序章 橋の上の音
本作は瀬戸内海および瀬戸大橋を題材にしたフィクションです。
実在の人物・団体・出来事を参考にした部分はありますが、作中の人物・会話・展開は創作であり、史実とは異なる描写を含みます。
昭和六十三年、四月十日。
瀬戸内の海は、春の光を受けて青く澄んでいた。
本州と四国を繋ぐ鋼鉄の道――瀬戸大橋の開通式典は、数千人の歓声と、ブラスバンドの演奏に包まれていた。
五色のバルーンが空へ放たれ、報道陣のカメラが一斉に光る。
誰もが橋を見上げていた。
その喧騒の端で、岩崎結は一人、古い木箱を抱えて立っていた。
中には、黒い革表紙の航海日誌が入っている。
父のものだった。
父は、この式典には来ていない。
結はそれを責める気にはなれなかった。
少し離れた臨港道路のガードレールの近くに、石山徹の姿があった。
泥の染みた作業服の上から、紺色の薄いナイロン製の上着を羽織っている。
周囲の人々が顔を紅潮させて拍手を送る中、石山だけは手を叩かなかった。
ただ、ポケットの中の右手を小さく強張らせていた。
結はその横顔を見つめ、それから腕の中の木箱を抱き直した。
ガタゴト、ガタゴトと、遠く高架の方から重い音が近づいてくる。
開通一番列車が、橋へ向かって走っていく音だった。
やがて列車は、白い橋桁の上へ滑り出した。
青い海の上を、鉄の車輪が渡っていく。
その音は、結の耳の奥で、かつて霧の海を震わせた宇高連絡船の汽笛と、静かに重なった。
物語は、三十三年前の乳白色の闇から始まった。
昭和三十年、五月。
すべてを呑み込んだ、あの霧の夜へ。




