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彼女を守るために私を使った婚約者の末路  作者: むむさん


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5/8

第5話 あなたは誰が守るのですか

戻ってきた印章は、濡れた絹に包まれていた。


朝一番にグレイヴ家の使いが置いていった盆の上で、白い象牙が鈍く光っている。鈴蘭の溝に、灰色の封蝋が薄く残っていた。


私の手元へ戻ったもの。


けれど、戻る前と同じではない。


「添え状は」


「こちらに」


ミーナが差し出した紙は、短かった。


印章を返す。セシリアが深く気に病んでいる。君からも、あまり責めないでやってほしい。


ユリウス様の字だった。


私は紙を畳み、印章の横へ置いた。


「お嬢様」


「磨き布を」


ミーナは一度だけまばたきをした。


「よろしいのですか」


「使いますから」


「どちらに」


「私のものとして」


ミーナはそれ以上聞かなかった。水を使わない、柔らかい鹿革の布を持ってくる。私は椅子に座り、鈴蘭の溝に残った蝋をゆっくり拭った。


爪の先で削れば早い。


けれど、祖母はそれを嫌った。道具は急がせると、次に使うとき人を裏切る、と。


白い粉のようになった蝋が、布に落ちる。


「本日は、ヴァイスベルク王弟殿下とのお約束がございます」


「ええ」


「お召し物は」


「紺の地味なほうを」


「地味、でございますか」


「数字を見る方に、布を見せに行くのではありません」


ミーナは少しだけ口元を緩めた。


「では、皺の少ない地味にいたします」


その言い方に、朝の部屋が少し温かくなる。


私は印章を小さな革袋に戻した。胸元ではなく、文具箱の中へ。飾りではない場所に。



ファルナー家の書庫は、昼でも薄暗い。


東側の高窓から入る光が、棚の埃を白く浮かせていた。古い羊皮紙と乾いた木の匂い。机には、三年前からの国境水路税資料、倉庫料一覧、東区の収穫予測、そして私が作った索引を並べてある。


父は入口近くに立ち、腕を組んでいた。


「緊張しているか」


「少し」


「少しで済むのか」


「済ませます」


父は短く笑った。


「それでいい」


扉の外で、執事が来客を告げる。


レオンハルト・ヴァイスベルク殿下は、王族らしい華やかさを連れてこなかった。


濃い緑の上着。装飾は袖口の銀糸だけ。背は高いが、部屋に入るとき、棚と机の位置を先に見た。人より物の置き方を見る人だ。


「ファルナー伯爵。お時間をいただき、感謝します」


「遠路のご滞在中に、粗末な書庫で恐縮です」


「書庫は、粗末なほうが資料の顔がよく見えます」


低く、静かな声だった。


殿下の目が、机の上へ移る。それから、私へ。


「リディア・ファルナー嬢ですね」


「はい」


「資料の作成者に直接伺いたく、無理を申しました」


作成者。


その言葉は、机の上にまっすぐ置かれた。


私は礼をした。


「私にお答えできる範囲でしたら」


「では、まずこちらから」


殿下は索引の一頁目を指した。指先は紙に触れない。余白の上で止まる。


「水路税の変更履歴を、収穫量ではなく、倉庫滞留日数から並べ替えています。理由は」


「収穫量だけでは、東区の負担が見えにくいためです。雨の年は、収穫前に水門と倉庫の費用が増えます。麦が取れたかどうかを待ってから税を調整すると、先に職人への支払いが遅れます」


「支払い遅延を、収穫被害の前兆として扱った」


「はい」


殿下は頷き、次の紙へ目を移す。


「三年前の南倉庫料。ここだけ、赤ではなく青で訂正されています」


「赤は未払い、青は算定根拠の変更です。その年は国境側の水門が半月閉じたため、通常の滞留とは別にしました」


「誰の判断で」


「私です」


言ってから、少し遅れて喉が乾いた。


以前なら、グレイヴ伯爵家のため、ユリウス様のため、両家のため、と前置きを置いただろう。


今日は置かなかった。


殿下は、そこを急かさない。


「では、この筆跡も」


机の端に置いていた春期収支報告書の写しを、彼は見た。


「同じ方の手ですね」


「私の字です」


「字だけではありません」


殿下は紙を二枚並べた。


国境水路税資料。


グレイヴ伯爵家春期収支報告書。


「未払いと要確認を分ける線の引き方が同じです。断定できることと、まだ確かめるべきことを混ぜない。これは癖というより、仕事の態度でしょう」


書庫の埃が、光の中でゆっくり動いた。


私は手袋の指先を、膝の上で重ねる。


褒められたのではない。


見られたのだ。


手袋の縫い目を、親指で一度なぞる。


「過分なお言葉です」


「過分なら、削ります」


殿下は紙から目を上げた。


「必要な言葉だけ残しましょう。あなたの資料は、使えます」


父が腕を組んだまま、わずかに顎を引いた。


私の背中に、見えない支えが一枚増える。


「殿下のご確認に役立つなら、幸いです」


「役立つ、だけでは足りません。滞在中、国境水路税の再整理に同席していただきたい。作業は三日。場所は王都東館。報酬と守秘の条件は書面にします」


「ヴァイスベルクにとっても、水路税は利害です。あなたを慰めるための依頼ではありません」


その言い方は、少し硬かった。


私は瞬いた。


同席。


依頼。


婚約者家の裏方ではなく、名のある仕事として。


「私で、よろしいのでしょうか」


言った瞬間、膝の上の指が一度ほどけた。


殿下は静かに首を傾げる。


「今の質問は、能力についてですか。それとも、立場についてですか」


紙の匂いが濃くなる。


私はすぐに答えられなかった。


能力なら、資料がある。


立場なら、婚約者で、伯爵令嬢で、今は印章の返還を求めたばかりの女。


どれも、机の上では少し余る。


「どちらも、かもしれません」


「では、分けましょう。能力については、この資料で足ります。立場については、ファルナー伯爵家の許可と、あなた自身の承諾があれば足ります」


「私自身の」


「はい」


その返事は、薄い紙を一枚置くように静かだった。


父が口を開く。


「家としては、本人が望むなら認めます」


私は父を見た。


父はそれ以上言わない。口を出さない、と言った人の顔だった。


殿下は私を待っている。


待たれることに、慣れていない。


急かされることには慣れていた。察することにも。足りないところを埋めることにも。


「三日、ですね」


「はい」


「グレイヴ伯爵家との関係で、差し障りが出る可能性がございます」


「差し障りとは」


「私が、あちらの家の管理から手を引いたばかりです」


「存じています」


殿下の声は変わらなかった。


私は顔を上げる。


「どこまで」


「花商への通知と、公証人への相談予約までは、商取引の窓口で耳に入ります。詳しい事情までは聞いていません」


「この依頼を受ければ、あちらは別の言い方をするでしょう。王弟に取り入った、と」


父の眉が、わずかに動いた。


殿下は私から目を逸らさない。


「それでも、仕事として受けられるかを伺っています」


「お聞きになりたいですか」


「仕事に必要なら」


その線引きは、刃ではなく定規に近かった。


私は息を整える。


「私印を預けた相手が、私の承認として注文を通しました。私は支払いを拒み、印章は返還されました。以上です」


「返還された印章は、今どこに」


「文具箱に」


「胸元ではなく」


「はい。飾りではありませんので」


殿下の目に、初めて細い笑みが乗った。


「よい保管場所です」


ただそれだけだった。


慰めでも、同情でもない。正しい場所を正しいと言っただけ。


そのほうが、かえって息がしやすい。


殿下はもう一度、東区の資料へ視線を落とした。


「あなたは、東区の水門を守り、グレイヴ家の支払いを整え、ファルナー家の名を傷つけないよう手を打った」


並べられると、どれも書類の項目のようだ。


けれど、胸の内側でひとつずつ重さを持つ。


「では、あなたは誰が守るのですか」


書庫の外で、風が木の葉を揺らした。


乾いた音が、高窓に触れる。


私は答えを探した。


父。


母。


ミーナ。


そう言えば、きっと間違いではない。


けれど、殿下の問いは、誰が私を守ってくれるのか、ではなかった。


私が誰を守るのか。


その中に、私自身を入れているか。


「まだ、分かりません」


やっと出た声は、少しかすれていた。


殿下は一度、目を伏せた。


「失礼。今の問いは、書類の不足を指摘するようでした」


彼は白紙を一枚、指先でこちらへ寄せる。


「分からないことは、書き残せます」


「三日間の条件を書きましょう。できること、できないこと、あなたが引き受けないこと」


白紙。


まだ何も押されていない紙。


私はペンを取った。


インクの匂いが、静かに立つ。


一行目に、日付を書く。


二行目に、業務範囲。


三行目で、少し止まった。


私が引き受けないこと。


そこに何を書くべきか、すぐには分からない。


殿下は待っていた。


父も、待っている。


書庫の埃が、光の中で落ちていく。


私はゆっくり書いた。


私名義外の承認を負わない。


文字は少し細くなった。


けれど、線は切れなかった。


殿下が紙を覗き込み、頷く。


「まずは、それで十分です」


十分。


その言葉は、満額の支払いのように、静かに胸へ届いた。


会談が終わるころ、窓の光は傾いていた。


殿下は資料を束ね、私の索引だけを別に置く。


「これは写しをいただけますか」


「はい」


「原本は、あなたの手元に」


「よろしいのですか」


「仕事をした者が、根拠を持つべきです」


私は礼をした。


机の端で、まだ乾ききらないインクが淡く光っている。


私名義外の承認を負わない。


たった一行。


それでも、鍵束を返した日よりも、手のひらが少し温かかった。


守られることを、私はずっと贅沢だと思っていた。


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