第二章 承 ―― 橋を造る側の現実 第六話 数字の男
1
朝の宇高連絡船連絡通路敷設推進室は、いつもなら結が最初の鍵を開け、窓から差し込む朝光とともに潮の匂いを迎え入れる場所だった。
しかし、その日に限っては違っていた。
結が古い木造庁舎の重いドアを押し開けた瞬間、押し寄せてきたのは、夜を徹して澱んだ男たちの体臭と、灰皿の底で幾度も揉み消された煙草の、焦げ付いたような匂いだった。
部屋には、すでに全員が揃っていた。
いつもなら始業十五分前に対向組織の悪口を言い合っているはずの男たちが、誰一人として口を開かない。窓際のデスクでは、毎朝スポーツ新聞の競馬欄を熱心に広げている先輩が、今日はインクの匂いが残る紙面を細長く畳んだまま、机の端に伏せていた。
雑談のたぐいは一切ない。
ただ、スチール机のあちこちで、灰皿の吸い殻だけが不自然にうず高く積み上がっていた。
部屋の主である石山主任技師も、すでに席に就いていた。
いつもなら青図を乱雑に広げ、チョークの粉を指につけたまま指示を飛ばしている男が、今はただ両手を机の上で組み、微動だにせず正面の黒板を見つめている。
その右手だけが、組まれた左手の上でわずかに強張っていた。
何かを待っている手。
何かを耐えている手。
結には、そう見えた。
換気扇が、油の切れた重い唸りを上げながら、白く濁った空気を気休め程度にかき回している。その低い機械音だけが、部屋を支配する沈黙をじりじりとすり潰していた。
本局――東京の大手町にある国鉄本社から、計画の遅れを査定するために新しい男が送り込まれてくるという噂が、冷たい泥のように部屋の底へ沈んでいた。
結は何も言わず、自分の席へ向かった。
湯沸かし器の種火をつけ、古い鉄瓶に水を満たす。
ゴボゴボという水の音が、やけに大きく部屋に響いた。
誰もその音を振り返らない。
男たちの視線は、部屋の壁に掛けられた黒い文字盤の時計にただ集まっていた。
長針がゆっくりと刻みを重ねる。
窓の向こうの瀬戸内は、濃い朝霧に包まれ、灰色に眠ったままだった。
その時だった。
カツ、カツ、と、廊下の奥から音が響いてきた。
それは、この推進室の誰もが響かせたことのない音だった。
現場の男たちが履く、泥に汚れた分厚い安全靴の音ではない。
あるいは、連絡船の乗組員たちが馴染ませた、湿ったゴム底の足音でもない。
薄く、均一に磨き上げられた本革の底が、国鉄庁舎の歪んだ杉の床板を、容赦なく、そして規則正しく踏みしめていく乾いた音。
男たちの肩が、一斉に硬直するのが分かった。
ドアのノブが静かに回り、開かれた。
「本日より配属となりました、真壁です。よろしくお願いいたします」
入ってきた男は、しわ一つない紺の三つ揃えのスーツをまとっていた。
仕立ての良い生地は、この部屋を満たす煙草の煙や、窓から忍び込むわずかな潮の湿気を、まるで撥水加工のように一切寄せ付けない。
張り詰めたような白さのワイシャツに、細いネクタイ。
抱えられた黒い革の書類鞄の真鍮金具が、蛍光灯の光を浴びて冷たく反射した。
真壁英二。
その佇まいは、まるでどこか空気の清浄な無菌室からそのまま切り取られて運ばれてきたかのようだった。
彼の眼差しは、部屋の人間を人格として見ているのではない。そこに配置されたスチール机やキャビネットと同等の、記号として淡々と検分しているように見えた。
しかし、そこに傲慢な色や、地方の出先機関を見下すような安っぽい優越感はなかった。
ただ、極めて端正に、育ちの良さを感じさせる角度で、真壁は一同に向かって深く一礼した。
その隙のない丁寧さが、かえって、男たちの間に冷たい防壁を築かせた。
2
「では、早速ですが、現状の進捗状況についての確認を始めさせてください」
真壁は着任の挨拶もそこそこに、部屋の中央にある長机に資料を広げた。
彼が黒い鞄から取り出したのは、本局の最新鋭のコンピューターが弾き出したという、分厚い費用便益分析の報告書だった。
推進室の男たちが長机を囲む。
結は部屋の隅で、人数分の茶を湯呑みに注ぎ、盆に乗せた。
真壁の声は、高低の起伏がほとんどなかった。
しかし、その語り口は徹頭徹尾、誠実で、丁寧だった。
「現在、第三工区における海底掘削の遅れが、全体の予算を圧迫しています。オイルショック以降、国鉄全体の財政は危機的状況にあります。本局としては、これ以上の投資の引き延ばしは認められません。計画を予定通り、いえ、可能であれば一ヶ月前倒しで進める必要があります」
真壁の指先が、資料の上の数字をなぞっていく。
結はお茶の盆を抱え、真壁の背後からその資料を盗み見た。
白地に整然と並ぶ、黒いインクの数字。
その横で、結は昨夜見た海斗の指先を思い出していた。
爪の隙間に黒い泥を噛み、
海水にふやけ、
そこからじわりと滲んでいた血。
真壁の声が続く。
グラフが描く冷徹な直線。
結の鼻腔には、補助桟橋のうどんの出汁と錆びた鉄の匂いがまだ残っていた。
けれど、その匂いはこの部屋にはない。
この部屋にあるのは、紙の匂いだった。
乾いたインク。
硬い机。
削られた鉛筆。
商売道具としての、数字。
結は息を潜めながら、真壁の右斜め前にそっと湯呑みを置いた。
湯気が真壁の眼鏡をわずかに曇らせる。
真壁は話の腰を折ることなく、視線だけを結に向けた。
そして、小さな会釈とともに言った。
「ありがとうございます」
真壁は湯呑みを引き寄せ、一口だけ口をつけた。それから、視線をすぐに手元の資料へと戻す。
「事務員の方ですか」
抑揚のない声だった。
「はい」
結が短く答えると、真壁はペンを握ったまま淡々と続けた。
「でしたら、会議の議事録もお願いできますか。こういう議論は記録が残らないと、後で感情論になりますので」
悪気は、微塵もなさそうだった。
本気で、それが効率的で正しい役割分担だと信じている顔だった。
結の手の中で、お茶の盆がわずかに鳴った。
誰も反論しなかった。
湯気だけが、二人の間で静かに揺れていた。
3
長机の最上席で、石山主任技師は終始、沈黙を守っていた。
真壁の解説が、海底の地質リスクから工期遅延による損失額の試算へと移り変わっても、石山は一言も発しなかった。
ただ、その強張った右手だけが、机の下で固く握られていた。
真壁の丁寧な説明は、容赦なく現場の領域へと踏み込んでいく。
「本局が提示する新しい安全基準のガイドラインに従えば、掘削作業のプロセスはさらに簡略化できます。現場が主張する潮流の不確実性については、過去三十年の確率論データから、十分にヘッジ可能であるという結論が出ています」
「真壁さん」
低く、地鳴りのような声が、長机の端から響いた。
石山だった。
組んでいた手をほどき、真壁の綺麗な資料を見つめている。
「潮流は、数字通りには動きませんよ」
「もちろんです」
真壁は即座に、そして極めて紳士的に頷いた。
「だったら――」
「ですが、だからといって計画全体を止める理由にはなりません」
真壁は石山の言葉を遮るでもなく、ごく当然の前提を確認するように言った。
「現場には現場の事情があることは理解しています。ただ、その事情をすべて採用していたら橋は完成しません」
その言葉に、誰かが小さく息を呑んだ。
真壁は気づいた様子もなく、資料の端を指で整えた。
「これ以上の引き延ばしは、単なる感情論に過ぎません。感情論は、排除してください」
感情論。
その四文字が、部屋の湿った空気に落とされた。
その刹那だった。
石山が、椅子の脚を軋ませて、ゆっくりと立ち上がった。
部屋中の視線が石山に集まる。誰もが、頑固な現場叩き上げの技師が、東京のエリートに向かって怒号を浴びせるのを予期し、身を固くした。
しかし、石山は叫ばなかった。
瀬戸内の、最も深い海底の泥の底から響いてくるような、低く、掠れた声だった。
「――現場を見てから言ってください」
それだけだった。
石山は真壁を見据えることもせず、ただ机の上の自分のノートを無造作に掴むと、そのまま大きな背中を向けて、推進室を出て行った。
バタン、と閉まったドアの音が、部屋に残された男たちの肺を小さく震わせた。
真壁は、数秒だけ沈黙した。
それから、何事もなかったかのように手元の資料を一枚めくった。
眼鏡の奥の瞳には、怒りも動揺も浮かんでいない。
ただ、予定されていた工程が一つ中断されたことを確認するような、静かな目だった。
「では、次の項目に移ります」
真壁は説明を再開した。
結は、石山が去った後の冷たい静けさを、胸の奥に深く突き刺されたまま立ち尽くしていた。
4
その夜、結は高松の自宅の机に向かっていた。
窓の外からは、昼間の騒がしさが嘘のように消え去った宇高航路の、重く湿った波の音が聞こえてくる。
机の上には、昼間真壁が着けていたものとは違う、少し煤けた真鍮の国鉄バッジが転がっている。
その横に、一本の万年筆。
結は、父から譲り受けたあの黒い航海日誌を開いた。
開かれたページには、昨夜自分が万年筆の先で刻みつけた『石山徹』の四文字が、黒々としたインクの光を失って、紙の繊維にすっかり馴染んでいた。
結は一度、万年筆を机の上に置いた。
じっと自分の指先を見つめる。
昼間、真壁が見せたあの完璧な数字の羅列が、頭の中で何度も明滅していた。
「感情論は、排除してください」
その声が、耳の奥で繰り返される。
結はもう一度、軸を握り直した。
ペン先を紙へ向け、滑らせようとして、止まる。
海斗の両腕の赤さ。
補助桟橋の出汁の匂い。
爪が白くなるまで耐えていた石山の背中。
真壁の言う感情論のすべてが、言葉になって指先に集まり、溢れそうになる。
だが、ペン先は浮いたまま、動かない。
結は、深く、静かに息を吐いた。
今日見たものを、全部書きたかった。
石山の拳も。
真壁の会釈も。
男たちの沈黙も。
時計の針を見つめる目も。
けれど、結は書かなかった。
紙に落とすには、まだ熱すぎた。
熱いまま書けば、きっと形を失う。
そう思った。
結はもう一度、息を整えた。
そして、ただ一行だけ、インクの跡を残した。
『真壁英二、着任。』
それだけだった。
結は万年筆を置いた。
白い余白が、まだ何ページも続いている。
書かなかった言葉は、そのどこかに残っていた。
窓の外で、波の音がした。




