確認した」
「私が」
言った瞬間、セシリアの肩が揺れた。
「私も、そばにいました。でも、私には分からなかったんです」
彼女の声が細くなる。
「文字は読めました。けれど、止めれば、また何もできない女に戻る気がして」
指先が肩掛けを握りつぶす。
「リディア様なら分かったのでしょうけれど、私には、分からないふりのほうが楽でした」
父はセシリアを見なかった。
そのことに、ユリウスの胸がざらつく。
「彼女を責めないでください。私が急がせたんです。東区も困っていたし、誰かが決めなければ」
「誰かではない」
父は契約書を机へ置いた。
「お前だ」
雨音が窓を叩く。
セシリアが口元に手を当てた。白い指が震えている。泣き声はまだ出ていない。出る前の沈黙が、部屋を薄くする。
「父上、私は家のために」
「家のためなら、報告書を読め」
父は机の端から、リディアの収支報告書を取った。
角が擦れている。ここ数日で何度も開かれた痕だ。
「四頁目だ」
ユリウスは動かなかった。
父が自分で開く。
赤紙ではない。青紙。
ガルト商会案、再見積もり必須。現条件での契約不可。少なくとも二社以上の相見積もりを要する。
その下に、小さな字が続いている。
納入遅延時の補償条項なし。解約に商会側承諾を要す。前金比率高し。過去、納入日変更による倉庫料上乗せあり。
ユリウスは唇を開いた。
言葉が出ない。
読んでいなかったわけではない。
見た。
見たうえで、急いだ。
「リディアは、なぜ直接止めなかった」
ようやく出た言葉は、自分でも少し歪んで聞こえた。
父の目が細くなる。
「止めている」
「書いただけです」
「書くのが仕事だ。読んで決めるのが、こちらの仕事だ」
部屋の隅で、セシリアが小さく泣き出した。
「ごめんなさい。私、リディア様の代わりになれると思って。ユリウス様のお役に立ちたくて。でも、私には」
その先は、布に吸われた。
ユリウスは彼女のそばへ行こうとした。
父の声が止める。
「今は、泣いている者を慰める前に、損失を止めろ」
「損失といっても、三日遅れるだけなら」
「追加倉庫料。前金。水路の仮留め費。花商への支払い。厨房給与の遅れで使用人二名が辞めると言っている」
父は紙を一枚ずつ机へ並べた。
白百合。
肉屋。
水路番。
ガルト商会。
どれも、最初は小さな紙だった。
机いっぱいに並ぶと、屋敷ひとつ分の重さになる。
夕刻、ユリウスは東区へ行かされた。
水路番は、膝まで泥に浸かって板を押さえていた。職人が楔を打つたび、水が靴の中へ入り、足先の感覚が薄くなる。
「若様、そこではなく、こちらを」
言われた通りに手を添えると、浮いた板が腕ごと押し返してきた。細い水の力が、こんなに重いとは知らなかった。
「先月までは、雨の前にリディア様が職人を押さえてくださいました」
水路番の声は、責めていない。責めていない声のほうが、泥より落ちにくい。
ユリウスは台帳を開き、職人名と時刻を書いた。雨粒でインクが少し滲む。
リディアなら、と思いかけて、口を閉じた。
屋敷へ戻るころには、手袋の縫い目まで泥が入り込んでいた。父はまだ執務室で、机の紙を動かしている。
「リディア嬢は、これを毎月やっていたのか」
父の声は、ユリウスに向けられていなかった。
机に向けて言ったようだった。
ユリウスは返事を探す。
君なら分かってくれる。
彼女のためだ。
少しだけ我慢してくれ。
その言葉は、どれも今の机には置けない。
◇
ロベルト・グレイヴは、夜の執務室に一人残った。
蝋燭は二本。火が揺れるたび、報告書の赤紙と青紙が濃くなったり薄くなったりする。
雨はまだ降っている。
廊下では、使用人が声を潜めて歩く。昨日までなら、誰かが薪を足し、誰かが茶を運び、誰かが明日の予定を確認した。
今夜は、誰も入ってこない。
机の上には、リディアの最後の収支報告書がある。
確認範囲、三月一日から四月十三日夜まで。
未払い一覧。
支払い猶予済み契約。
要再確認取引。
私名義の承認停止。
一項目ずつ、淡々と書かれている。
責める文はなかった。
怒りの言葉もない。
そのことが、かえって紙を重くしていた。
ロベルトは、四頁目の青紙をもう一度読む。
ガルト商会案、再見積もり必須。
昨年も揉めた商会だ。覚えていた。覚えていたのに、息子へ伝えなかった。リディアが当然見ていると思っていた。
当然。
その言葉が、蝋燭の火のそばで焦げる。
引き出しを開けると、古い支出控えが何冊も入っていた。
どの背にも、リディアの細い字で小さな紙札が貼られている。春期、秋期、東区、南倉庫、確認済み。
家の帳簿なのに、彼女の手がなければ開け方さえ分からない。
ロベルトは一冊を取り出した。
革表紙は柔らかい。使われた革だ。
頁の端に、灰色の指跡が残っている。たぶん、夜会前の炭の匂いがついた手でめくったのだろう。そこにも彼女は印を残していた。
未払いは翌月へ送らず、先に相手先へ猶予確認。
東区水路は雨前に職人を押さえること。
薬草茶は相場再確認。
花代、上限あり。
ひとつひとつは、細かな話だった。
細かな話を、彼は見なかった。
息子も見なかった。
セシリア嬢は、見られなかった。
リディアだけが見ていた。
廊下の向こうで、セシリアの泣く声がした。ユリウスが何かを言っている。優しい声だ。いつもの、誰も悪くないと言うための声。
ロベルトは報告書を閉じた。
閉じても、赤紙の端が少しはみ出している。
「誰も悪くない、では済まん」
声は執務室の壁に吸われた。
明日、ガルト商会へ交渉に行かなければならない。水路番にも詫びる。肉屋への支払いも、花商の請求も、使用人の給与も。
ひとつずつ、家の名で頭を下げる。
リディアの名ではない。
ロベルトは机の上に、最後の収支報告書をまっすぐ置いた。
そこには、すでに全部書かれていた。
リディアは何も奪っていない。
ただ、もう埋め合わせなかっただけだ。




