第1話 彼女のためだ、我慢してくれ
銀の燭台に、蜜蝋の火が細く揺れていた。
グレイヴ伯爵家の大広間は、春の夜だというのに少し暑い。壁際に並ぶ白百合の香りが、香水と葡萄酒に混じって、喉の奥へ薄く残る。
私の席は、ユリウス様の左隣に用意されていた。
席次札には、青いインクで私の名が書かれている。リディア・ファルナー。伯爵令嬢としては控えめな飾り文字。書いたのは、たぶん執事長のハンスだ。彼は数字も字も、きちんと角を揃える。
今夜、私がその席に座るのは形式だけの話ではない。春期支出の遅れと東区水路修繕について、三人の取引先に説明する予定だった。
グレイヴ家の数字を、婚約者の私が隣で補う。そう決まっていた。
「リディア」
声がしたほうへ顔を向ける。
ユリウス様が、セシリア様の手を取って立っていた。薄桃色のドレス。細い肩。手袋の上からでも分かるほど、彼女の指は頼りなげに折れている。
彼女は私を見ると、目を伏せた。
「ごめんなさい、リディア様。私、少し人が多くて」
「お加減が悪いのですか」
「少しだけ。ユリウス様が、こちらの席なら落ち着くからと」
ユリウス様は、私の席次札を指先でつまんだ。
紙が軽い音を立てる。
「リディア、今夜はセシリアをここに座らせたい。君は向こうでも構わないだろう」
向こう、とは柱の陰の席だった。
未婚の令嬢たちが控える長椅子の端。婚約者の隣ではない。踊りに誘われるのを待つ場所でもない。ただ、目立たずに夜をやり過ごすための場所。
「今夜は、両家の取引先も多く参ります。私が隣にいなくてよろしいのですか」
「君はどこにいても必要なことは分かる。セシリアは違うんだ」
彼は笑った。
よく知る笑みだった。人前では角が丸くなる。誰も責めていない顔。誰も傷つけるつもりのない声。
「彼女のためだ、我慢してくれ」
蜜蝋がひとしずく、燭台の受け皿に落ちる。
私は席次札を受け取った。紙の縁が、手袋越しに指へ当たる。薄い紙なのに、妙に硬い。
「承知しました」
「助かるよ。君は本当に分かってくれる」
助かるよ、と彼は言った。
その言葉に、私は何度、救われた顔をしてきただろう。
ユリウス様はもう私を見ていなかった。
セシリア様の背に手を添え、椅子を引く。彼女はためらうように座り、それから小さく私へ会釈した。
「ごめんなさい」
「どうぞ、お大事になさってください」
声は広間の音楽に紛れた。
弦の音が高く上がる。誰かが笑う。銀杯の触れ合う音。床には磨かれた光が流れ、私の靴先だけが柱の影に入った。
長椅子の端に腰を下ろすと、侍従が葡萄酒を運んできた。
「ファルナー様、白でよろしいでしょうか」
「お水を」
「かしこまりました」
水の入った杯は冷たかった。指先の熱を、少しずつ奪っていく。
広間の中央では、ユリウス様がセシリア様に何かを囁いている。セシリア様は頬を染め、かすかに笑った。彼女の首元で、小さな銀鎖が揺れる。
その先に下がっているものを見て、私は杯を膝の上で止めた。
鈴蘭の紋。
ファルナー家の古い印章だった。
祖母が使っていた、白い象牙の印章。握ると、いつも少しひんやりしている。倉庫の証文、領地の支払い、私個人の承認を示すときだけ使うもの。
一度押せば、相手先の帳簿にはリディア・ファルナー承認済みと残る。形見であり、鍵であり、責任の入口でもある。
今朝、ユリウス様に貸した。
取引先への急ぎの返書に必要だと言われたからだ。封蝋に一度だけ押すのなら、と。夜会の前には返す約束だった。
それが、セシリア様の胸元にある。
水面に、燭火が細かく割れて映った。
「リディア嬢」
背後から低い声がして、私は杯を置いた。
ロベルト・グレイヴ伯爵だった。ユリウス様の父君。灰色の眉の下で、目だけがいつも忙しく動く。
「東区の小作料について、少し聞きたい。あれは今年、据え置きでよいのだったな」
「半分は据え置き、半分は秋まで猶予です。雨で麦の根が傷みましたから」
「そうか。では契約書は」
「先週、草案をお渡ししております。赤い紐で綴じたものです」
伯爵は鼻の奥で短く息を鳴らした。
「赤い紐か。どこに置いたか」
「執務室の右棚、上から二段目。未決箱ではなく、確認済みの箱です」
「ふむ」
伯爵は礼も言わずに離れた。
それでよかった。いつものことだ。私は答える。誰かが動く。家が回る。
広間の向こうで、ユリウス様がこちらに気づいた。片手を上げる。来い、という合図ではない。そこで待て、に近い。
私は立ち上がった。
柱の影から出ると、白百合の匂いが濃くなる。セシリア様は私を見上げ、胸元の印章にそっと触れた。
借り物の重さではなく、首飾りの位置を確かめる指つきだった。
「リディア様。これ、とても綺麗ですね」
「祖母のものです」
「ユリウス様が、私にも少しずつ慣れたほうがいいと。将来のために」
「これを持っていれば、皆さまが安心なさると」
将来。
音楽の調子が変わる。次の曲に入る前の、短い空白。
私はユリウス様へ視線を移した。
「印章をお返しいただけますか」
「今でなくてもいいだろう」
「私の名で扱うものです」
「セシリアに預けているだけだ。大げさにしないでくれ」
ユリウス様の声は穏やかだった。周囲に聞こえない程度の音量。けれど、私の耳にははっきり届く。
「彼女は不安がっている。自分は何もできないから、いずれ君に笑われるのではないかと」
セシリア様が細い息を吸った。
「私、そんなつもりでは」
「分かっているよ。君は悪くない」
彼は彼女に微笑んだあと、私へ向き直った。
「リディア、君なら支えられる。君は強いし、数字にも明るい。セシリアにはこういう目に見えるものが必要なんだ」
「印章は飾りではありません」
「分かっている。だから君に後で整えてもらう」
「今朝の返書だけではなかったのですか」
「先月分の薬草茶の申込書を一通、封じた。セシリアが夜に眠れないと言うからね」
セシリア様の指が、印章から鎖へ滑った。
「お店の方が、ファルナー様のお印ならすぐに手配できると」
言葉の間に、銀杯の音が入った。
近くの夫人がこちらを見て、すぐ扇を広げる。聞こえなかったふり。夜会では、そういう所作にも値段がつく。
「後で、とは」
「もし何か不備があれば、君が直せばいい。いつもそうしているだろう」
手袋の内側で、指が汗ばむ。
私は祖母の手を思い出した。冬の朝、帳簿の上に置かれた節の太い指。数字は人を縛るためではなく、守るために使いなさい、と言った声。
その印章が、セシリア様の胸元で飾りのように揺れている。
「ユリウス様」
「なんだい」
「私の名で押されたものは、私が責任を負います」
「だから助かっている」
「私が知らないところで押されたものまでは、負えません」
彼の眉が少し寄った。
初めて、面倒な数字を見るときの顔になる。
「今、その話をする必要があるのか」
「今、印章が私の手元にありませんので」
「リディア」
名を呼ぶ声が低くなった。
叱責ではない。諭す声。君は分別があるはずだ、と先に決めてかかる音。
「セシリアは、ただ安心したいだけなんだ。彼女のためだ、我慢してくれ」
同じ言葉だった。
二度目のほうが、よく聞こえた。
私はセシリア様を見た。彼女は銀鎖を握っている。白い手袋の指先が、象牙の印章を隠していた。
「セシリア様」
「はい」
「その印章を使うときは、何に押したかを必ず書き残してください。日付、相手先、金額、目的。控えのない承認は、あとで誰も守れません」
彼女の唇が、少し開いた。
「私、そこまでは」
「でしたら、お使いにならないほうがよろしいかと存じます」
ユリウス様が息を吐く。
「怖がらせないでくれ」
「怖がるべきものです」
広間の空気が、ふと薄くなった気がした。
私は膝を折り、礼をした。背筋だけは曲げない。
「今夜は下がらせていただきます。伯爵閣下には、明朝あらためてご挨拶を」
「待て、リディア。そんなことで機嫌を損ねるな」
そんなこと。
祖母の印章。私の席。私の名で積み上げてきた帳簿。東区の猶予。赤い紐の草案。未払いを出さないために、月末ごとに削った数字。
そんなこと。
「機嫌の問題ではございません」
私は顔を上げた。
ユリウス様の後ろで、セシリア様が目を伏せている。銀鎖がまた揺れた。燭火を受けて、鈴蘭の紋が一瞬だけ光る。
「記録の問題です」
それ以上は言わなかった。
言えば、声が余計なものを連れてきそうだった。
広間を出ると、廊下は冷えていた。石の床を踏むたび、靴音が細く返る。白百合の匂いは遠ざかり、かわりに雨前の湿った風が窓の隙間から入ってきた。
玄関ホールで、ミーナが私の外套を抱えて待っていた。
「お嬢様」
「帰ります」
彼女は一度だけ大広間のほうを見た。何も聞かない。外套を私の肩にかけ、襟元を整える指だけが、いつもより速い。
馬車の中で、私は手袋を外した。
掌に爪の跡が残っている。痛みは遅れてくる。窓の外では、ガス灯が雨雲の下でぼやけていた。
「ミーナ」
「はい」
「明日の朝、グレイヴ家の帳簿箱を運ばせて。未整理のものだけでいいわ」
「すべてではなく?」
「すべては、もう私のものではありません」
ミーナの手が膝の上で止まる。
「承知いたしました」
その返事は、私のものによく似ていた。
屋敷に戻るころ、雨が降り出した。
自室の机には、昼に開いたままの帳簿が置かれている。グレイヴ伯爵家、春期支出控え。右上には、私の字で小さく「確認中」とある。
ランプに火を入れると、紙の端が淡く明るくなった。
私は椅子に座り、羽根ペンを取る。インク壺の蓋を開ける音が、夜の部屋に小さく沈む。
確認中、の横に一本線を引いた。
その下へ、日付を書く。
今夜の日付。雨の音。手元に戻らない印章。空になった左隣の席。
ペン先から落ちた黒い点が、紙に丸く広がった。
私は帳簿を閉じる。
革表紙が合わさる音は、思っていたより静かだった。
その夜、私は初めて、婚約者のための帳簿を閉じた。
閉じたばかりの扉を、控えめな足音が二度叩いた。
ミーナが銀盆を持って入ってくる。雨に濡れた封筒が一通。
「グレイヴ家からでございます」
封蝋には、見慣れた鈴蘭が押されていた。
私の手で押したものではない。
封筒の隅に、小さな文字がある。
セシリア・ロアン様用薬草茶、月額契約控え。




