第4話 回らない屋敷
朝の食卓に、白百合の請求書が置かれていた。
封筒からは、花の匂いではなく、乾いた糊と馬車の埃の匂いがした。差出人は王都南通りの花商。宛名は、ファルナー家リディア・ファルナー。
私はナイフを置いた。
焼いたパンの縁が、皿の上で小さく割れる。
「お嬢様」
ミーナが控えめに封筒の端を指した。
灰色の封蝋の上に、鈴蘭の紋が押されている。
私の印章だった。
「昨夜、届いたものです。旦那様が、朝まで開けずにおくようにと」
「父様は」
「執務室にいらっしゃいます」
私は封を切った。
白百合鉢、四十。
銀リボン、四十本。
病室用香油、小瓶十二。
納品先、グレイヴ伯爵家。
注文者欄には、セシリア・ロアン様付、とある。その横に、私の印が押されていた。日付は昨日。私が鍵束を返した日の午後だ。
インクは乾いている。
紙の端に触れると、ざらりとした。安い紙ではない。花商はきちんとした店だ。だからこそ、印を信じた。
「お嬢様、どうなさいますか」
「先に茶を飲みます」
ミーナの眉が動いた。
「茶、ですか」
「空腹で返事を書くと、余計な棘が出ます」
母が小さく咳をした。
笑いを隠した音だった。
父は食卓の端で請求書を見ている。目だけで一行ずつ追い、最後に封蝋へ戻った。
「払うのか」
「払いません」
「よし」
短い返事。
私は温い茶を一口含んだ。昨日の麦粥に落とした卵のやわらかさを、まだ舌が覚えている。胃の底が冷えないだけで、文字は少し穏やかになる。
「花商には、私印が未返還であること、四月十三日以降の私名義承認は停止していることを通知します。グレイヴ家へ請求先を戻すように」
「印章そのものは」
父が尋ねる。
「まだ戻っておりません」
「盗難届にするか」
その言葉は、刃物の背のように重かった。
私は封筒の上の鈴蘭を見た。
祖母の印章。セシリア様の胸元。ユリウス様の笑み。大げさだよ、リディア。
「本日中に返還がなければ、紛失扱いにします」
「温いな」
「温いほうが、相手の熱がよく見えます」
父は少しだけ口元を動かした。
「分かった」
午前のうちに、私は三通の手紙を書いた。
一通は花商へ。
一通はグレイヴ伯爵家執務室へ。
一通は王都公証人へ。まだ届けは出さない。ただ、私印の扱いについて相談の予約を入れる。
文字を書くたび、紙の上に道ができた。戻る道ではない。遠ざかる道。
昼前、東区から使いが来た。
灰色の上着に泥が跳ね、帽子の縁から雨水が落ちている。玄関ホールの敷石に、小さな濡れ跡がいくつも残った。
「ファルナー様のお屋敷で、リディア様にお取り次ぎを」
声はかすれていた。
私は応接室で会った。
男は東区の水路番だった。以前、修繕願いに添えられた筆跡を見たことがある。字は少し傾くが、日付だけはいつも正しい。
「グレイヴ様のお屋敷へ行きましたが、分かる者がいないと。水門の板が一枚浮いております。雨が続けば、下の麦畑へ水が入ります」
「下の三枚は、自家用の麦でして。冬の粉になります」
机の上で、彼の帽子から水が一滴落ちた。
丸い染みが広がる。
「修繕費の半額は支払い済みです。残額の承認は、グレイヴ家の管理台帳赤紙、東区水路修繕の項に」
「はい。昨日、そう言われました。ですが、台帳を読む方が」
そこで言葉が止まる。
私が読めば済む。
きっと、彼もそう思っている。私も、思ってしまった。
雨の匂いが、部屋へ入ってくる。
東区の麦は、根が浅い。今年の雨は重い。支払いが遅れれば、板一枚でも畑を傷める。
冬の粉。
その短い言葉が、帳簿の欄外に残った。
私は机の引き出しを開けた。
水路修繕の写しは、まだ残っている。写しを見れば、必要な職人の名も、板の寸法も、支払いの順番も分かる。
指が、紙の角に触れた。
そこで止めた。
「こちらで分かる範囲は、書面にしてお渡しします。けれど、承認はグレイヴ家から受けてください」
男は帽子を握った。
「リディア様から、ひと言」
「私がひと言添えれば、また私の仕事になります」
声は低く出た。
自分でも、少し冷たく聞こえた。
男の靴先に泥が固まっている。たぶん、朝から何度も門を出入りしている。
「水門の板は、今日中に仮留めを。費用は、後から揉めないよう、職人名と時間を書き残してください。グレイヴ家へは、私からも写しの所在を通知します」
「ありがとうございます」
彼は深く頭を下げた。
礼を言われるほどのことを、私はしていない。
していないことのほうが、喉に残った。
使いが帰ったあと、ミーナが濡れた敷石を拭いた。布が石をこする音が、やけに近く聞こえる。
「お嬢様」
「何」
「戻らないのは、薄情ではございません」
私は水路番の残した泥の跡を見た。
「そう言い切れるほど、私は強くないわ」
「では、私が先に言っておきます」
ミーナは布を絞った。
水が銀の桶に落ちる。細く、硬い音。
「あちらの屋敷が回らないのは、お嬢様が戻らないせいではありません」
私は返事をしなかった。
返事をしたら、喉の奥の結び目がほどけそうだったからだ。
◇
グレイヴ伯爵家の廊下は、午後になっても濡れたままだった。
ユリウスは、玄関ホールの水跡を避けて歩いた。誰かが拭くはずの泥。誰かが片づけるはずの白百合の鉢。誰かがまとめるはずの請求書。
誰か。
その言葉が、朝から何度も頭に浮かぶ。
執務室の扉を開けると、父が机の上に紙束を広げていた。
赤紙、青紙、白紙。
リディアの台帳に挟まれていた印だ。
「ユリウス、東区の修繕はどこだ」
「赤紙では」
「赤紙が多い」
父の声が荒かった。
机の上には、赤い細片が五つもある。水路修繕、薪代、厨房給与、倉庫戸板、東区猶予契約。
ユリウスは台帳を開いた。
文字が細かい。
リディアの字は、いつも読みやすかったはずだ。今は、どの行も同じに見える。数字、棚番号、箱番号、確認日、支払い期限。
「ハンスを呼べ」
「ハンスは厨房の支払いで、南通りの肉屋へ」
「なぜ執事長が肉屋に行く」
父が紙を握った。
「誰も金額を説明できんからだ」
ユリウスは唇を湿らせた。
昨夜の報告書を読めばよかったのかもしれない。
いや、読もうとはした。けれど、最初の頁から項目が多すぎた。リディアが来れば一つずつ説明する。そう思った。
来なかった。
「セシリアは」
「休ませている」
父が短く答えた。
「花商から請求先変更の使いが来た。リディア嬢の承認ではないと言われたそうだ」
「花」
ユリウスは思い出す。
昨夜、セシリアが言った。部屋が寂しい、と。白百合があれば、リディア様も許してくださるでしょうか、と。
彼女の手には、鈴蘭の印章があった。
ほんの少し押しただけだ。
慰めのための花だ。誰かを傷つけるものではない。
「印章を使ったのか」
父の声が低くなる。
「セシリアが不安がっていた。リディアも、後で整えると言えば」
「リディア嬢は、もう整えないと言ったのだろう」
ユリウスは言葉を失った。
机の端に、昨日返された鍵束がある。誰も腰に下げていない。重そうに、ただ置かれている。
「返してこい」
父が言った。
「何を」
「印章だ」
「でも、セシリアが」
「そのセシリア嬢が押した花代を、今うちが払うことになっている」
窓の外で、馬車が止まる音がした。
また誰かが来た。
ユリウスは反射的に扉を見る。
リディアなら。
その考えが浮かんだ途端、胸のどこかが緩んだ。すぐに、扉の向こうからハンスの声がした。
「若様。東区の水路番が、再度お見えです」
父が目を閉じた。
「会え」
「私が?」
「お前の家だ」
その一言で、部屋の空気が固くなった。
ユリウスは台帳を手に取った。革の表紙が冷たい。九十二頁。百十四頁。赤紙。青紙。
リディアなら、どこから開くのだろう。
廊下へ出ると、セシリアが立っていた。
薄い肩掛けを羽織り、胸元に銀鎖を隠すように手を置いている。
「ユリウス様、私、何か悪いことを」
「違う。君は悪くない」
いつもの言葉が、口から出た。
けれど、今日はその先が続かない。
悪くないなら、誰が払うのか。
悪くないなら、なぜ水路番は泥だらけで待っているのか。
悪くないなら、なぜリディアは来ないのか。
セシリアの目が潤む。
ユリウスは台帳を抱え直した。紙の角が手首に当たり、痛い。
「印章を、あとで返そう」
「でも、リディア様は怒って」
「怒っているだけだ」
自分に言い聞かせるように言った。
怒っているだけなら、謝れば済む。機嫌を直してくれれば、また前のように。
廊下の先で、ハンスが待っている。
その顔には、前のような余裕がなかった。
ユリウスは台帳を開いたまま歩き出した。赤紙が一枚、頁の間から滑り落ちる。
拾おうとして、膝をつく。
紙片には、リディアの字で短く書かれていた。
確認者不在時、責任者が直接判断。
責任者。
ユリウスは、その文字を見つめた。
彼はまだ、困っていることと間違っていたことの区別がついていなかった。




