第2話 最後の収支報告書
雨上がりの朝は、紙が少し重い。
窓辺に置いた帳簿の角が、夜の湿気を吸って反っていた。指で押さえると、革表紙の下で紙束がかすかに鳴る。
グレイヴ伯爵家の春期支出控え。
隣には、夜半に届いた薬草茶の契約控えが一通。封蝋に残る鈴蘭のへこみは、私の手で押したものではなかった。
昨夜、閉じたもの。
それでも机の上にあるだけで、まだこちらを見ている。
「お嬢様」
扉の外で、ミーナの声がした。
「入りなさい」
彼女は盆ではなく、鍵束を持っていた。いつもの銀盆なら茶器の音が先に来る。今朝は鍵の触れ合う、乾いた音。
「グレイヴ家から、帳簿箱が届きました」
「いくつ?」
「四つです」
私はペンを置いた。
「未整理のものだけ、と伝えたはずですが」
「はい。使いの者も、そう申しておりました」
ミーナの声は平らだった。平らすぎるとき、彼女はだいたい腹を立てている。
階下の小応接室に降りると、床に黒い木箱が並んでいた。四つとも角が擦れ、金具に古い指紋が曇っている。蓋の隙間から、湿った紙と埃の匂いが立った。
一つ目の札には、未整理、とある。
二つ目にも、未整理。
三つ目は札が剥がれかけていた。四つ目には、私の筆跡で、昨年秋と書かれている。
「昨年秋は整理済みです」
「戻ってきておりますね」
ミーナが短く言った。
私はしゃがみ、四つ目の箱の留め金を外す。
中には、赤い紐で綴じた控えが入っていた。東区小作料猶予契約、写し。昨夜、ロベルト伯爵が探していたものだ。
原本ではない。
原本は、グレイヴ家の執務室右棚、上から二段目。未決箱ではなく、確認済みの箱。
私は小さく息を吐いた。
「戻されたのは、私がすぐ答えられるものだけですね」
「失礼ながら、未整理ではなく、便利箱です」
「言い方は正しいわ」
ミーナは一瞬だけ口元を引き結んだ。
笑いではない。けれど、朝の空気がほんの少し動く。
「お茶をお持ちします」
「濃くしないで。数字が走るから」
「薄すぎても眠ります」
そう言って出ていく背中は、いつもより足音が強かった。
私は箱の前に膝をついたまま、まず三つに分けた。
グレイヴ家だけのもの。
ファルナー家の名が関わるもの。
私の確認印が残っているもの。
最後の山だけ、机へ運ばせる。
紙は正直だった。
誰が困っていたか。どこで急いだか。誰が見栄を張り、誰が後で直すつもりだったか。数字の横に残る余白は、言い訳より先にそれを教える。
私は一枚ずつ日付を追った。
三月十二日、厨房の薪代、支払い遅延七日。
三月十八日、東区水路修繕費、半額のみ支払い済み。
三月二十六日、セシリア・ロアン様用薬草茶、月額契約。相場の二倍。
四月二日、春夜会装花追加。白百合、二百本。
昨夜の匂いが、紙の上から戻ってくる。
私は装花の行へ、小さく印をつけた。
不要、と書きそうになって、やめる。
不要かどうかは、私が決めることではない。
支払い予定なし。
そう書いた。
昼前、母が茶を運んできた。
エレナ・ファルナーは、扉を開ける前に必ず二度叩く。家族でも、私の机を勝手に覗かない。
「ミーナが、茶葉を薄くすべきか濃くすべきかで悩んでいました」
「母様はどちらに?」
「焼き菓子を足しました」
皿の上に、胡桃の小さな菓子が三つ。
私は一つを摘んだ。焼きたてではない。朝食に出たものを取り置いたのだろう。縁が少し硬く、噛むと甘さより先に香ばしさが来る。
「食べないで帳簿を見ると、あなたのお祖母様に叱られます」
「祖母は、帳簿を見ながら食べることも叱りました」
「ええ。叱る理由を二つ持つ人でした」
母は箱のそばに立ち、赤い紐の控えを見た。
「返すものは、決めましたか」
「決めています。けれど、返せないものもあります」
「どれを?」
「私の名で通ったものです。そこまでは、閉じなければ」
母は茶を注いだ。
湯気が薄く立ち、窓から入る湿った光に溶ける。
「耐えることと、捧げることは違います」
カップの縁に、母の指が添えられていた。白い指。結婚指輪だけが、古い金色をしている。
「あなたが守るべきものは、もう少し小さくてもよいのですよ」
「小さく、ですか」
「まず、自分の名を書いた紙から」
母はそれだけ言って、部屋を出た。
残された茶は、ちょうどよい濃さだった。
午後、グレイヴ家から使いが来た。
封蝋は淡い灰色。グレイヴ家の鷹の紋が、少し斜めに押されている。急いだ人間の手だ。
ユリウス様の字は、見慣れていた。
リディア。
昨夜は君らしくなかった。
父が東区の契約草案を必要としている。昼のうちに持参してほしい。
セシリアも気にしている。彼女を責めるような言い方は控えてくれ。
君なら分かるだろう。
紙の最後に、追伸があった。
印章はセシリアに預けたままで構わないね。彼女が少し落ち着いたようだ。
私は便箋を畳み直した。
ミーナが返事用の紙を差し出す。
「すぐにお返しを?」
「ええ」
「長く書かれますか」
「いいえ。短いほうが読み落としにくいわ」
私は新しい紙に、三行だけ書いた。
東区小作料猶予契約の原本は、グレイヴ家執務室右棚、上から二段目、確認済み箱にございます。
写しを本状に同封いたします。
私印の返還まで、私名義での新規承認はいたしかねます。
読み返して、余白を見た。
余白は静かだった。
封をする直前、私はもう一枚、別の紙を取り出した。
グレイヴ伯爵家春期収支報告書。
表題を書くだけで、部屋の空気が少し冷える。
確認範囲、三月一日から四月十三日夜まで。
未払い一覧。
支払い猶予済み契約。
要再確認取引。
私名義の承認停止。
項目を並べると、今まで曖昧に置かれていたものが、机の上で形を持つ。
四つ目の箱の底から、薄い青紙が出てきたのは、そのときだった。
ガルト商会。
穀物先買い契約、予備案。
前金三割。納入遅延時の補償なし。解約条項、商会側の承諾を要す。
私は市場価格表を横に置いた。先月の麦の平均価格、南市の取引記録、東区の収穫予測。
数字は、きちんと並ぶとよく喋る。
高い。
不利。
危ない。
私は報告書の余白に記した。
ガルト商会案、再見積もり必須。現条件での契約不可。少なくとも二社以上の相見積もりを要する。
ペン先が、紙に細い溝を作る。
これを書いても、読まれないかもしれない。
読まれなかったとき、何が起きるかも分かる。
けれど、書かなければ、私はまた黙って埋めたことになる。
廊下で父の声がした。
「入るぞ」
オスカー・ファルナーは、返事を待ってから扉を開けた。背が高く、言葉は少ない。濡れた外套を脱いだばかりなのか、肩に雨の匂いが残っている。
「グレイヴ家からか」
「はい」
父は机の上を一瞥し、ガルト商会の青紙で目を止めた。
「そこは、昨年も揉めた」
「納入日をずらして、倉庫料を上乗せした商会ですね」
「覚えていたか」
「帳簿に残っています」
父は頷いた。
褒める言葉はなかった。父の頷きは、たいてい判子より重い。
「夕方、ヴァイスベルク王弟殿下の使者が来る。国境水路税の資料を見たいそうだ」
「隣国の」
「ああ。レオンハルト殿下ご自身が、数字を見る方らしい」
私はガルト商会の紙を伏せた。
「私の控えをお使いください。三年前からの水路税と倉庫料なら、青棚の下段に」
「お前の名を出してよいか」
窓の外で、雨粒が一つ、遅れて落ちた。
私は少しだけ考えた。
名前は、便利な空欄ではない。
押せば済む印でもない。
「必要なところにだけ」
「分かった」
父はそれで話を終えた。
扉が閉まると、部屋はまた紙の音だけになった。
私は報告書の最後の欄へ進んだ。
継続管理者。
そこには、以前の私の字で、リディア・ファルナーと書かれている。
婚約者だから。
将来、家に入るから。
君なら分かるだろう、と言われたから。
理由は、どれも帳簿には向かなかった。
私は定規を置き、名前の上に一本線を引いた。
乱れないように。
濃すぎないように。
消したことだけが、分かるように。
その下へ、新しい肩書きを書く。
最終確認者、リディア・ファルナー。
継続管理、四月十三日をもって終了。
ファルナー家私印の返還確認まで、同印を用いた新規契約の責任を負わず。
最後に、写しを三部作った。
一部はグレイヴ伯爵家へ。
一部はファルナー家の保管庫へ。
一部は、私の机の一番下の引き出しへ。
封蝋を温めると、蜜の匂いが立った。昨夜の燭台と同じ匂いなのに、ここでは胸に残らない。
私はファルナー家の鈴蘭ではなく、ただの事務封を使った。
印章は、まだ戻っていない。
戻らないものを待って、手を止める必要はなかった。
封を閉じ、宛名を書く。
グレイヴ伯爵家執務室御中。
ユリウス様宛ではない。
ロベルト伯爵宛でもない。
家へ返すものは、家へ返す。
ミーナが入ってきて、封書を受け取った。
「これでよろしいのですか」
「ええ」
「お嬢様のお名前は」
「必要な場所にだけ残しました」
ミーナは封書の重みを確かめるように、両手で持った。
「では、確かに」
夕方の光が、机の上を斜めに切っていた。
残った帳簿を閉じる前に、私はもう一度だけ、名前を引いた線を見た。
黒い線は、紙を破っていない。
ただ、そこから先へ行かないと決めている。
私の名を消した帳簿だけが、ようやく私の味方をした。




