第5話 あなたは誰が守るのですか
戻ってきた印章は、濡れた絹に包まれていた。
朝一番にグレイヴ家の使いが置いていった盆の上で、白い象牙が鈍く光っている。鈴蘭の溝に、灰色の封蝋が薄く残っていた。
私の手元へ戻ったもの。
けれど、戻る前と同じではない。
「添え状は」
「こちらに」
ミーナが差し出した紙は、短かった。
印章を返す。セシリアが深く気に病んでいる。君からも、あまり責めないでやってほしい。
ユリウス様の字だった。
私は紙を畳み、印章の横へ置いた。
「お嬢様」
「磨き布を」
ミーナは一度だけまばたきをした。
「よろしいのですか」
「使いますから」
「どちらに」
「私のものとして」
ミーナはそれ以上聞かなかった。水を使わない、柔らかい鹿革の布を持ってくる。私は椅子に座り、鈴蘭の溝に残った蝋をゆっくり拭った。
爪の先で削れば早い。
けれど、祖母はそれを嫌った。道具は急がせると、次に使うとき人を裏切る、と。
白い粉のようになった蝋が、布に落ちる。
「本日は、ヴァイスベルク王弟殿下とのお約束がございます」
「ええ」
「お召し物は」
「紺の地味なほうを」
「地味、でございますか」
「数字を見る方に、布を見せに行くのではありません」
ミーナは少しだけ口元を緩めた。
「では、皺の少ない地味にいたします」
その言い方に、朝の部屋が少し温かくなる。
私は印章を小さな革袋に戻した。胸元ではなく、文具箱の中へ。飾りではない場所に。
◇
ファルナー家の書庫は、昼でも薄暗い。
東側の高窓から入る光が、棚の埃を白く浮かせていた。古い羊皮紙と乾いた木の匂い。机には、三年前からの国境水路税資料、倉庫料一覧、東区の収穫予測、そして私が作った索引を並べてある。
父は入口近くに立ち、腕を組んでいた。
「緊張しているか」
「少し」
「少しで済むのか」
「済ませます」
父は短く笑った。
「それでいい」
扉の外で、執事が来客を告げる。
レオンハルト・ヴァイスベルク殿下は、王族らしい華やかさを連れてこなかった。
濃い緑の上着。装飾は袖口の銀糸だけ。背は高いが、部屋に入るとき、棚と机の位置を先に見た。人より物の置き方を見る人だ。
「ファルナー伯爵。お時間をいただき、感謝します」
「遠路のご滞在中に、粗末な書庫で恐縮です」
「書庫は、粗末なほうが資料の顔がよく見えます」
低く、静かな声だった。
殿下の目が、机の上へ移る。それから、私へ。
「リディア・ファルナー嬢ですね」
「はい」
「資料の作成者に直接伺いたく、無理を申しました」
作成者。
その言葉は、机の上にまっすぐ置かれた。
私は礼をした。
「私にお答えできる範囲でしたら」
「では、まずこちらから」
殿下は索引の一頁目を指した。指先は紙に触れない。余白の上で止まる。
「水路税の変更履歴を、収穫量ではなく、倉庫滞留日数から並べ替えています。理由は」
「収穫量だけでは、東区の負担が見えにくいためです。雨の年は、収穫前に水門と倉庫の費用が増えます。麦が取れたかどうかを待ってから税を調整すると、先に職人への支払いが遅れます」
「支払い遅延を、収穫被害の前兆として扱った」
「はい」
殿下は頷き、次の紙へ目を移す。
「三年前の南倉庫料。ここだけ、赤ではなく青で訂正されています」
「赤は未払い、青は算定根拠の変更です。その年は国境側の水門が半月閉じたため、通常の滞留とは別にしました」
「誰の判断で」
「私です」
言ってから、少し遅れて喉が乾いた。
以前なら、グレイヴ伯爵家のため、ユリウス様のため、両家のため、と前置きを置いただろう。
今日は置かなかった。
殿下は、そこを急かさない。
「では、この筆跡も」
机の端に置いていた春期収支報告書の写しを、彼は見た。
「同じ方の手ですね」
「私の字です」
「字だけではありません」
殿下は紙を二枚並べた。
国境水路税資料。
グレイヴ伯爵家春期収支報告書。
「未払いと要確認を分ける線の引き方が同じです。断定できることと、まだ確かめるべきことを混ぜない。これは癖というより、仕事の態度でしょう」
書庫の埃が、光の中でゆっくり動いた。
私は手袋の指先を、膝の上で重ねる。
褒められたのではない。
見られたのだ。
手袋の縫い目を、親指で一度なぞる。
「過分なお言葉です」
「過分なら、削ります」
殿下は紙から目を上げた。
「必要な言葉だけ残しましょう。あなたの資料は、使えます」
父が腕を組んだまま、わずかに顎を引いた。
私の背中に、見えない支えが一枚増える。
「殿下のご確認に役立つなら、幸いです」
「役立つ、だけでは足りません。滞在中、国境水路税の再整理に同席していただきたい。作業は三日。場所は王都東館。報酬と守秘の条件は書面にします」
「ヴァイスベルクにとっても、水路税は利害です。あなたを慰めるための依頼ではありません」
その言い方は、少し硬かった。
私は瞬いた。
同席。
依頼。
婚約者家の裏方ではなく、名のある仕事として。
「私で、よろしいのでしょうか」
言った瞬間、膝の上の指が一度ほどけた。
殿下は静かに首を傾げる。
「今の質問は、能力についてですか。それとも、立場についてですか」
紙の匂いが濃くなる。
私はすぐに答えられなかった。
能力なら、資料がある。
立場なら、婚約者で、伯爵令嬢で、今は印章の返還を求めたばかりの女。
どれも、机の上では少し余る。
「どちらも、かもしれません」
「では、分けましょう。能力については、この資料で足ります。立場については、ファルナー伯爵家の許可と、あなた自身の承諾があれば足ります」
「私自身の」
「はい」
その返事は、薄い紙を一枚置くように静かだった。
父が口を開く。
「家としては、本人が望むなら認めます」
私は父を見た。
父はそれ以上言わない。口を出さない、と言った人の顔だった。
殿下は私を待っている。
待たれることに、慣れていない。
急かされることには慣れていた。察することにも。足りないところを埋めることにも。
「三日、ですね」
「はい」
「グレイヴ伯爵家との関係で、差し障りが出る可能性がございます」
「差し障りとは」
「私が、あちらの家の管理から手を引いたばかりです」
「存じています」
殿下の声は変わらなかった。
私は顔を上げる。
「どこまで」
「花商への通知と、公証人への相談予約までは、商取引の窓口で耳に入ります。詳しい事情までは聞いていません」
「この依頼を受ければ、あちらは別の言い方をするでしょう。王弟に取り入った、と」
父の眉が、わずかに動いた。
殿下は私から目を逸らさない。
「それでも、仕事として受けられるかを伺っています」
「お聞きになりたいですか」
「仕事に必要なら」
その線引きは、刃ではなく定規に近かった。
私は息を整える。
「私印を預けた相手が、私の承認として注文を通しました。私は支払いを拒み、印章は返還されました。以上です」
「返還された印章は、今どこに」
「文具箱に」
「胸元ではなく」
「はい。飾りではありませんので」
殿下の目に、初めて細い笑みが乗った。
「よい保管場所です」
ただそれだけだった。
慰めでも、同情でもない。正しい場所を正しいと言っただけ。
そのほうが、かえって息がしやすい。
殿下はもう一度、東区の資料へ視線を落とした。
「あなたは、東区の水門を守り、グレイヴ家の支払いを整え、ファルナー家の名を傷つけないよう手を打った」
並べられると、どれも書類の項目のようだ。
けれど、胸の内側でひとつずつ重さを持つ。
「では、あなたは誰が守るのですか」
書庫の外で、風が木の葉を揺らした。
乾いた音が、高窓に触れる。
私は答えを探した。
父。
母。
ミーナ。
そう言えば、きっと間違いではない。
けれど、殿下の問いは、誰が私を守ってくれるのか、ではなかった。
私が誰を守るのか。
その中に、私自身を入れているか。
「まだ、分かりません」
やっと出た声は、少しかすれていた。
殿下は一度、目を伏せた。
「失礼。今の問いは、書類の不足を指摘するようでした」
彼は白紙を一枚、指先でこちらへ寄せる。
「分からないことは、書き残せます」
「三日間の条件を書きましょう。できること、できないこと、あなたが引き受けないこと」
白紙。
まだ何も押されていない紙。
私はペンを取った。
インクの匂いが、静かに立つ。
一行目に、日付を書く。
二行目に、業務範囲。
三行目で、少し止まった。
私が引き受けないこと。
そこに何を書くべきか、すぐには分からない。
殿下は待っていた。
父も、待っている。
書庫の埃が、光の中で落ちていく。
私はゆっくり書いた。
私名義外の承認を負わない。
文字は少し細くなった。
けれど、線は切れなかった。
殿下が紙を覗き込み、頷く。
「まずは、それで十分です」
十分。
その言葉は、満額の支払いのように、静かに胸へ届いた。
会談が終わるころ、窓の光は傾いていた。
殿下は資料を束ね、私の索引だけを別に置く。
「これは写しをいただけますか」
「はい」
「原本は、あなたの手元に」
「よろしいのですか」
「仕事をした者が、根拠を持つべきです」
私は礼をした。
机の端で、まだ乾ききらないインクが淡く光っている。
私名義外の承認を負わない。
たった一行。
それでも、鍵束を返した日よりも、手のひらが少し温かかった。
守られることを、私はずっと贅沢だと思っていた。




