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第七話 国家の数字


 真壁が赴任してから一週間、宇高連絡船連絡通路敷設推進室を包む空気は、張り詰めた透明な氷のようになっていた。


 現場の男たちは真壁を視界の端に追いやり、真壁もまた男たちの苛立ちには触れず、ただ淡々と机の上の数字だけを動かしていた。


 しかし、その日推進室を訪れた男は、真壁が持ち込んだ無菌室の冷たさとは、まったく質の異なる影をまとっていた。


 大蔵省主計局、宗像。


 予算査定のために東京の本省から送り込まれてきたその財務官僚は、初夏の気配が漂い始めた瀬戸内の空気には、ひどく似合わない漆黒の三つ揃えを着ていた。


 真壁の紺のスーツが、周囲の湿気を弾く冷たい白を内側に抱えているとするなら、宗像の黒は、差し込む光まで吸い込んで返さないような黒だった。


 木造庁舎の歪んだ杉の床板を踏む足音すら、宗像からはほとんど聞こえなかった。


 彼は部屋に入るなり、短く名乗る前に、まず室内を一度だけ見回した。


 泥で汚れた青図。


 山のように積まれた吸い殻。


 壁に掛けられた古い国鉄の制服。


 それらに向けられる視線には、軽蔑も、興味もなかった。


 ただ、すべてを数字に置き換えられるものとして、静かに確認しているように見えた。


「大蔵省の宗像です。早速始めましょう。時間がありませんので」


 声は低かった。


 冷たいというより、乾いていた。


 地方庁舎の隙間風に対しても、宗像は眉一つ動かさなかった。彼は鞄から、真壁のものよりもはるかに薄い、数枚の書類を取り出した。


 薄い。


 けれど、その薄さがかえって不気味だった。


 たった数枚で、この部屋の男たちが何年も積み上げてきたものを止められる。


 そんな重さがあった。


 結は部屋の隅で、冷えた指先で万年筆を握り直した。


 真壁に命じられた議事録を取るためだった。


 いつもなら真壁の言葉に苛立ちを見せる男たちも、宗像の前では誰も余計なことを言えなかった。


 石山もまた、黙っていた。


 ただ、その右手だけが、机の上でじっと握られていた。



「本局より提出された、第三工区のコスト削減案です」


 真壁が、この一週間で睡眠を削って作り上げたと思われる、分厚い費用便益分析の修正報告書を宗像の前に差し出した。


 その指先はいつも通り正確だった。


 けれど、結には、いつもよりわずかに硬いように見えた。


「現地調達資材の再精査、および管理部門の人件費一五パーセント削減により、初期投資額は当初の試算より大幅に圧縮可能です。これによって、オイルショック以降の財政基準も十分にクリアできると判断します」


 真壁の声は、過不足のない正論だった。


 彼は組織の中からこの計画を守るために、削れるものを限界まで削ったのだろう。


 これ以上削れば、橋の計画そのものが崩れる。


 人も、資材も、時間も、ぎりぎりまで数字に置き換えた末に出した線。


 それが、真壁の差し出した報告書だった。


 宗像は、その分厚い報告書に数秒だけ目を落とした。


 読んだ、というよりも、厚みと形式を確認しただけだった。


 それから、細い指先でその報告書を卓の端へと押しやった。


 その仕草は乱暴ではなかった。


 むしろ丁寧だった。


 だからこそ、真壁の資料が最初から結論の外に置かれていたことが分かった。


「真壁君。君の計算は、この国鉄の中に閉じている」


 宗像の声は、真壁よりもさらに低かった。


「大蔵省が見ているのは、国鉄の収支だけではありません。国家全体の歳出です」


 宗像は、手元の薄い書類を一枚、真壁の資料の上に重ねるように置いた。


 そこには、結の目から見ても桁の違う数字が並んでいた。


「現在、国鉄の長期債務は、すでに兆の単位です。オイルショック以降の物価高騰の中で、政府が今最優先すべきは、地方交通の利便性を上げることではない。国家全体の血流を止めないことです」


 兆の単位。


 その言葉が落ちた瞬間、推進室の空気が重くなった。


 数億。


 数十億。


 真壁が扱っていた数字が、小さく見えた。


 それは、推進室の男たちが毎晩にらみ続けてきた数字を、さらに遠くから見下ろす国家の数字だった。


 結は万年筆を持つ手に、じわりと力が入るのを感じた。


 数字にも、大きさがある。


 そして大きすぎる数字は、人の顔を消す。


 そう思った。



「兆の単位の負債の前には、君の言う一五パーセントの努力など、帳簿上の誤差に近い」


 宗像は淡々と言った。


 嫌みではなかった。


 人を刺そうとしている声ではない。


 ただ、事実を机の上に置いているだけだった。


「本省としては、宇高連絡船連絡通路の敷設計画について、全面的な凍結を要請します。投資をいったん止め、既存の交通網を維持する。これが現時点で最も合理的な選択です」


「待ってください」


 真壁が声を上げた。


 その声の温度が、初めてわずかに乱れたのを、結は聞き逃さなかった。


「この計画は、すでに本局の承認を得て、第一、第二工区の着工まで進んでいます。今ここで凍結すれば、これまでの投資が無駄になるばかりか、瀬戸内地域の物流の未来に大きな損失を――」


 宗像は、静かに頷いた。


「そうでしょう」


 あまりにもあっさりとした肯定だった。


 真壁が言葉を止める。


「橋が完成すれば、人も物も動くようになる。物流は変わる。地域経済にも利益は出るでしょう」


 宗像は続けた。


「おそらく、君たちの予測は正しい」


 推進室の空気が止まった。


 結は思わず万年筆を握り直した。


 宗像は反論していない。


 否定していない。


 理解している。


 理解したうえで、切ろうとしている。


「ですが」


 宗像は机の上の書類に目を落とした。


「今、私の机の上には、全国から同じような計画が積まれています」


 その声に感情はなかった。


「港湾整備。道路改良。河川改修。地方鉄道。どれも必要です」


 宗像は、そこで初めて石山を見た。


 石山は動かなかった。


 ただ、右手の拳だけが、わずかに強く握られた。


「どれも、未来のためです」


 宗像はそう言い、それから視線を真壁へ戻した。


「だからこそ、全部は守れない」


 静かな声だった。


 怒鳴り声よりも重かった。


「私の仕事は、必要なものを選ぶことではありません」


 一拍。


「切るものを決めることです」


 真壁の口が、わずかに開いたまま止まった。


 彼がいつも現場の男たちに向けていた合理性が、今度は国家というさらに巨大な合理性となって返ってきていた。


「私は、この橋が不要だと言っているのではありません」


 宗像は言った。


「必要だと思います」


 その一言が、かえって残酷だった。


「ですが、それでも切ります」


 部屋のどこからも音がしなかった。


 真壁の右手に握られたシャープペンシルの先で、チッと、芯の折れる小さな音がした。


 その音は小さかった。


 けれど結には、部屋のどの言葉よりも大きく聞こえた。


 真壁の指先が、白くなるほどに強張っている。


 宗像は、それを見ても表情を変えなかった。


 勝ち誇るでもない。


 申し訳なさそうにするでもない。


 ただ、真壁の反応を一つの結果として受け止めているだけだった。


 この男は、たぶん人の痛みを知らないわけではない。


 見えていないわけでもない。


 見えていても、手を止めないのだ。


 結はそう感じた。


 そのことが、何より怖かった。



 結は、二人の男の沈黙の間で、ただひたすらに万年筆を動かし続けていた。


 ノートの白い紙の上に、黒いインクが吸い込まれていく。


『大蔵省側より、国家財政の逼迫を理由に、本計画の全面凍結が提示される』


『本局案におけるコスト削減の効果は、全体の負債規模に対して実効性薄しと判断』


 宗像の口から発せられる言葉を、結は事実として書き留めていく。


 凍結。


 削減。


 打ち切り。


 その一文字一文字が、まるですでに海に潜って泥を這っている現場の男たちの手を、一本ずつ離していくような痛みを伴って、結の右手に伝わってきた。


 結の視界の端で、真壁の仕立ての良いスーツの肩が、微かに、しかし確かに強張っていた。


 真壁は、自分が説明する側ではなく、説明を受け入れさせられる側に立たされたことを、誰よりも正確に理解しているように見えた。


 部屋の中には、ただ結のペン先が紙を引っ掻く乾いた音だけが響いていた。


 真壁の完璧だったはずの書類が、宗像の置いた一枚の紙の下で、まるで息を止めた魚のように白く沈んでいた。


 その数字の並びの向こう側に、結はやはり、海斗の指先の赤を思い出していた。


 そして、黒板を見つめ続けていた石山の拳の震えを。


 宗像は、静かに袖口を引き、腕時計に目を落とした。


 その仕草には、苛立ちも勝利もなかった。


 ただ、次の予定を確認するだけの軽さがあった。


 その軽さが、部屋の空気をさらに深く沈めていく。


 この男は、何を背負っているのだろう。


 ふと、結はそんなことを思った。


 ただ冷たいだけの人間なら、もっと分かりやすかった。


 嫌な人間なら、憎めばよかった。


 けれど宗像は、橋の価値を認めた。


 必要だと言った。


 そのうえで、切ると言った。


 結は、議事録の端に小さく余白を残したまま、万年筆を止めた。


 宗像の名前を書こうとして、書けなかった。


 大蔵省主計局、宗像。


 その肩書きだけでは、あの男を記録したことにはならない気がした。


 窓の外では、まだ昼の海が光っているはずだった。


 だが、推進室の中には、その光は届いていなかった。

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