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第五章 灯 ―― 残されたもの      第二十四話 一番列車


 一九八八年四月十日。


 昨夜まで、あの汽笛が響いていた海だった。


 だが朝になると、高松の街は別の音で満たされていた。


 ブラスバンド。


 歓声。


 紙吹雪。


 割れたスピーカーの声。


 瀬戸内の朝は、刺すようなほど青かった。


 高松駅の周辺は、夜が明ける前から人間の肉体そのものが発する熱気で膨れ上がっていた。


 駅前広場から港へ続く臨港道路まで、隙間なく群衆が埋め尽くしている。


 昨日まで誰もが見慣れていたはずの駅舎の正面には、国鉄の「工」の紋章が跡形もなく取り外され、新しい「JR」のロゴが、眩しく陽光を反射していた。


 駅員たちの制服も、昨日までの煤けた灰色から、折り目の正しい紺色へ変わっている。


 駅前に置かれた臨時のテレビモニターでは、橋の上で行われている式典の映像が流れていた。


 白い手袋をはめた来賓たちが、テープに鋏を入れている。


 画面の下には、与島、坂出、岡山、早島といった文字が次々に流れていく。


 橋の両側から、黒い乗用車やバスの列が進み出す映像も映った。


 だが、広場に集まった人々の多くは、テレビ画面よりも駅の奥を見つめていた。


 これから来る列車を待っていた。


「見えたぞ! 来た!」


 誰かの甲高い叫び声を合図に、地鳴りのような歓声が爆発した。


 駅前広場に組まれた特設ステージのスピーカーから、


「瀬戸大橋、本日開通です!」


 というアナウンサーの絶叫が、割れた音で響き渡る。


 同時に、ブラスバンドがシンバルとトランペットの硬い金属音をいっせいに鳴り響かせた。


 人混みのなかで、小さな子どもが父親の肩車にしがみつき、目を丸くして身を乗り出している。


 そのすぐ傍らでは、色褪せたハンチング帽を被った老人が、白濁した目から涙を零し、何度も何度もハンカチで目元を拭っていた。


 テレビカメラの巨大なレンズが、群衆の頭上を回る。


 合図とともに放たれた何千本もの赤や黄色の紙吹雪が、春の乾いた風に乗って、生き物のように空へと舞い上がっていった。


 祝祭だった。


 昨夜、最後の汽笛が鳴った同じ街で、今朝はブラスバンドが鳴っていた。



 石山は、その人混みの最端、臨港道路のガードレールに背を預けて立っていた。


 彼の頭に、あの泥を被った作業用ヘルメットはなかった。


 何年も潮風に晒されて潮を吹いた綿の作業服の上から、今日のために支給された紺色の薄いナイロン製の上着を、不器用そうに羽織っている。


 首元から覗く襟だけが新しく、赤銅色に焼けた首の皮膚には、どこか馴染まない白さを見せていた。


 石山は、目の前を通り過ぎていく人間たちの顔を、ただ静かに見つめていた。


 紙吹雪を浴びて万歳を叫ぶ男。


 ハンカチで目元を押さえる老人。


 子どもの手を引きながら、橋の方を指差す母親。


 昨日、岸壁にいた人々と、よく似た背中がいくつもあった。


 だが誰も港を見ていなかった。


 皆、橋を見ていた。


 駅前の喧騒の向こうで、港は不思議なほど静かだった。


 昨日まで人が流れ込み、荷物が運ばれ、船員たちの声が飛び交っていた場所。


 そこにある桟橋は、朝の光の中で、濡れた木肌だけを鈍く光らせていた。


 ガードレールに置いた石山の右手には、ワイヤーで裂けた古い傷跡が、白く一本の線になって残っている。


 ポケットの中には、何度も雨に濡れた橋の青写真が入っていた。


 石山は、その端を指先でそっと押さえていた。



 突如、レールの軋む金属音が、ブラスバンドの音を容赦なく圧殺した。


 ガタゴト、ガタゴト。


 これまで四国の地には存在しえなかった、圧倒的な重量を持つ鉄の連なりが移動してくる音が、地響きとなって足元から伝わってくる。


「一番列車だ!」


 誰かが狂ったような声を上げた。


 フラッシュの白い閃光が、数千の波となって一斉に炸裂する。


 新調されたステンレスの車体が、四国の強烈な陽射しを鏡のように弾き返しながら、高松駅のホームから滑り出してきた。


 それは滑らかな鼻先を持った、いっさいの煤や油汚れを持たない、真新しい時代の結晶だった。


 列車は速度を上げていく。


 群衆の振る無数の小旗の波を掠めながら、高架のレールを駆け上がり、街を眼下に見下ろす高さへと昇っていく。


 その車窓には、式典の飾りを手にした乗客たちの顔が並んでいた。


 子どもが窓に額を押しつけている。


 背広姿の男が、胸元の記念バッジを指で押さえている。


 白い手袋をした駅員が、ホームの端で直立したまま敬礼していた。


 そして列車は橋へ入った。


 ゴオオオオ――。


 巨大な主塔が震えた。


 鉄と鉄が噛み合う重低音が、海の上へ広がっていく。


 列車が、海へ出た。


 白い橋桁の向こうで、陽光を弾くステンレスの車体が、海の上を走っていた。


 昨日まで航跡があった場所を。


 昨日まで汽笛が響いていた場所を。


 その同じ海の上を、


 今は鉄の車輪が走っている。


 海を、列車が走っていた。


 石山は何も言わなかった。


 ただ、その光景を見ていた。


 九年半前、最初の杭が海へ打ち込まれた日。


 潮に濡れた足場の上で、誰もまだこの景色を見ていなかった。


 図面の中にしかなかった線が、今、青い海の上で本物の音を立てていた。



 石山は、ゆっくりと顔を上げ、海の上を滑っていくステンレスの輝きを見つめていた。


 その目が、嬉しいのか、それとも苦しいのか、硬い表情からは何も読み取れなかった。


 ただ、主塔を繋ぐ無数のワイヤーの隙間を、列車が等間隔の音を刻んで走り去っていく姿だけを、その網膜に刻みつけていた。


「見事なものだな、石山」


 歓声の背後から、不意に声がした。


 振り返るよりも早く、石山の真横に、一人の男が並んだ。


 本省の最終視察団のバッジを胸につけた、皺ひとつない上質な黒いウールスーツをまとった男。


 その名前は、朝の随行者名簿にあった。


 石山は、驚かなかった。


 ただ、ポケットの中の右手だけが、わずかに強張った。


 折り畳まれた青写真が小さく擦れた。


 彼の革靴は、式典会場のレッドカーペットを踏んだばかりの、滑らかな黒い光沢を保っている。


 二人は、人混みの一番端、日の当たらないガードレールの影で、ほんの一瞬だけ、肩を並べるようにして交差した。


 お互いの顔を見ることはない。


 ただ二人して、遥か頭上を通過していく一番列車の、激しい鉄の爆音を見上げていた。


 秘書が視線を上へ向けたまま、自らの右手をそっとスーツのポケットに収めた。


 その手には、書類をめくり、ペンを握り続けてきた白い指先がある。


 石山もまた、ワイヤーの傷が残る右手を、ポケットの奥へ深く沈めた。


 二つの手の意味を、言葉にする時間はここにはなかった。


 ただ、二人の視線が一瞬だけ、互いのポケットのあたりで交錯し、すぐに離れた。


 秘書は、感情の起伏を削ぎ落とした、しかしどこか遠い響きを持った声で呟いた。


「……いい橋だな、石山」


 石山は、紺色のナイロン上着の襟を春の風に揺らせたまま、正面の青い海を見据えて、短く答えた。


「ああ」


 それだけだった。


 すれ違いの時間は、一呼吸にも満たなかった。


 秘書はそのまま、人混みのなかでカメラのフラッシュを浴びる視察団の群れの中へ歩み去る。


 その背中はすぐに、歓声の波に飲まれて消えた。



 列車の音は、徐々に遠ざかっていった。


 四国側から本州側へ、巨大な主塔をいくつも潜り抜けながら、鉄の連なりは一つの細い光の線となって、瀬戸内の島々の向こうへと吸い込まれていく。


 石山は振り返らなかった。


 去っていった秘書の背中も、式典へ戻っていく人々の波も、二度と追わなかった。


 彼はただ、ガードレールに両手を置き、目の前に広がる海を見ていた。


 そこには、もう船はいなかった。


 昨日まで海を渡っていた音は消えていた。


 代わりに、遥か頭上のレールから、乾いた、規則正しい鉄の音だけが、いつまでも海の上に降り注いでいた。

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