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第一章 起 ―― 霧の海と、新しき制服   第一話 白波丸の夜

 瀬戸内の霧は、生き物のようだと船乗りたちは言う。


 春の夜。


 それは前触れもなく、音も立てずに這い寄ってくる。


 乳白色の帳がひとたび海を包めば、一メートル先は、もう別の世界だった。


 灯台の光は薄れ、汽笛の音さえ、どこへ向かっているのかわからなくなる。


 けれど、船乗りたちは知っていた。


 この海は、人を奪うだけの場所ではない。


 家族を運び。


 仕事を運び。


 誰かの帰りを待つ人の想いを運んできた場所でもあった。


 だから今日も、人は海を渡る。


 昭和三十年、五月。


 宇高連絡船「白波丸」は、深い霧の中を進んでいた。


「……嫌な霧だな」


 ブリッジの窓外を見つめながら、一等航海士の岩崎は低く呟いた。


 二十代半ば。


 まだ若さの残る顔つきだったが、その目だけは、長く海を見てきた者のものだった。


 三分おきに響く汽笛。


 その音は湿った霧に吸い込まれ、少し遅れて、歪んだ形で返ってくる。


「岩崎、焦るなよ。海は逃げやせん」


 老船長が静かに言った。


「はい。ですが……今夜の潮は妙に巻いています」


 岩崎は双眼鏡を握り直した。


 手のひらにじっとりとした汗が滲んでいた。


 静かすぎる。


 海で本当に恐ろしいのは、荒れ狂う波だけではない。


 何も起きていないように見える、この沈黙の瞬間だった。


 その時だった。


 低い音がした。


 船底の奥から響くような、嫌な振動。


 次の瞬間。


 霧の向こうから、巨大な黒い影が現れた。


 船だった。


「面舵!」


 船長の声が飛んだ。


 直後――。


 世界が真横に傾いた。


 岩崎の身体は強烈な衝撃とともに壁へ叩きつけられた。


 一瞬、すべての音が消える。


 遅れて。


 金属が引き裂かれる絶叫が、ブリッジを突き破った。


 割れるガラス。


 鳴り響く非常ベル。


 そして、それらをすべて圧するように。


 船の底から、「ゴウ」という低い水の音が湧き上がってきた。


 海が、船の中へ入ってきていた。


「浸水だ!」


 誰かが叫んだ。


 客室の灯りが一斉に落ちる。


 暗闇の中、修学旅行生たちの悲鳴が激しく錯綜した。


「落ち着け!」


「救命胴衣をつけろ!」


 岩崎は走った。


 額から流れる血が片目を塞ぐ。


 それでも止まらなかった。


 一人。


 また一人。


 子供たちの小さな身体を抱え上げ、甲板の明かりへ押し上げていく。


 その混乱の渦中に、二人の少年がいた。


 十歳の少年、石山徹。


 彼は親友の手を死に物狂いで握りしめていた。


 激しく傾く床。


 足元を流れていく水。


 二人の身体が滑っていく。


「離すな!」


「絶対、離すなよ!」


 石山は叫んだ。


 もっと強く握った。


 握ったはずだった。


 けれど。


 次の大きな揺れで。


 その手は、するりと抜けた。


「――あ」


 短い声が、闇に消えた。


 名前を呼ぶ暇もなかった。


 白い霧と黒い海が、その小さな姿を飲み込んだ。


 石山の手には、さっきまで確かに握っていた感触だけが残った。


 温かかった。


 でも、あまりにも軽かった。


 その時。


 頭上から巨大な影が落ちた。


 固定の外れた鉄製のロッカーが、石山へ向かって倒れ込んできていた。


 逃げられない。


 石山は目を閉じた。


 ――鈍い音がした。


 だが、痛みは来なかった。


 ゆっくり目を開ける。


 視界の前にあったのは。


 血に染まった青い制服だった。


 岩崎だった。


 岩崎は奥歯を軋ませながら、倒れ込んできたロッカーを左腕で受け止めていた。


 腕の奥で、嫌な音が鳴る。


 それでも。


 岩崎の目は、少年だけを真っ直ぐに見ていた。


「……行け」


 喉の奥から絞り出された、短い言葉だった。


「でも……!」


「あいつが、まだ下に……!」


 石山は叫んだ。


 岩崎は何も言わなかった。


 助けたい命が、あの闇の底にある。


 それでも。


 いま自分の腕の中にあるこの命を、離すわけにはいかなかった。


 岩崎は残った右腕で石山の胸ぐらを掴み、甲板の明かりの方へと力任せに突き出した。


 白波丸はゆっくりと沈んでいく。


 霧は深く。


 人の叫びも。


 引き裂かれる金属の音も。


 すべてを白い闇の中へ呑み込んでいった。


     ◇


 翌朝。


 瀬戸内の海は、嘘のように穏やかだった。


 昨日まで人を呑み込んでいた海と同じだとは思えないほど、朝日に照らされ、静かに輝いていた。


 港には、変わり果てた姿で引き揚げられた人たちが並んでいた。


 救助された石山は、毛布に包まれたまま、地面に座り込んでいた。


 誰かが声をかけても、返事はなかった。


 ただ。


 自分の右手だけを見つめていた。


 握っていた。


 確かに、握っていた。


 最後まで離さないつもりだった。


 なのに。


 今は何も残っていない。


「……嫌だ」


 少年は、小さく呟いた。


「こんなの、もう嫌だ」


 涙で滲んだ視界の先。


 そこには、いつもと変わらない瀬戸内の海があった。


 憎かった。


 怖かった。


 どうして、と思った。


 けれど。


 波はただ静かに寄せては返していた。


 昨日と同じように。


 明日も同じように。


 この海の上を、また誰かが渡っていく。


 石山は、まだ乾かない手のひらを握りしめた。


 爪が食い込むほど強く。


「……誰も」


 震える声が落ちた。


「もう誰も、こんな海で離れなくていい道を」


 それは夢ではなかった。


 決意と呼ぶには、あまりにも幼かった。


 ただ、失ったものを二度と繰り返したくないという、少年の小さな願いだった。


 少し離れた場所。


 担架の上で、一人の男が横たわっていた。


 一等航海士、岩崎。


 包帯で固く巻かれた左腕は、力なく垂れ下がっていた。


 船乗りにとって大切なものを、彼は失った。


 それでも。


 岩崎は、海から目を逸らさなかった。


 昨日、多くを奪った海。


 それでも、これまで多くの人を運んできた海。


 笑顔も。


 別れも。


 誰かが帰る場所も。


 全部、この海の上にあった。


 だから。


 憎むことも。


 許すことも。


 簡単にはできなかった。


 岩崎はただ、見つめ続けた。


 波の音だけが、静かに響いていた。


 この夜。


 乳白色の霧の中で、二人の人生は海に刻まれた。


 片方の手には、失った温もりが残り。


 もう片方の腕には、海を離れられない痛みが残った。

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