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第二十二話 最後の夜


 一九八八年四月八日。


 宇高航路最後の運航を翌日に控えた夜だった。


 誰もいない四畳半の宿舎は、狭い洗面台の白熱灯だけが灯っていた。


 海斗は鏡の前に立ち、新しい紺色の制服の袖口を何度も引いた。


 一年近く着てきたはずの生地は、まだ身体に馴染んでいない。


 肩を回すたび、カサ、と乾いた音がする。


 机の上には、十一か月前に掲示板から剥ぎ取ってきた「保線区」への辞令が置かれていた。


 紙の端は湿気を吸い、わずかに波打っている。


 その横には、国鉄の「工」の紋章が入った真鍮のボタンが転がっていた。


 海斗は右手を開いた。


 ロッカーの鉄板に叩きつけた傷は、もう塞がっている。


 拳の骨の上に、白い小さな痕が残っているだけだった。


 だが、その手は今も、保線区の辞令を掴めなかった。


 海斗は一度だけ、真鍮のボタンを右手に握り込んだ。


 硬い輪郭が、手のひらに沈む。


 痛みはもうなかった。


 それでも、指はなかなか開かなかった。


 外の暗い海の向こうから、いつもと変わらない連絡船の汽笛が、低く響いてきた。


 海斗は洗面台の電気を消した。


 暗闇の中、あの日から着続けている紺色の制服を身につけたまま、畳の上に腰を下ろす。


 横にはならなかった。


 開けた窓から入る冷たい潮風を浴びながら、無言で朝を待った。



 高松港の乗組員事務室では、岩崎が一人、机に向かっていた。


 蛍光灯が、誰もいないスチールデスクの列を白く照らしている。


 岩崎の手元には、大きな見開きの帳簿が広げられていた。


 翌日、一九八八年四月九日の運航日誌だった。


 黒い万年筆の先が、紙の表面を擦る。


 カリ、カリ。


 規則正しい音だけが続く。


 昼間、ロッカー室で海斗からぶつけられた言葉は、この日誌のどこにも書き込まれない。


 そんな欄は、どこにもなかった。


 岩崎が書き込んでいくのは、気圧の数字であり、風向の記号であり、波高の予想だった。


 明日もいつも通りに船を出し、いつも通りに目的地へ接岸させるための、冷たい事実の列だった。


 書き終えた岩崎は、万年筆を置いた。


 三十年間、幾度もの荒海で重い舵を握り続けてきた大きな右手が、静かに机の上に残る。


 白い紙の上で、濃い黒インクの数字だけが乾いていった。



 児島・坂出の公団推進室プレハブも、深夜の静寂の中にあった。


 真壁と結は、向かい合わせのデスクに座ったまま、動かなかった。


 机の上には、財務書類と議事録の束が積み上がっていた。


 明日になれば、その多くは書庫へ送られる。


 いつもなら室内に響くはずの、電卓を叩く音はなかった。


 真壁のペンを走らせる音もない。


 二人はもう、何も書いていなかった。


 ただ、壁に掛けられた丸い時計を見つめていた。


 チク、チク、チク、チク。


 プラスチックの秒針が、一秒ずつ文字盤を進んでいく。


 その音だけが、耳障りなほど大きく響いていた。


 数字は減り続けている。


 どの書類にも、止める欄はなかった。



 同じ夜、瀬戸大橋の最上部、キャットウォークの上に石山はいた。


 ヘルメットを叩く潮風は、強く、冷たかった。


 作業員たちの怒号も、重機の駆動音も消えている。


 完成したばかりの巨大な鋼鉄の建築物の上で、石山は一人、手すりに両手をかけ、眼下に広がる暗い海を見つめていた。


 遠く、高松の灯りを背にして、一隻の船が近づいてくる。


 いつも通り、客室の窓から四角い光の列を漏らし、デッキの灯りをともした、宇高連絡船だった。


 船はゆっくりと、瀬戸大橋の真下へ滑り込んでいく。


 ズズズズ、と地響きのようなディーゼル音が、夜の海を渡ってきた。


 その音は、石山の足元にある巨大なコンクリート主塔にぶつかり、低く反響した。


 キャットウォークの鉄格子が、かすかに震える。


 石山は、ブーツの底に伝わるその震動を、ただじっと受け止めていた。


 船の光は、橋の影をくぐり抜けた。


 やがて、本州側の闇の中へ静かに消えていく。


 後には、暗い波の音だけが残された。

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