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第二話 陸の道、海の道

 五月の朝、高松駅へと向かう道すがら、岩崎結はいつも少しだけ歩く速度を落とした。


 わずかに湿り気を帯びた潮風が、瀬戸内の海から駅前広場へと流れ込んでくる。港の方から届くのは、重く、腹の底に響くような連絡船の汽笛の音だった。


 青空の下、大きな白い船体が静かに岸壁を離れていくのが見える。


 ――父が乗っている船かもしれない。


 ふと、そんな思いが頭をよぎる。


 一等航海士としての誇りを胸に、不自由になった左腕を制服のポケットに隠しながら、今もあの海の上で舵を握り続けている父。


 その背中を思い浮かべても、結は立ち止まり、振り返ることはしなかった。


 今日から自分が向かう場所は、あの汽笛を、父たちの生きてきた航路を、少しずつ過去へ押しやるための部屋だった。


 海の恩恵を受け、海のすぐ傍らで育った自分が、その海をまたぐ道を作る組織の門をくぐる。


 その矛盾が、まだ馴染まない国鉄の制服の硬さとなって、結の肩を小さく強張らせていた。


 高松駅裏に建つ無機質なビル。


 その一角にある「連絡橋推進室」のドアを開けた瞬間、結は一瞬だけ息を詰めた。


 そこは、濃い煙草の煙と、青焼き図面特有の酸っぱい匂いが満ちる空間だった。天井からはガタガタと不器用な金属音を立てる扇風機がぶら下がり、室内の重苦しい空気をただかき混ぜている。


 窓から差し込む朝光さえ、煙草の煙に遮られて、どこか白く濁って見えた。


 部屋のあちこちから、男たちの低い声が飛び交う。


「潮流調査の結果がまた二日遅れてるぞ。下津井沖の潮は、机の上の計算通りにはいかん」


「基礎の位置が数メートルずれたら、それだけで全体が狂う。やり直しはきかないんだ」


「大蔵省はまた査定を渋り始めたらしい」


「削れるもんなら、海を削ってみろって話だ。現場を舐めるな」


 飛び交う言葉の半分も、新入職員である結には理解できなかった。


 ボーリング、トラス、活荷重、大蔵査定。


 専門用語の羅列は、結にとって冷たい記号の集まりに過ぎない。けれど、その言葉の隙間から漏れ出す男たちの熱と、海に挑もうとする異様な圧迫感だけは、皮膚を通じてじりじりと伝わってきた。


 部屋の壁には、巨大な瀬戸内海の海図が何枚ものピンで不格好に留められていた。


 その青い海の上を、何本もの真っ直ぐな赤い線が、定規で引き割るように貫いている。


 海図に走るそれは、海を渡るというより、海の上に無理やり陸を置こうとしているように見えた。


 結は、腕の中に抱えた分厚い地質調査報告書を抱え直し、室の最奥へと歩を進めた。


 スチール製のデスクが乱雑に並ぶ部屋の一番奥。


 そこが、主任技師である石山徹の場所だった。


「石山主任技師、本州側のボーリング調査データをお持ちしました」


 結は声をかけた。


 しかし、石山は顔を上げなかった。


 三十代前半。日に焼けた頑強な首筋が、結の視界に入る。短く刈られた髪。がっしりとした背中。若いはずなのに、その背中には妙な古さがあった。


 海風と図面と眠れない夜に、長い時間を削られてきたような背中だった。


 石山は大きな製図板に木製のT定規を当て、一心不乱に鉛筆を走らせていた。


 シュッ、シュッ、と、硬い芯が紙を削る音だけが響く。


 石山のデスクは、異様な空気を放っていた。


 ガラス製の大きな灰皿には、火の消えた煙草の吸い殻が山をなしている。だが、その一本一本は、どれも半分ほど残ったまま消されていた。


 傍らには、何本もの短くなった鉛筆が転がっている。どれも指の長さほどになるまで使い込まれているのに、その先端だけは刃物のように鋭く削られていた。


 図面の角には、何度も指を押し当てたのだろう、脂の染みた小さな凹みがいくつも刻まれていた。


 石山が引く線には、一切の迷いがなかった。


 その線は、島と島のあいだに横たわる海を、ただの余白のように横切っていた。


 その時だった。


 カリ、と硬い音が響いた。


 石山の持つ鉛筆の芯が、根元から折れた。


 製図用紙の白の上に、黒い芯の破片が小さく転がる。


 石山は眉ひとつ動かさなかった。声を荒げることもなく、折れた鉛筆を無造作にデスクの端へ置いた。


 だが、結の目は、彼の右手に釘付けになっていた。


 指は、鉛筆を離したあとも、何かを握った形のまま戻らなかった。


 戻り方を忘れてしまった手のようだった。


 石山は引き出しから新しい鉛筆を取り出すと、何事もなかったかのように、再び図面に定規を当てた。


「置いておけ」


 それが、石山が結に放った最初の一言だった。


 低く、砂を噛むような声だった。


「失礼します」


 結は資料をデスクの端に静かに置き、一歩下がった。


 振り返り、自分の席へ戻る間も、あの右手の残像が目の裏から離れなかった。


 自分のデスクに着き、事務用の椅子に腰を下ろしても、先ほど預かった報告書の数字は頭に入ってこなかった。


 結は、机の上に置いた自分の右手を見つめた。


 まだ新しい制服の、糊のきいた袖口からのぞいているのは、何も知らない白い指先だった。


 石山の、あの無骨で強張っていた右手とは、まるで違う手。


 けれど、なぜだろうか。


 あの指先の不自然な強張りだけが、いつまでも胸に残った。


 結は窓の外に広がる穏やかな高松港を見つめた。


 遠くで、連絡船の汽笛がぼんやりと響いていた。


 石山の引いた赤い線は、あの汽笛の音まで、まっすぐに横切っていくように見えた。

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