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第二十五話 声の居場所


 一九八八年、夏。


 地上では、セミがうるさいほど鳴いていた。


「……余計に暑くなるわね」


 結は額の汗を指で拭い、最後の段ボール箱を抱え直した。


「これで最後」


 そう呟いて、地下へ続く階段を降りていく。


 新しい管理事務所の地下書庫には、地上の熱気はひとかけらも届かなかった。


 コンクリートの壁に囲まれた空間は、ひんやりとしていた。


 だが、涼しいわけではなかった。


 逃げ場のない湿気が、床と壁と棚の隙間に溜まり、動かない空気の中で重く沈んでいる。


 結は首元に貼りついたブラウスの襟を、指先で一度だけ浮かせた。


 天井に二列に並んだ長い蛍光灯のうち、端の一本だけが「ジジ……ジジ……」と、不規則な短いノイズを立てて明滅を繰り返していた。


 低く、一度だけ、天井が震えた。


 遥か頭上を鉄の質量が通過していった気配が、コンクリートの厚みを透かして、微かな地鳴りとなって足元を抜けていく。


 結は動かしていた手を止めなかった。


 ただ、次の段ボール箱のガムテープに爪を立てた。


 粘着剤が古くなっているのか、テープは一度では剥がれなかった。


 結は端をつまみ直し、ゆっくりと引いた。


 バリ、バリ、と乾いた音が地下書庫に響く。


 プレハブの推進室から運び込まれた、茶色い箱の群れ。


 箱の側面には、黒い太字のマジックで「推進室」「会議録」「財務」「工事」「港湾関係」と書かれていた。


 雨に濡れたのか、いくつかの文字は滲んでいる。


 角の潰れた箱もあった。


 底が少し歪み、持ち上げると中の紙の重みで沈む。


 蓋を開けるたびに、閉じ込められていた古い紙の匂いが、地下の重い空気の中へ吸い出されていく。


 それは、何年もの間、男たちの手汗や煙草の煙、瀬戸内の湿った潮風を吸い込んで、そのまま乾燥した記録の匂いだった。


 結の指先は、静かに、そして淡々と動いていた。


 紐で十文字に縛られた財務関係の起案書。


 角の潰れた工事復命書。


 赤鉛筆で何度も訂正された会議録。


 表紙の擦り切れた黒い日誌。


 それらを一冊ずつ手に取り、スチール棚の正しい位置へと差し込んでいく。


 紙の束は、それぞれ違う重さを持っていた。


 薄い一枚の決裁書。


 何十枚も綴じられた工事報告。


 紐の跡が深く食い込んだ分厚い帳簿。


 表紙の端が手垢で黒ずんだ議事録。


 結はそれらを開かず、背表紙の文字だけを確認して棚に収めていった。


 名前も、数字も、日付も、すべて同じ黒いインクで並んでいた。


 背表紙だけが、灰色の棚を少しずつ埋めていく。


 箱を一つ空にするたびに、微細な埃が薄暗がりに舞い上がった。


 蛍光灯の白い光の筋の中で、埃はしばらく漂い、やがて何もなかったように床へ落ちていった。



 四箱目の段ボールの底に、古いバインダーが横倒しに詰め込まれていた。


 留め具は錆び、金属部分に赤茶色の粉が浮いている。


 結がそれを引き抜くと、下に薄い隙間ができた。


 その隙間に、一通の小さな茶封筒が挟まっていた。


 宛名も、日付もない。


 長年の湿気で糊が剥がれ、口が不格好に開いている。


 封筒の表面には、誰かの指で押さえたような薄い跡がいくつも残っていた。


 結はそれを手に取った。


 軽かった。


 だが、中に何か硬いものが入っている。


 傾ける。


 コト、と軽い金属音がして、結の手のひらに一つの塊が転がり出た。


 真鍮のボタンだった。


 表面には錨の刻印があった。


 何度も摩耗したせいか、その輪郭は微かに丸くなっている。


 縁には細かな傷があり、裏側の金具は少し曲がっていた。


 真鍮特有の鈍い金色は、経年によって茶黒く変色している。


 その裏側には、黒ずんだ古い染みが、乾いて小さくこびりついていた。


 結は、数秒だけそれを見た。


 地下書庫の中で、蛍光灯がまた一度、ジジ、と鳴った。


 結は何も言わなかった。


 それから、手元に置いてあったプラスチック製の小さな整理箱を引き寄せた。


 中には、錆びたクリップ、折れた鉛筆、古い印肉で赤く汚れた紙片が入っている。


 結はその底へ、真鍮のボタンを静かに収めた。


 真鍮のボタンは、他の小さなものたちの間に、音もなく沈んだ。



 作業が棚の最奥の隙間に達したとき、他のバインダーとは明らかに質の異なる、一冊の古いファイルが現れた。


 結の手が止まった。


 表紙の段ボール紙は完全に黄ばんでいた。


 角は何度も擦られ、丸裸の繊維が露出している。


 背の部分は布で補強されていたが、その布も湿気を吸って波打っていた。


 中央には、色褪せた黒インクの手書きの活字で、こう題されていた。


『宇高航路海難事故調査報告書』


 結は、指先に残るコンクリートの粉塵を衣服で軽く拭った。


 それから、最初のページをめくった。


 地下の静寂のなかで、ざらついた厚い藁半紙が擦れる音だけが、小さく響いた。


 紙は、今の書類よりもずっと重かった。


 一枚めくるだけで、湿った空気を含んだ古い匂いが立ち上る。


 ページの端は茶色く変色し、ところどころに小さな染みが残っていた。


 そこには、インクの滲んだ活字で、当時の乗客と乗組員の名前が列を成して並んでいた。


 死亡者。


 負傷者。


 生存者。


 項目ごとに、名前が続いている。


 結の目が、ある一箇所で止まった。


 生存者


 〇〇 〇〇


 結は、作業台の横に置いてあった別の書類を見た。


 一九八八年四月十日の朝の、本省決裁書に添付されていた「随行者名簿」。


 真新しいドットプリンタで打ち出された、まだ新しいインクの文字だった。


 白いコピー用紙は、黄ばんだ藁半紙とはまるで違っていた。


 薄く、軽く、角もまだ鋭い。


 結は二枚の紙を、作業台の上に並べた。


 一枚は、黄ばんだ藁半紙。


 もう一枚は、白いコピー用紙。


 同じ名前が、そこにもあった。


 結は二枚の紙を見つめたまま、しばらく動かなかった。


 蛍光灯のノイズだけが続いていた。


 異なる時代の紙の上に、同じ文字が並んでいた。



 結は、ゆっくりとファイルを閉じた。


 黄ばんだ事故報告書を、元の暗いスチール棚の最奥へと戻した。


 随行者名簿も、その隣へ並べた。


 棚の中には、もうほとんど隙間がなかった。


 結は扉を静かに閉める。


 灰色の鉄板が、書類の背表紙を覆い隠した。


 カチャリ。


 小さな、しかし明確な金属音が硬く響き、鍵が掛けられた。


 結は鍵を抜いた。


 その金属の冷たさが、指先に残った。


 直後。


 書庫の天井が、もう一度だけ、低く震えた。


 蛍光灯の光が、ほんのわずかに揺れた。


 やがて、地下へ続く階段の上から、かすかにセミの声が降りてきた。


 さっきまであれほど耳についた鳴き声が、今はひどく遠く聞こえた。


 結は鍵をポケットへしまった。


 もう一度だけ振り返る。


 灰色の棚は、何事もなかったように並んでいた。


 結は書庫をあとにした。

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