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彼女を守るために私を使った婚約者の末路  作者: むむさん


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3/8

第3話 支えを引く日

鍵束は、思っていたより重かった。


朝の光にかざすと、銀と真鍮の色がまちまちに光る。倉庫、文書棚、東区の納屋、執務室の右棚。小さな札に書いた私の字だけが、揃っている。


グレイヴ家の鍵なのに。


私の机の上で、長い間、当たり前の顔をしていた。


「お嬢様、馬車の用意ができました」


ミーナが扉の外で告げる。


「ありがとう。管理台帳も持って」


「こちらですね」


彼女は濃紺の布に包んだ台帳を抱えていた。角の革が擦れ、何度も開いた背だけが柔らかくなっている。使用人の入退職、倉庫の在庫、領地からの修繕願い、契約書の所在。


人の生活は、数字より先にここへ溜まる。


私は鍵束を布袋に入れた。


中で金属が触れ合う音がする。軽いようで、耳に残る音。


階下では、父が玄関ホールに立っていた。


「一人で行くのか」


「ミーナを連れてまいります」


「それで足りるか」


私は少し考えた。


護衛を増やせば、対立に見える。父が同行すれば、家同士の話になる。今返すのは、私が預かっていた実務だけだ。


「足ります」


父は頷いた。


「なら、口を出さない」


その言い方は、不器用な許可だった。


母は階段の途中で、青い封蝋の手紙を差し出した。ヴァイスベルク王弟殿下からだという。


国境水路税資料の索引と根拠が明快で、後日、作成者に質問を許されたい。


レオンハルト・ヴァイスベルク。


褒め言葉ではない。けれど、私がどこに置いたかではなく、どう作ったかを読んだ人の文だった。


「戻ってから返事を書きます。先に返すものがありますから」



グレイヴ伯爵家の門は、昨日より広く見えた。


馬車が石畳を進むたび、車輪の下で水が細く跳ねる。夜会の名残なのか、玄関脇の白百合はまだ片づけられていない。花びらの縁が茶色くなり、甘い匂いに湿り気が混じっていた。


扉を開けた執事長のハンスは、私を見ると眉を上げた。


「リディア様。本日は」


「お預かりしていたものを返しに参りました。ユリウス様か、ロベルト伯爵はいらっしゃいますか」


「若様は小応接室に。伯爵閣下は執務室です」


「では、小応接室へ」


ハンスは、ミーナが抱える濃紺の台帳を見てから礼をした。


小応接室には、ユリウス様とセシリア様がいた。


窓際の長椅子にセシリア様が座り、膝には薄い毛織りの膝掛け。銀鎖は今日も首元にあった。鈴蘭の印章は、淡い朝の光を受けて白く見える。


戻っていない。


まず、それだけを確認した。


「リディア」


ユリウス様は立ち上がり、困ったように笑った。


「昨日の報告書は受け取ったよ。ずいぶん物々しい書き方だったね」


「必要事項をまとめました」


「父も驚いていた。君があんなふうに線を引くとは」


彼は机の上の封書を指で叩いた。


継続管理終了。


その言葉が、彼には少し派手に見えたのだろう。


「大げさだよ、リディア」


声は柔らかい。笑みもある。場をなだめる人の顔。


「君が少し休みたいなら、そう言えばいい。セシリアも手伝うと言っているし、簡単なことから任せればいいだろう」


セシリア様は膝掛けを握った。


「私、リディア様のお役に立ちたいんです。ユリウス様からも、少しずつ覚えればいいと」


彼女の胸元で、祖母の印章が揺れる。


「何もできないまま隣にいるのは、つらいので」


その一文だけは、咳よりも涙よりも、滑らかだった。


役に立ちたい。


その言葉は、鍵のかかった部屋の前では軽く響く。


「でしたら、まず何を管理なさる予定かお聞かせください」


セシリア様が瞬いた。


「え」


「倉庫在庫、使用人給与、領地修繕願い、支払い承認、契約書所在。どれから始められますか」


「それは、ユリウス様が」


「だから、そういう細かいところは君が教えればいい」


「教える立場も、本日でお返しいたします」


私はミーナから台帳を受け取った。


机の上に置くと、鈍い音がした。薄い茶器が、ほんの少し震える。


「管理台帳です。最終記入は四月十三日。未処理のものには赤紙を挟んであります。青紙は要確認、白紙は所在記録のみ。箱番号と棚番号は末尾に索引を付けました」


ユリウス様の目が、台帳ではなく私の顔に向く。


「本気なのか」


「はい」


「怒っているなら、そう言えばいい」


「怒りで鍵は返しません」


私は布袋を開いた。


鍵束を机に置く。


金属が重なり、室内に乾いた音が広がった。昨夜の銀杯より、ずっと小さな音。けれど、誰も笑わない。


「倉庫鍵三本。文書棚鍵二本。東区納屋、南井戸小屋、執務室右棚の鍵。すべて札を確認済みです。予備鍵の所在は台帳九十二頁に」


「リディア、待ってくれ」


ユリウス様が手を伸ばした。


鍵には触れない。触れれば受け取ったことになると、どこかで分かっているのかもしれない。


「こんなことをされると、父が困る」


「困らないように、索引を付けました」


「そういう意味ではない」


「では、どの意味でしょう」


短い沈黙が落ちた。


セシリア様が咳をする。小さく、上品に。ユリウス様はすぐ彼女のほうを向いた。


「大丈夫か」


「ええ。ただ、少し」


「無理をしなくていい」


彼の手が彼女の肩へ伸びる。


私はその間に、台帳の表紙を一度だけ撫でた。革の傷が指に当たる。何度も持ち歩いた痕。


名残は、物のほうが正直だ。


「印章をお返しいただけますか」


ユリウス様の手が止まった。


セシリア様は胸元の銀鎖を押さえる。


「それは、まだ」


「私のものです」


「セシリアが不安定なんだ。昨日のことを気にしている」


「承認に使うものです。不安を鎮める飾りには向きません」


彼の眉が寄った。


「どうしてそんな言い方をする。君は昨日から、セシリアに冷たい」


セシリア様が小さく首を振る。


「ユリウス様、私は平気です。私が持っていると、リディア様がお困りになるなら」


「ただ、これがないと、皆さまが私を信用してくださらなくなるのではと」


銀鎖に触れる指は、外す動きをしない。


私は見ていた。


彼女の声の震えではなく、手元を。


「本日中に、ファルナー家へ返還してください。受領確認ができるまで、私名義での承認は停止したままとなります」


「だから、大げさだと言っている」


ユリウス様は息を吐いた。


「印章ひとつで、家の者まで巻き込むことはないだろう」


「印章ひとつで、家の者が巻き込まれます」


机の上の鍵が、窓から入る光を細く返した。


私は続ける。


「昨夜の収支報告書にも記しました。私が知らない承認は負えません。負えないものを、負う顔で立つこともいたしません」


「君なら分かってくれると思っていた」


その言葉は、もう何度も聞いた。


私の中のどこかが、以前ならそこで少し柔らかくなったのだろう。


今日は違う。


柔らかくなる前に、母の声があった。


耐えることと、捧げることは違います。


父の声も。


口を出さない。


それは、私に決めろという意味だった。


「分かります」


私は言った。


ユリウス様の顔が、わずかに緩む。


「なら」


「分かるから、手を引きます」


緩んだ表情が止まった。


セシリア様の膝掛けの上で、指がきつく重なる。布に小さなしわが寄った。


「リディア」


扉が開き、ロベルト伯爵が入ってきた。


昨日よりも顔色が悪い。灰色の上着の襟元が、少しずれている。執務室から急いできたのだろう。


「今朝、東区から人が来た。水路の修繕費が半額しか払われていないと言う」


「昨日の報告書、未払い一覧の二頁目です」


「二頁」


伯爵は手にした紙束をめくった。紙の端が乱れている。


「赤紙が挟んでございます」


私がそう言うと、彼は紙束の間から赤い細片を見つけた。


眉間のしわが深くなる。


「なぜ昨日のうちに言わなかった」


「書面でお返ししております」


「口で言えば早いだろう」


「今後は、台帳と報告書をご確認ください」


ロベルト伯爵の目が、机の鍵束へ落ちた。


「これは」


「お預かりしていた鍵です。すべて返却いたします」


部屋の外で、誰かが盆を落としかけたような音がした。


廊下の使用人だろう。すぐに足音が遠ざかる。


伯爵は鍵束を見たまま、しばらく動かなかった。


「困る」


その一言は、ユリウス様のものより粗かった。


「急にそのようなことをされては、困る」


「急ではございません。昨日の報告書に、終了日を記載しました」


「昨日では急だ」


「十日前にも、月末支払いの整理に人手が必要だとお伝えしております」


私は礼をした。


「お困りの点は、台帳に沿ってご確認ください。私が知る範囲は、すべて記録してございます」


「君が来れば済む」


ロベルト伯爵の声に、初めて焦りが混じった。


「婚約者だろう」


ユリウス様も、セシリア様も黙った。


私は首を上げる。


「婚約者であることと、無期限の管理者であることは同じではございません」


言い終えると、喉の奥が少し乾いた。


ミーナが背後で半歩近づく気配がする。何も言わない。その半歩だけで十分だった。


「本日は、これで失礼いたします」


「リディア、待て」


ユリウス様が追うように一歩出た。


私は振り返る。


「印章の返還をお待ちしております」


「そんなに信用できないのか」


「信用は、記録と扱いで守るものです」


胸元の印章へ、セシリア様の手がまた触れた。


私はその白い指から目を離した。


取り返すために来たのではない。


返すために来た。


廊下へ出ると、ハンスが控えていた。


彼は深く礼をし、私の前に進み出る。


「リディア様」


「台帳の赤紙からご確認ください。急ぎのものだけを挟みました」


「はい」


その返事は、丁寧だった。


静かすぎるほどに。


玄関を出ると、白百合の匂いが薄くなっていた。湿った花びらが石畳に一枚落ちている。踏まないように避けると、ミーナが馬車の扉を開けた。


「お嬢様」


「ええ」


乗り込む前に、私は振り返った。


グレイヴ伯爵家の窓の一つで、白いカーテンが動く。誰かがこちらを見ているのだろう。


鍵はもう手元にない。


台帳もない。


祖母の印章だけが、戻らないまま。


馬車が走り出すと、屋敷の門がゆっくり遠ざかった。


膝の上の手は、軽かった。軽いのに、指先の形が決まらない。


ミーナが向かいの席で、小さく息を吸った。


「お嬢様」


「何」


「今日の昼食は、温かいものにいたします」


私は窓の外を見たまま、少しだけ口元を緩めた。


「数字が走らないものを」


「では、麦粥に卵を落とします」


馬車の車輪が、水たまりを越えた。


背後で、グレイヴ家の門番が誰かに呼ばれている。遠くて言葉は聞こえない。けれど、声の調子だけは慌ただしい。


私は、預かっていたものを返しただけ。


それだけで、背中の向こうの屋敷が、音もなくきしむ気配がした。


私が何もしないだけで、あの家は少し傾いた。


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― 新着の感想 ―
承認に使われる印象を勝手に使うのは横領、搾取ではないですか? 口頭で返してくださいとしか言わないのが貴族として不自然すぎます
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