第3話 支えを引く日
鍵束は、思っていたより重かった。
朝の光にかざすと、銀と真鍮の色がまちまちに光る。倉庫、文書棚、東区の納屋、執務室の右棚。小さな札に書いた私の字だけが、揃っている。
グレイヴ家の鍵なのに。
私の机の上で、長い間、当たり前の顔をしていた。
「お嬢様、馬車の用意ができました」
ミーナが扉の外で告げる。
「ありがとう。管理台帳も持って」
「こちらですね」
彼女は濃紺の布に包んだ台帳を抱えていた。角の革が擦れ、何度も開いた背だけが柔らかくなっている。使用人の入退職、倉庫の在庫、領地からの修繕願い、契約書の所在。
人の生活は、数字より先にここへ溜まる。
私は鍵束を布袋に入れた。
中で金属が触れ合う音がする。軽いようで、耳に残る音。
階下では、父が玄関ホールに立っていた。
「一人で行くのか」
「ミーナを連れてまいります」
「それで足りるか」
私は少し考えた。
護衛を増やせば、対立に見える。父が同行すれば、家同士の話になる。今返すのは、私が預かっていた実務だけだ。
「足ります」
父は頷いた。
「なら、口を出さない」
その言い方は、不器用な許可だった。
母は階段の途中で、青い封蝋の手紙を差し出した。ヴァイスベルク王弟殿下からだという。
国境水路税資料の索引と根拠が明快で、後日、作成者に質問を許されたい。
レオンハルト・ヴァイスベルク。
褒め言葉ではない。けれど、私がどこに置いたかではなく、どう作ったかを読んだ人の文だった。
「戻ってから返事を書きます。先に返すものがありますから」
◇
グレイヴ伯爵家の門は、昨日より広く見えた。
馬車が石畳を進むたび、車輪の下で水が細く跳ねる。夜会の名残なのか、玄関脇の白百合はまだ片づけられていない。花びらの縁が茶色くなり、甘い匂いに湿り気が混じっていた。
扉を開けた執事長のハンスは、私を見ると眉を上げた。
「リディア様。本日は」
「お預かりしていたものを返しに参りました。ユリウス様か、ロベルト伯爵はいらっしゃいますか」
「若様は小応接室に。伯爵閣下は執務室です」
「では、小応接室へ」
ハンスは、ミーナが抱える濃紺の台帳を見てから礼をした。
小応接室には、ユリウス様とセシリア様がいた。
窓際の長椅子にセシリア様が座り、膝には薄い毛織りの膝掛け。銀鎖は今日も首元にあった。鈴蘭の印章は、淡い朝の光を受けて白く見える。
戻っていない。
まず、それだけを確認した。
「リディア」
ユリウス様は立ち上がり、困ったように笑った。
「昨日の報告書は受け取ったよ。ずいぶん物々しい書き方だったね」
「必要事項をまとめました」
「父も驚いていた。君があんなふうに線を引くとは」
彼は机の上の封書を指で叩いた。
継続管理終了。
その言葉が、彼には少し派手に見えたのだろう。
「大げさだよ、リディア」
声は柔らかい。笑みもある。場をなだめる人の顔。
「君が少し休みたいなら、そう言えばいい。セシリアも手伝うと言っているし、簡単なことから任せればいいだろう」
セシリア様は膝掛けを握った。
「私、リディア様のお役に立ちたいんです。ユリウス様からも、少しずつ覚えればいいと」
彼女の胸元で、祖母の印章が揺れる。
「何もできないまま隣にいるのは、つらいので」
その一文だけは、咳よりも涙よりも、滑らかだった。
役に立ちたい。
その言葉は、鍵のかかった部屋の前では軽く響く。
「でしたら、まず何を管理なさる予定かお聞かせください」
セシリア様が瞬いた。
「え」
「倉庫在庫、使用人給与、領地修繕願い、支払い承認、契約書所在。どれから始められますか」
「それは、ユリウス様が」
「だから、そういう細かいところは君が教えればいい」
「教える立場も、本日でお返しいたします」
私はミーナから台帳を受け取った。
机の上に置くと、鈍い音がした。薄い茶器が、ほんの少し震える。
「管理台帳です。最終記入は四月十三日。未処理のものには赤紙を挟んであります。青紙は要確認、白紙は所在記録のみ。箱番号と棚番号は末尾に索引を付けました」
ユリウス様の目が、台帳ではなく私の顔に向く。
「本気なのか」
「はい」
「怒っているなら、そう言えばいい」
「怒りで鍵は返しません」
私は布袋を開いた。
鍵束を机に置く。
金属が重なり、室内に乾いた音が広がった。昨夜の銀杯より、ずっと小さな音。けれど、誰も笑わない。
「倉庫鍵三本。文書棚鍵二本。東区納屋、南井戸小屋、執務室右棚の鍵。すべて札を確認済みです。予備鍵の所在は台帳九十二頁に」
「リディア、待ってくれ」
ユリウス様が手を伸ばした。
鍵には触れない。触れれば受け取ったことになると、どこかで分かっているのかもしれない。
「こんなことをされると、父が困る」
「困らないように、索引を付けました」
「そういう意味ではない」
「では、どの意味でしょう」
短い沈黙が落ちた。
セシリア様が咳をする。小さく、上品に。ユリウス様はすぐ彼女のほうを向いた。
「大丈夫か」
「ええ。ただ、少し」
「無理をしなくていい」
彼の手が彼女の肩へ伸びる。
私はその間に、台帳の表紙を一度だけ撫でた。革の傷が指に当たる。何度も持ち歩いた痕。
名残は、物のほうが正直だ。
「印章をお返しいただけますか」
ユリウス様の手が止まった。
セシリア様は胸元の銀鎖を押さえる。
「それは、まだ」
「私のものです」
「セシリアが不安定なんだ。昨日のことを気にしている」
「承認に使うものです。不安を鎮める飾りには向きません」
彼の眉が寄った。
「どうしてそんな言い方をする。君は昨日から、セシリアに冷たい」
セシリア様が小さく首を振る。
「ユリウス様、私は平気です。私が持っていると、リディア様がお困りになるなら」
「ただ、これがないと、皆さまが私を信用してくださらなくなるのではと」
銀鎖に触れる指は、外す動きをしない。
私は見ていた。
彼女の声の震えではなく、手元を。
「本日中に、ファルナー家へ返還してください。受領確認ができるまで、私名義での承認は停止したままとなります」
「だから、大げさだと言っている」
ユリウス様は息を吐いた。
「印章ひとつで、家の者まで巻き込むことはないだろう」
「印章ひとつで、家の者が巻き込まれます」
机の上の鍵が、窓から入る光を細く返した。
私は続ける。
「昨夜の収支報告書にも記しました。私が知らない承認は負えません。負えないものを、負う顔で立つこともいたしません」
「君なら分かってくれると思っていた」
その言葉は、もう何度も聞いた。
私の中のどこかが、以前ならそこで少し柔らかくなったのだろう。
今日は違う。
柔らかくなる前に、母の声があった。
耐えることと、捧げることは違います。
父の声も。
口を出さない。
それは、私に決めろという意味だった。
「分かります」
私は言った。
ユリウス様の顔が、わずかに緩む。
「なら」
「分かるから、手を引きます」
緩んだ表情が止まった。
セシリア様の膝掛けの上で、指がきつく重なる。布に小さなしわが寄った。
「リディア」
扉が開き、ロベルト伯爵が入ってきた。
昨日よりも顔色が悪い。灰色の上着の襟元が、少しずれている。執務室から急いできたのだろう。
「今朝、東区から人が来た。水路の修繕費が半額しか払われていないと言う」
「昨日の報告書、未払い一覧の二頁目です」
「二頁」
伯爵は手にした紙束をめくった。紙の端が乱れている。
「赤紙が挟んでございます」
私がそう言うと、彼は紙束の間から赤い細片を見つけた。
眉間のしわが深くなる。
「なぜ昨日のうちに言わなかった」
「書面でお返ししております」
「口で言えば早いだろう」
「今後は、台帳と報告書をご確認ください」
ロベルト伯爵の目が、机の鍵束へ落ちた。
「これは」
「お預かりしていた鍵です。すべて返却いたします」
部屋の外で、誰かが盆を落としかけたような音がした。
廊下の使用人だろう。すぐに足音が遠ざかる。
伯爵は鍵束を見たまま、しばらく動かなかった。
「困る」
その一言は、ユリウス様のものより粗かった。
「急にそのようなことをされては、困る」
「急ではございません。昨日の報告書に、終了日を記載しました」
「昨日では急だ」
「十日前にも、月末支払いの整理に人手が必要だとお伝えしております」
私は礼をした。
「お困りの点は、台帳に沿ってご確認ください。私が知る範囲は、すべて記録してございます」
「君が来れば済む」
ロベルト伯爵の声に、初めて焦りが混じった。
「婚約者だろう」
ユリウス様も、セシリア様も黙った。
私は首を上げる。
「婚約者であることと、無期限の管理者であることは同じではございません」
言い終えると、喉の奥が少し乾いた。
ミーナが背後で半歩近づく気配がする。何も言わない。その半歩だけで十分だった。
「本日は、これで失礼いたします」
「リディア、待て」
ユリウス様が追うように一歩出た。
私は振り返る。
「印章の返還をお待ちしております」
「そんなに信用できないのか」
「信用は、記録と扱いで守るものです」
胸元の印章へ、セシリア様の手がまた触れた。
私はその白い指から目を離した。
取り返すために来たのではない。
返すために来た。
廊下へ出ると、ハンスが控えていた。
彼は深く礼をし、私の前に進み出る。
「リディア様」
「台帳の赤紙からご確認ください。急ぎのものだけを挟みました」
「はい」
その返事は、丁寧だった。
静かすぎるほどに。
玄関を出ると、白百合の匂いが薄くなっていた。湿った花びらが石畳に一枚落ちている。踏まないように避けると、ミーナが馬車の扉を開けた。
「お嬢様」
「ええ」
乗り込む前に、私は振り返った。
グレイヴ伯爵家の窓の一つで、白いカーテンが動く。誰かがこちらを見ているのだろう。
鍵はもう手元にない。
台帳もない。
祖母の印章だけが、戻らないまま。
馬車が走り出すと、屋敷の門がゆっくり遠ざかった。
膝の上の手は、軽かった。軽いのに、指先の形が決まらない。
ミーナが向かいの席で、小さく息を吸った。
「お嬢様」
「何」
「今日の昼食は、温かいものにいたします」
私は窓の外を見たまま、少しだけ口元を緩めた。
「数字が走らないものを」
「では、麦粥に卵を落とします」
馬車の車輪が、水たまりを越えた。
背後で、グレイヴ家の門番が誰かに呼ばれている。遠くて言葉は聞こえない。けれど、声の調子だけは慌ただしい。
私は、預かっていたものを返しただけ。
それだけで、背中の向こうの屋敷が、音もなくきしむ気配がした。
私が何もしないだけで、あの家は少し傾いた。




