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第二十六話 その橋は、まだ無かった


 かつて四国の玄関口と呼ばれた港の片隅に、役目を終えた古い連絡船の、ごく小さな展示室が残されていた。


 夏の終わりの長い西日が、傾斜した窓ガラスを透かして、少し艶のある古びた床の上に細長いオレンジ色の帯をいくつも引いている。閉館まであと三十分。館内には他に来館者の姿はなく、ただ天井の換気扇が、油の切れたような低い回転音を小さく響かせているだけだった。


 トツ、トツ、と。


 規則正しい、しかし片足を引きずるような重い足音が、入口のガラス戸の向こうから聞こえてきた。


 受付の細いカウンターに座っていた結は、手元に広げていた事務ノートからゆっくりと顔を上げた。彼女の短く切り揃えられた髪には、いつの間にか、生え際から頭頂部にかけて細かな白いものが混じるようになっている。眼鏡の奥の目は、入口のすりガラスの向こう側で揺れる影を静かに捉えていた。


 アルミのドアが、重そうに開いた。


 西日を背にして入ってきたのは、ひどく背の丸くなった老人だった。


 仕立ての古い、だがよく手入れされた薄い麻の上着を羽織り、右手には使い古された太い木製の杖を握っている。その指先は大きく節くれ立ち、手の甲には何本もの深く、黒ずんだシミが浮かんでいた。白髪の交じった眉の奥にある眼球は、心持ち白濁しているように見えたが、その視線はまっすぐに結の方を向いていた。


 結は、すぐに父だと分かった。


 分からないはずがなかった。


 背は丸くなり、髪は白くなり、杖を握る右手には黒ずんだシミが増えている。それでも、入口に立つその影は、結が子どものころから見続けてきた父のものだった。


 あの背中。


 あの右手。


 言葉を飲み込むように引き結ばれた、薄い唇。


 結の手が、事務ノートの端を小さく握りしめた。


 岩崎もまた、結を見ていた。


 父と娘のあいだに、一呼吸ほどの沈黙があった。


 けれど、ここは家ではなかった。


「いらっしゃいませ」


 結は、いつも通りの、抑揚のない事務的な声で言った。


「どうも」


 岩崎は、短く応じた。


 その声は、かつて風の吹く甲板で響いていた張りを完全に失い、砂を噛んだように掠れていた。


 岩崎はポケットから古びた小銭入れを取り出し、震える指先で硬貨を受付の小さなトレーに置いた。


 結はそれを確認し、大人一枚と印刷された小さな入館券を差し出す。


 岩崎はそれを、節くれ立った指で器用に摘み上げると、上着のポケットへと収めた。


 お互い、それ以上の言葉は持たなかった。


 親子として語るべき言葉なら、長い年月のどこかに置いてきていた。


 いまここにあるのは、展示室の薄い西日と、古びた床と、受付の小さなトレーに残った硬貨の冷たい光だけだった。


 岩崎は杖をトツ、と床に突き、ゆっくりと、しかし確実な歩調で展示室の奥へと進んでいった。


 結はその背中を、ただ静かに見送っていた。



 展示室は、廊下を一つ曲がった先にある、四角い小さな部屋だった。


 壁には、かつて宇高航路を走っていた歴代の連絡船の写真が、色褪せたパネルになって何枚か並んでいる。白黒の写真から、カラーの写真へ。船体が少しずつ大きくなり、煙突の形状が変わっていく歴史が、西日の光の中に晒されていた。


 だが、部屋の中央に置かれた長方形のガラスケースの周囲には、説明文の類はいっさい貼られていなかった。何を意図して集められたのか、その来歴を示すキャプションも、年表もない。ただ、厚いガラスの向こう側に、三つの物だけが等間隔で並び、沈黙を守っていた。


 岩崎は、その最初の物の前で足を止めた。


 一つ目は、古い船長帽だった。


 正面に縫い付けられた金色の刺繍は、水分を失って完全に退色し、中央の錨の紋章には、青緑色の緑青が粉を吹いたように浮き上がっている。つばの黒い革は、何度も手で触れられたせいで細かなひび割れが走り、内側の額が当たる革の部分は、乗組員の汗と脂が何年も染み込んで、赤黒く変色していた。


 帽子は、もう誰もそれを被る者がいないことを証明するように、形を少し崩したまま、展示ケースの布の上に置かれていた。


 岩崎は帽子の輪郭を、濁った目でなぞるように見つめた。


 彼自身の頭には、今は何も乗っていない。薄くなった白髪が、館内の微かな換気扇の風に揺れているだけだった。


 岩崎はゆっくりと隣へ歩を進めた。杖の音が、コンクリートの床に固く響く。


 二つ目は、小さな真鍮のボタンだった。


 直径は二センチにも満たない。かつて制服の胸元を飾っていたはずのそのボタンは、表面の錨の刻印が、何度も洗われ、あるいは擦られたせいで輪郭が微かに丸くなっている。真鍮特有の鈍い金色は、経年によって全体が茶黒く変色し、まるで錆びた鉄のようにも見えた。


 だが、そのボタンを裏返した金具の隙間には、黒ずんだ古い染みが、乾いて小さくこびりついたまま残っていた。何十年が過ぎても、その染みだけは色を失わず、物質の奥に固着している。


 岩崎の視線が、その裏側の染みに固定された。


 彼の右手の指先が、上着のポケットの中で小さく動いた。


 岩崎は何も口にしなかった。


 ただ、その真鍮の小さな塊を見つめていた。


 さらに一歩、岩崎は進んだ。


 三つ目は、一冊の開かれた日誌だった。


 表紙は擦り切れた黒い布製で、開かれたページには、細く几帳面な文字で、びっしりと数字と運航状況が書き込まれていた。


 西日の光が、その見開きの右側のページを照らし出している。そこには、一九八八年四月九日、最後の夜の、最終運航のデータが記されていた。天候、風向、乗客数。そして、一番下の行には、他の文字よりもわずかにインクの濃い、震えるような手つきで書き残された、一つの時刻があった。


 最終出港時刻。


 岩崎は、その数字を長い時間見つめていた。


 日誌には、時刻と天候と運航状況だけが並んでいる。


 展示室のどこを探しても、鉄骨を締めた男たちの写真も、開通を祝う記念バッジも存在しなかった。


 ただ、その日誌の中にだけ、一九八八年四月九日の夜が、数字として残されていた。



 岩崎は、日誌からゆっくりと目を離した。


 そして、ガラスケースの上へと視線を戻す。


 彼は、自らの右手を持ち上げた。


 何年も潮風に晒され、ワイヤーやロープで何度も裂け、そのたびに硬い皮膚となって塞がってきた、節くれ立った大きな手。すっかり痩せて、骨の形が浮き上がったその右手を、岩崎は静かに、ガラスケースの上面へと置いた。


 手のひらが、冷たいガラスに触れる。


 岩崎はそのまま、手を動かさなかった。


 老いた手の、わずかな、しかし確かに体内に残っている体温が、冷え切ったガラスの表面に伝わっていく。


 じわじわと、ガラスが白く曇り始めた。


 曇りは、岩崎の手のひらの形をなぞるようにして広がり、ガラスの向こう側にある日誌の文字、真鍮のボタンの輪郭、船長帽の緑青を、一瞬だけ白くぼかした。過去の遺物たちが、彼の体温によって、淡い霧の向こうへと隠れていく。


 岩崎は、しばらくその曇りを見つめていた。彼の胸が、小さく上下した。


 やがて、岩崎はゆっくりと右手をガラスから離した。


 手のひらが離れると、白く残された皮膚の痕跡は、室内の動かない外気によって、端の方からゆっくりと薄れていった。一分も経たないうちに、曇りは跡形もなく消え去り、ガラスの向こうには、再び三つの物が、何事もなかったかのような冷たさで元の沈黙へと戻っていった。


 岩崎は、一度も結の方を振り返らなかった。


 杖を再びトツ、と突き、彼は出口の方へと歩き出した。その背中は、入ってきたときよりも、ほんのわずかだけ小さく見えた。


 受付のカウンターで、結は現在の館内業務日誌を開いていた。


 今日の入館者数の欄に一つ数字を書き足し、結は何も言わずに、日誌をパタンと静かに閉じた。


 厚い紙が重なる音が、薄暗い受付に小さく響いた。


 直後。


 頭上から、ゴトン、ゴトン、という重い微動が伝わってきた。


 それはかつて地下書庫で聞いたものよりも、いくぶん近く、明確な質量を持った音だった。展示室の傾斜した古い窓ガラスが、その振動を受けて、かすかに「チチ……」と震えるような音を立てた。


 鉄の塊が、海の上を渡っていく音が、建物の天井を抜けて響いていた。



 展示室を出た岩崎は、夕方の外気の中に立っていた。


 夏の終わりの風は、まだ生温い熱を含んでおり、波止場の古いコンクリートの匂いを運んでくる。


 岩崎は、ひび割れたアスファルトを踏みしめながら、ゆっくりと岸壁の端へと向かった。


 かつて、何千人、何万人の人間がここへ押し寄せ、ディーゼル音が空気を震わせ、何十隻もの船が航跡を描いて行き交っていた、高松港の桟橋の跡。


 いま、そこには何もなかった。


 アスファルトの隙間からは夏草が青々と茂り、かつて可動橋があった場所には、赤錆びた鉄のフレームだけが、骨組みのように虚空に残されている。


 岩崎はガードレールに両手を置き、目の前に広がる海を見つめた。


 そこには、もう連絡船は一隻もいなかった。


 ただ、夕暮れの濃紺の潮流だけが、何十年、何百年と変わらない重さで、岸壁の根元を静かに洗い、満ち引きを繰り返している。波がコンクリートに当たって砕ける、ザザン、という低い音だけが、足元から聞こえていた。


 岩崎は海を見たまま、動かなかった。


 彼の頬を、瀬戸内の湿った風が通り抜けていく。その風の中に、かつて誰もが嗅いでいた重油の匂いは、もう混じっていなかった。


 遥か頭上、夕闇の始まりかけた空を切り裂くように架けられた、白い鉄の橋桁が見えた。


 そこを、一列の光の連なりが、等間隔の音を立てて走り去っていく。


 ゴトン。


 ゴトン。


 その乾いた鉄の音は、夕暮れの海の上に、規則正しく落ちていた。


 岩崎は、その音を背中で聞きながら、ゆっくりと、一度も橋を振り返ることなく、ひび割れたアスファルトの上を歩み去っていった。


 彼の引く杖の音が、列車の残響のなかに、小さく、小さく消えていった。

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