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第二十三話 最終運航


 一九八八年四月九日。


 高松港の岸壁は、足の踏み場もないほどの人々で埋め尽くされていた。


 岸壁を満たす歓声と、ブラスバンドの硬い金属音が交ざり合い、色鮮やかな紙テープが風に煽られて陸と船の間で無数に交差している。


 だが、ブリッジの重い鉄扉を閉めた瞬間、そのすべての音が遮断された。


 厚いガラスの向こうで人々が口々になにかを叫び、手を振っているが、こちらには何も届かない。


 そこには、三十年間何一つ変わることのなかった、冷徹なまでの静寂だけがあった。



「前進微速」


 岩崎の低く短い声が響く。


 海斗は応じ、右拳の白い包帯を軋ませながら、テレグラフの金属レバーを正確に動かした。


 カチリ、と機械音がする。


 黒い計器盤の中で、包帯の白さだけが浮き上がっていた。


 巨大な船体が、ゆっくりと岸壁へ寄っていく。


 デッキの係員が、太いロープを陸へと投げた。


 岸壁の作業員がそれを拾い、突き出た鉄のビットへ素早く掛ける。


 ガン。


 鈍い衝撃音がブリッジの床を伝ってきた。


 綱がギリギリと擦れる音を立てて張り詰め、船体が完全に止まった。



 タラップが架けられ、乗客たちが次々と陸へ降りていく。


 最後の下船客は、一組の老夫婦だった。


 白髪の男が、タラップの途中でふと足を止め、振り返った。


 男は眩しそうに目を細め、巨大な船体を下から上へと見上げた。


 何かを言いかけるように口元を動かしたが、結局、何も言わなかった。


 男は小さく頭を下げると、妻の肩を抱くようにして、そのままゆっくりと岸へ降りていった。


 客室の自動扉が閉まり、船内から人の気配が完全に消えた。



 すべてのロープが解かれ、船体が陸地から離れ始める。


 黒い海の上に、船尾から白い航跡が広がりだした。


 岩崎が、無言のまま頭上のレバーを引き絞る。


 瀬戸内の海へ向けて、重く、低い音が放たれた。


 最後の汽笛が、一回だけ、長く長く鳴り響いた。


 やがて、レバーが戻され、汽笛が終わる。


 音は完全に消えた。


 だが、海斗の足元の鉄板だけが、しばらくの間、細かく、細かく震え続けていた。


 その震動のなか、海斗は岩崎の顔を見た。


 しかし、岩崎は決して海斗を見なかった。


 一切の手の震えもなく舵輪を保持したまま、ただ真っ直ぐに、前方の暗い海だけを見つめていた。


 それだけだった。



 陸地の上で、結は手元の時計を無言で見つめていた。


 秒針が静かに頂点を過ぎた。


 結は万年筆を握り、手元にある議事録の末尾に、その時刻を刻みつけた。


 にじみのない黒いインクが、白い紙の奥へと静かに沈んでいく。


 同じ岸壁の端、何重もの人だかりから遠く離れた場所で、石山は立っていた。


 ゆっくりとヘルメットを脱ぎ、脇に抱える。


 石山は去りゆく船へ向かって、静かに頭を下げた。


 やがて船の灯りが遠ざかり、闇の中へ完全に見えなくなっても、石山は顔を上げなかった。

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