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第五話 余白の記録

1


 夜の推進室の窓ガラスは、真っ黒な絵の具を塗ったように、外の景色を完全に遮断していた。今は室内の蛍光灯の白い光が反射して、結自身の事務服の影がぼんやりと浮かび上がるだけだった。


 ふと視線を落とすと、自分の黒い靴の縁に、昼間歩いた埋め立て現場の白い岩粉が、細い線のようになってうっすらと残っているのが見えた。


 だが、今彼女の目の前で静かに舞い落ちている白は、それとは異なるものだった。


 チョークの粉だった。


 乾いた硬い音が、誰も喋らない部屋に規則正しく響いていた。ホワイトボードの前に集まった推進室の男たちは、誰一人として煙草に火をつけることもなく、ただ一枚の大きな図面を睨みつけている。


 ボードを引っ掻くたび、白く細い粉が男の指先からこぼれ落ち、床へと消えていく。


 そこには、結が昼間に工事監理事務所へ届けた修正データが、別の記号へと置き換えられて次々と書き込まれていた。


 地質構造の断面図。


 巨大橋脚の配置パターン。


 工期短縮のタイムスケジュール。


 潮流と施工可能時間の相関表。


「ここに橋脚が立てば、連絡船の待避水域は削れるな」


 誰かが低く言った。


「十年先の輸送量を見れば、仕方ない」


「航路は調整できる。数字上は問題ない」


「感情で航路は残せん」


 淡々とした声だった。


 そこには怒りも、悪意もなかった。


 だからこそ、結の胸には冷たく刺さった。


 ホワイトボードの前には、あの強張った右手の男もいた。


 男は何も言わず、ただチョークを握る右手の爪を白く染めながら、無機質な数字をボードへ擦りつけていた。


 男たちの間に、感傷に似た言葉は一言も交わされない。


 昼間、補助桟橋で海斗が吐き捨てるように言った「定刻通り」という言葉の重みは、この部屋においては、一ミリの狂いも許されない計算式の正論として、淡々と処理されていく。


 結は、書類を揃える自分の指先が、かすかに震えていることに気づいた。


 胸を突いたのは、連絡船の未来への不安ではなかった。


 このホワイトボードの上に並んでいく、冷徹で、完璧で、一切の破綻がない数式の先に、父たちの航路が消える未来が、最初から組み込まれていると分かってしまったからだった。


 人の感情や、誰かの悔しさなどが入り込む余地は、この数字のどこにもない。


 白く乾いた線が、静かに、宇高連絡船の海を切り分けていくようだった。


2


 深夜一時を回った頃、結は静まり返った自宅の自室で、ようやく事務服のボタンを外した。


 硬い生地から身体を解放し、机の前に座る。


 襟元からピンを抜いて外した推進室の真鍮バッジが、木製の机の上でカチリと冷たい音を立てた。


 そのすぐ隣には、昼間、ポケットの奥深くへと押し込んだ万年筆が転がっている。


 結は立ち上がり、物置の隅に置かれた古い木箱から、あの黒い一冊のノートを持ち出してきた。


 父の航海日誌だった。


 古い革の表紙を開くと、カビと潮の混ざったような、重い匂いが部屋の空気に混ざる。


 昭和三十年のあの夜、白波丸の事故を境にして、父の歪な筆跡が完全に途絶えた空白のページ。


 結はその頁をめくった。


 その先には、まだ何も書かれていない真っ白な余白が、束になって残されていた。


 結は、その白さをじっと見つめた。


 それは、さっきまで推進室で見つめていたホワイトボードの、あの乾燥した白とは決定的に違っていた。


 あそこの白は、新しい数字が書き込まれるたびに、古い記録を容赦なく消し去っていくための白だった。


 けれど、父の日誌に残された白は、古びた紙特有の、わずかな湿り気を帯びていた。


 それは何かを拒絶しているのではなく、まるで、まだ見ぬ誰かの体温を静かに待っているかのように、結の目に映った。


 結は、その余白から目を離すことができなかった。


3


 右手が、自然と机の上の万年筆へと伸びていた。


 指先でキャップを外す。


 昼間、埋め立て現場の波止場で海斗の後ろ姿を見送ったときには、組織の冷たい線を引くための、加害的な道具にしか思えなかったペンだった。


 けれど今、結はその同じ黒い軸を、父の日誌の白へ向けていた。


 自分はもう、ただ見ているだけではいられない。


 その思いだけが、静かな部屋の中で、確かな質量を持って結の胸にせり上がってきた。


 このまま自分が何もなさず、何も書かなければ、あの昼間に見た光景も、人々の喉の震えも、すべてが推進室のホワイトボードの上にある、冷たい数字の向こう側へと完全に消し去られてしまう。


 結はペン先を紙に落とし、組織の図面にも、国鉄の工程表にも決して載ることのないものを、一文字ずつ書き留め始めた。


 昼間見た、乳白色に濁っていく瀬戸内の海の境界線。


 海斗の、硬い麻縄で擦れて真っ赤に変色していた両腕。


 その指先の小さな傷から、薄く滲んでいた血の赤さ。


「俺なんか両腕あるのに」と言ったときの、彼の顎のラインの、噛み砕けない悔しそうな強張り。


 補助桟橋に残っていた、うどん出汁と潮の混ざった匂い。


 出港前、帽子のつばを指で直していた年配の船員の横顔。


「この海は気まぐれだからな」と笑った、誰かの声。


 濡れたロープが木の床を擦る鈍い音。


 貨物の木箱に腰かけ、黙って煙草を吸っていた男の背中。


 そして、いつも上着のポケットに突っ込まれたままの、父の動かない左腕の、あの広い背中。


 深夜の静寂の中に、カリカリ、という硬いペン先が紙を引っ掻く音だけが響いていた。


 漆黒のインクが、古い紙の繊維の奥へと、じんわりと沈んでいく。


 書けば、残る。


 少なくとも、今この瞬間、結の右手が覚えているものだけは。


 それが、今の結にできる、たった一つの抵抗だった。


4


 一心不乱にペンを走らせていた結の手が、ふと止まった。


 インクの匂いが漂う暗がりのなかで、ある残像が、脈絡もなく脳裏に浮かび上がってきた。


 さっきまで推進室で見ていた、あのホワイトボードの前に立つ男の右手だった。


 チョークを握り、爪の隙間を白く染めながら、折れそうなほど強くボードに線を押し当てていた、あの異様な強張り。


 それは、昼間に海斗が語った、父の「右手一本の鮮やかな操船」とは、まるで違っていた。


 父の手が海をなだめるためのものだとしたら、あの男の手は、何かを頑なに握りしめ、戻り方を忘れてしまったかのような、歪な形をしていた。


 結は、自分が書き連ねた文章の最後の余白を見つめた。


 そして、万年筆の先をゆっくりと動かした。


 確信はなかった。


 なぜその四文字を、父の古い日誌の底に刻まなければならなかったのか、今の結にはまだ何も分からない。


 ただ、あの名前だけが、どうしても余白の外へ出ていかなかった。


 深夜の部屋は静かだった。


 結は日誌を閉じることができなかった。


 白い余白の中で、


 ――石山徹


 という四文字だけが残っていた。

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