第四話 憧れのゆくえ
1
父の航海日誌に残されていた空白は、翌日になっても結の頭から離れなかった。
事故の記録は、一文字もなかった。
何を書かなかったのか。
なぜ書けなかったのか。
答えはどこにもない。
それでも推進室の仕事は待ってくれなかった。
本州四国連絡橋公団との合同測量データの修正表。
今日中に現地の工事監理事務所へ届けなければならない。
結は書類の入った封筒を抱え、港の東側にある工事現場へ向かった。
そこで耳を打ったのは、重機の上げる地鳴りのような轟音だった。
宇高連絡船が発着する第一岸壁から、さらに東へ一キロメートルほど歩いた岬の付け根。そこは今、将来的に海を跨ぐ巨大な橋の基部となるための、港湾測量と埋め立ての最前線だった。
本州四国連絡橋公団との合同測量データの修正表を、現地の工事監理事務所に届ける。
それが、今日の結に与えられた仕事だった。
国鉄の「新幹線総局宇高連絡橋推進室」の真鍮バッジが、事務服の襟元で秋の鈍い光を反射している。
事務所を出て歩き始めると、すぐに喉の奥が白く乾いた。
岬の斜面が削られ、大型のショベルカーが砕かれた花崗岩の塊を次々と海へ投じている。海面に落ちるたび、泥混じりの白い水しぶきが上がり、乳白色の濁りがじわじわと青い瀬戸内の海を侵していく。
結は足を止め、その境界線を見つめた。
陸が、海へせり出していく。
その速度は、推進室の図面で鉛筆の線を追っていたときよりも、ずっと執拗で、容赦がなかった。
錆びた鉄の匂い。ディーゼル油の排気ガス。剥き出しになった海底の泥の生臭さ。
それらが混ざり合い、風に巻かれて結の頬を叩いた。
推進室のホワイトボードに描かれる、あの一本の直線。
男たちが爪を白くして引いた線の正体は、この重機の音であり、海を濁らせていく泥の匂いなのだと、結は肌で理解し始めていた。
それは、「予算」や「計画」という文字よりも、はるかに重い質量を持って、目の前にあった。
「おい、そこ、危ないぞ!」
怒鳴り声にハッとして振り返ると、黄色いヘルメットをかぶった作業員が、迫り来るダンプカーを指差して手旗を振っていた。
結は慌てて砂利の斜面を駆け上がり、退避する。
通り過ぎるダンプの風圧で、髪が乱れた。事務服のプリーツスカートには、すでにうっすらと白い岩粉が積もっている。
自分がここにいること自体が、場違いな迷い込みのように思えた。
その時、さきほどの作業員が、結の手にした書類に気づいた。
「推進室の人か」
「はい。修正表を届けに来ました」
「なら、あっちの監理事務所だ。ここは足場も悪い。気をつけて行きな」
作業員はそう言って、顎で海の方を示した。
結は視線を向けた。
海面の少し先に、何本かの鉄の筒のようなものが突き出ていた。煙突にも、標識にも見える。ただ、それが何なのか、結には分からなかった。
「あれは……もう橋脚なんですか」
思わず尋ねると、作業員は少しだけ口元を歪めた。
「まだ橋ですらない」
「え?」
「今やっと、海の底を調べてるところだ。どこに岩盤があるか。どこまで掘れば土台が効くか。柔らかい地盤なら、何度でもやり直しだ」
作業員は、泥で黒くなった軍手をはめ直した。
「橋脚を立てるなんて、その後の話だよ。まず海の底を探す。掘る。支える場所を作る。そこに鉄を入れて、コンクリートを流す。波と潮に邪魔されながらな」
結は、海面から突き出た鉄の筒を見つめた。
推進室の図面では、小さな丸印でしかなかった場所。
けれど現実では、その一つを作るために、これだけの音と泥と人の手が必要だった。
「一本作るのに、そんなにかかるんですか」
「一本で済めばな」
作業員は短く笑った。
「一本ズレたら、上に乗るものも全部ズレる。海の上に橋を架けるってのは、空に線を引く前に、海の底へ杭を打つ仕事なんだ」
空に線を引く前に、海の底へ杭を打つ。
その言葉が、結の胸に残った。
推進室で男たちが引いていた一本の線。
それは、空中に美しく架かる橋の線ではなかった。
その線の下には、海の底を掘り、泥をかぶり、鉄を沈める人間たちの時間があった。
結は、もう一度、濁っていく海を見た。
青い海の中に、白い泥が広がっていく。
それはまるで、まだ何も書かれていない紙の上へ、誰かが乱暴に線を引き始めたようにも見えた。
2
工事現場の喧騒を離れ、連絡船の補助桟橋へと続く古い木造の渡り廊下に差しかかったとき、ようやく耳の奥の金属音が遠のいた。
ここは、定期便の合間に不定期で運航される貨物船や作業船が、一時的に係留される静かな岸壁だった。潮で洗われ、黒く変色した木の床を踏みしめて歩いていると、前方に人影が見えた。
色の抜けた、あちこちに黒い油染みのついた青い作業服。
何度も汗と潮を吸い、持ち主の身体の形に馴染んだ衣服だった。
高橋海斗だった。
彼は、岸壁に打ち込まれた太い鉄製の係留ボラードの前にしゃがみ込み、重いもやいロープと格闘していた。直径数センチはある太い麻縄が、海水と擦れて硬くなっている。それを、彼は素手で、何度も巻き直していた。
結の足音に気づいたのか、海斗の手が止まった。
彼はしゃがんだ姿勢のまま、ゆっくりと首を巡らせた。その視線は、結の顔ではなく、彼女の胸元――事務服の襟に留められた「推進室」の真鍮のバッジへ向かった。
海斗の目が、わずかに細くなる。
挨拶はなかった。
彼は無言で再びロープに向き直ると、縄をコンクリートの床に叩きつけるようにして、鈍い音を立てて巻き始めた。
「……高橋さん」
結は、通り過ぎることもできず、その背中に声をかけた。
海斗は答えなかった。ただ太いロープを両腕で引き絞る。肩甲骨のあたりが、作業服の薄い生地の下で激しく動いていた。
「岩崎船長の船は、もう出ましたか」
結が問いかけると、海斗はようやくロープを床に放り出し、立ち上がった。
手袋もしていない両手は、縄の摩擦で赤く変色していた。いくつかの小さな擦り傷から、薄く血が滲んでいる。
「第十便なら、二十分前に出ましたよ。あんたらの大好きな、定刻通りにな」
海斗の声は、低く、かすかに掠れていた。
彼はポケットから汚れた軍手を取り出し、傷を隠すようにそれをはめると、岸壁の縁に腰を下ろした。海面に投げ出された長靴の先が、波に合わせて小さく揺れる。
出港を待つ船の気配はない。
ただ、潮が満ちていく緩やかな音だけが、二人の間に流れていた。
3
結は、海斗から二メートルほど離れたコンクリートの縁に、スカートが汚れるのも構わず腰を下ろした。
西の空が、少しずつ濁った橙色に染まり始めている。埋め立て現場の重機の音は、遠くの波音の彼方に、かすかな残響となって消えかけていた。
「岩崎船長、今日もおかしかったですよ」
海斗が、海を見つめたまま、ぽつりと言った。
その声には、怒りというよりも、喉の奥で噛み砕けない重い塊が混ざっていた。
「第三宇高丸が岸壁に入る時、急に突風が吹いたんです。見習いの俺は、もう焦って、舵の角度も分からなくなって。でも、あの人は、一言も怒鳴らない。ただ、片腕で」
海斗は自分の左腕を、右手で強く掴んだ。
作業服の生地が、ぎしりと鳴る。
「あの動かない左腕を、いつも通り上着のポケットに突っ込んだまま、右手一本で、すっと舵を戻したんです。まるで、風がどっちから吹くか、最初から知ってたみたいに。船は、一度も暴れずに、そのまま吸い込まれるように着岸しました」
夕日が、海斗の横顔を赤く照らしている。
彼の顎のラインが、硬く強張っていた。
「……すごいと、思わなかったんですか」
結は、静かに尋ねた。
「思いましたよ。悔しいくらいに」
海斗は掴んでいた自分の左腕を離し、今度は両手を目の前に突き出した。
油を吸い、潮風に晒され、縄で擦れた二本の腕。
まだ若い。
それでも、もう若者らしい柔らかさを失いつつある手だった。
「俺、おかしいと思うんです。あの人、片腕しか動かないんですよ。なのに、五体満足で、両腕がちゃんと動く俺が、逆立ちしたってあの人の操船に追いつけない。何年やっても、あの背中が遠いままだ」
海斗は自分の両手を見つめ、それから拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、軍手の繊維が引き絞られる。
「なんか、嫌なんですよね。俺なんか両腕あるのに。あるのに、何のためにあるのか分からなくなる。あの人の背中を見てると、自分の腕が、ただの飾りみたいに思えてきて」
それは、美しい師弟の憧れではなかった。
動く両腕。
若さ。
これから積み上げていくはずだった時間。
その全部が、片腕の老船長の前では、未熟さの証拠のように突きつけられている。
そのことへの、行き場のない嫉妬と苛立ちだった。
海斗は立ち上がり、軍手で乱暴に顔の汗を拭った。
「もう行きます。夜の便の仕込みがあるんで」
彼は一度も結の顔を見ないまま、もやいロープを肩に担ぎ、補助桟橋の闇の向こうへ歩き去っていった。
足音が、木の床を不規則に鳴らす。
やがて、それも聞こえなくなった。
4
一人残された岸壁で、結はポケットの中の万年筆に触れた。
海斗の背中は、もう見えなかった。
岸壁には、太いロープだけが残されている。少し前まで海斗が握っていた場所が、潮に濡れて黒く光っていた。
結はしゃがみ込み、その縄を見た。
硬かった。
何度も潮を吸い、何度も引かれ、何度も擦れた跡が残っていた。
推進室の机に並ぶ数字より、ずっと重そうに見えた。
結は立ち上がった。
視線の先には、海へ突き出た工事現場があった。
その反対側には、海の上に浮かぶ連絡船があった。
風が吹く。
白い岩粉が舞い、事務服の裾が小さく揺れた。
結は何も書かなかった。
何も答えを出さなかった。
ただ、推進室へ戻るために歩き出した。
足元で、白い岩粉が黒い靴に付着した。




