第三話 航海士の背中
五月の夕暮れは、驚くほど緩やかに瀬戸内の海を染めていった。
連絡橋推進室での一日を終え、結が港に面した庁舎を出たとき、街はすでに紫色の薄闇に包まれ始めていた。
駅へ向かうはずだった足が、途中で止まった。
高松港の方から、汽笛が聞こえた。
結は改札口へは向かわず、引き寄せられるように岸壁へ足を向けた。
港は、一日のうちで最も賑わう時間を迎えていた。
こうこうと甲板の明かりを灯した宇高連絡船が、巨大な白い城のように岸壁に横付けされている。仕事帰りの会社員、大きな荷物を背負った行商の女たち、修学旅行生らしき集団。様々な人間の足音が、厚い木製のタラップを踏み鳴らし、夜の海へと吸い込まれていく。
客室の窓からは、讃岐うどんの出汁の匂いが、潮の香りに混じって漂ってきた。低く穏やかな話し声。不意に弾ける笑い声。互いを呼ぶ声。
――この音も、匂いも、やがて消えていく。
雑踏のなかに立ち尽くす結の胸の奥を、冷たい風が抜けていった。
昼間、推進室の壁に貼られていた海図が、ふと頭をよぎった。
青い海の上を、真っ直ぐな赤い線が横切っていた。
あの線が現実のコンクリートと鉄になったとき、この音も、匂いも、いつか消えていく。
結は一般客の列に紛れ、窓口で一枚の乗船券を買い求めた。
対岸の岡山へ渡る用事があるわけではなかった。
ただ、父の背中を見たかった。
事故の夜のことを、父は一度も語ったことがない。
左腕を失った理由も。
何を見て、何を失ったのかも。
家では誰も、その話をしなかった。
結も、聞けなかった。
それでも最近になって、どうしても気になるようになっていた。
失われる側の体温を、もう一度、自分の肌で確かめておきたかった。
タラップを渡り、鉄板の甲板へ足を踏み出した瞬間、船体の奥底から重い振動が伝わってきた。低く、腹の底を揺らすようなエンジンの地鳴り。それは結にとって、物心ついた頃から耳に馴染んだ音だった。
柱時計の音のように。
眠る前、遠い暗闇から聞こえてくる潮騒のように。
結は人混みの残る客室へは入らず、外デッキの狭い階段を上がった。
船員通路へと続く重い鉄扉の手前。一般客が立ち入ることを許された限界の柵のそばで、ひっそりと足を止める。
そこからは、一段高い場所にあるブリッジの明かりがよく見えた。
出港の時刻が近づいている。薄暗いブリッジの中で、緑や赤の小さな計器の光に照らされながら、数人の影がせわしなく動いていた。その中央、舵輪の前に、ひときわ大きな背中が立っている。
父だった。
宇高連絡船の航路を守り続ける、岩崎船長。
結は手すりを握った。
聞きたいことがあった。
あの日のことを。
けれど、父の背中を見た瞬間、その言葉はどこかへ消えてしまった。
父の制服の左袖は、いつもと同じように、不自然に弛んだまま上着のポケットに収められていた。二十数年前、あの乳白色の霧の夜から、ずっとそこにある不在。
若い航海士たちが計器を確認し、短く復唱の声を交わし合う。その騒然とした空気の真ん中で、父だけはほとんど身動きをしなかった。
ただ、ガラスの向こうに広がる夜の海を見つめている。
やがて、ゴゴゴ、とプロペラが海水を掻き回す音が足元から響いた。岸壁を離れる鈍い衝撃が伝わり、巨船がゆっくりと向きを変え始める。
結は手すりを握る手に力を込め、ガラス越しの父の背中を見つめた。
船体が波を受け、わずかに傾く。
その瞬間、父は残された右手だけで舵輪を捉えた。同時に、身体の重心をほんの少しだけ海側へ移す。
劇的な動きではなかった。
けれど、そのわずかな身じろぎひとつで、船体の不自然な揺れが、静かにほどけていくのが分かった。
左腕は、ポケットの中に沈んだまま、一度も動かない。
それでも父は、巨船を滑らかに進ませていく。
海をねじ伏せようとしているのではなかった。海の機嫌を読み、その揺れを身体で受け止め、次の波へと渡していく。その背中には、長く同じ海の上に立ち続けた者だけが持つ、静けさがあった。
結の脳裏に、昼間見た石山の姿が蘇る。
図面に爪を立てるようにして直線を引き、鉛筆の芯をへし折った男。鉛筆を離したあとも、何かを握った形のまま戻らなかった右手。
父のポケットに沈んだ左袖と、石山の強張った右手。
二つの肉体の記憶が、結の胸の中で、音もなくぶつかり合っていた。
船が防波堤を抜け、夜の暗黒へと進み始める。
結はしばらくデッキの風に吹かれたまま立ち尽くし、やがてタラップへと静かに引き返した。
岸壁に降り立ち、闇の向こうへ遠ざかっていく船の尾灯を、小さくなるまで見送った。
◇
高松の古い住宅街にある岩崎の家は、港の喧騒から少し離れた場所にあった。
ここまで来ると、もう潮の匂いは届かない。その代わり、家の中には、長く使い込まれた畳の匂いと、洗濯石鹸の匂いが静かに満ちていた。
夜、結が玄関の引き戸を開けると、台所の方から水音が聞こえてきた。母が、父の制服をたらいの中で揉み洗いしているのだろう。不自由な左袖の汚れを落とすように、念入りに。
岩崎家には、言葉にされない確かな輪郭があった。
昭和三十年五月のあの事故について、この家では誰も話さない。
悲劇をあえて避けている、というよりも、その沈黙そのものが、長い年月をかけてこの家の形の一部になっていた。
父が左腕を使わずに右手だけで茶碗を持つこと。
母が物干し竿の前で、父の制服の左袖だけを丁寧に伸ばして干すこと。
夕食の席で、父の左側にだけ、いつも少し広い空間が空いていること。
そのすべてが、あまりにも自然に、あまりにも当たり前の日常としてそこにあった。
「お帰り、結。推進室の仕事は慣れたか」
居間の奥から、風呂上がりの父が声をかけた。
短く刈り込んだ髪の水分を、右手だけで器用に拭いている。先ほど船の上で見た背中とは違う、家の中の父だった。
「少しずつ。覚えることが多くて、書類の整理ばかりしてる」
「そうか」
父はそれ以上、何も聞かなかった。
結もそれ以上、話せなかった。
自分が毎日触れている推進室の赤い線が、この父の航路を少しずつ過去へ押しやっている。そのことを、父の前で言葉にすることはできなかった。
結は「仕事の資料を探すから」と母に短く告げ、廊下の奥にある物置へ向かった。
ギギ、と錆びた鍵が鳴り、重い木戸を引くと、暗闇の中に閉じ込められていた古い時間が、ふっと鼻先に触れた。
カビの匂い。
真鍮の鈍い光。
わずかな機械油の残り香。
懐中電灯を照らすと、棚には古い羅針盤、色褪せた船員帽、錆びついたディバイダーが並んでいた。どれも、もう二度と海へ出ることのない道具たちだった。
結は細い光を頼りに、棚の最下段に置かれた埃っぽい木箱を引き出した。古い気象チャートや書類の束をかき分けたその底に、一冊の分厚いノートが眠っていた。
黒い革表紙。
長年の湿気でひび割れた四隅。
表紙の右下には、父の若い頃の筆跡で、短く記されていた。
『航海日誌 一等航海士 岩崎』
結はそれをそっと抱きかかえ、自分の部屋へと持ち帰った。机の電気スタンドをつけ、白い光の下で、最初のページを開く。
紙の焼けた匂いがした。
日付。天候。風向。潮流。乗客数。
二十代だった父の文字は、驚くほど端正だった。
『天候・晴れ。視界良好。乗客四百二十名。異常なし』
『南西の風、微風。下津井沖にて潮流やや強し。操船注意』
万年筆の黒いインクを追っていると、若い頃の父の背中が、紙の向こうに立ち上がるようだった。
几帳面で、迷いがない。
海を恐れ、海を敬い、それでも海を信じていた人の文字。
結は吸い寄せられるように、ページをめくっていった。
事故の夜のことが書かれているかもしれない。
そう思った。
だが、あるページで、指先が止まった。
――昭和三十年、五月。
そこから先が、真っ白だった。
一ページ。
次のページ。
その次のページ。
日付も、天候も、風向もない。
ただ、わずかに黄ばんだ紙の白さだけが、幾頁にもわたって続いていた。
結は息を止めた。
事故の記述は、一文字たりともなかった。
誰が、どこで、どうなったのか。
父が霧の中で何を見て、何を失ったのか。
何も書かれていなかった。
けれど、その空白は、どんな言葉よりも重かった。
結は、震える手でさらにページをめくった。
そして、唐突に、記録が戻っていた。
『天候・晴れ。風向・北東。乗客三百四名』
その文字が目に飛び込んできた瞬間、結は唇を噛んだ。
筆跡が、変わっていた。
それまでの端正な線ではない。線はわずかに波打ち、文字の大きさも揃っていない。インクはところどころで滲み、紙の上に小さな歪みを作っていた。
けれど、確かに書かれていた。
天候、風向、乗客数。
何事もなかったかのように。
何事もなかったはずがないのに。
白く抜けた空白。
その先に続く、歪んだ文字。
結は、その境目から目を離せなかった。
父は、何も書かなかった。
それでも、また書き始めていた。
窓の外、はるか遠い高松港の方から、夜の連絡船の汽笛がぼんやりと響いた気がした。
結は日誌を閉じることができなかった。
父の失われた左腕の重みが、深夜の部屋に、音もなく満ちていた。




