第二十一話 凹んだロッカー
1
五月の雨は、容赦がなかった。
児島・坂出の推進室が入るプレハブのトタン屋根を、低く、重い音で叩き続けている。
窓ガラスは白く曇り、外の建設資材の山が、ぼやけた輪郭になって雨の中に沈んでいた。
廊下の掲示板の前は、異様な静けさに包まれていた。
数分前、人事課の職員がやってきて、一枚の白い紙を留めていった。
パチン、パチン。
プラスチックの画鋲がコルク板に刺さる乾いた音が二回、廊下に響いた。
それだけだった。
海斗は、その紙の前に立ち尽くしていた。
上部には、にじみのない朱色の公印が鮮やかに押されている。
『宇高航路廃止に伴う人員配置転換実施要綱』
中央には、太い明朝体で事実だけが記されていた。
『一九八八年四月九日 終夜運航を以て宇高連絡船の運航を終了する』
その下には、乗組員たちの名前が数段に分かれて並んでいた。
名前の横には、それぞれの新しい所属先が指定されている。
保線区。
駅務。
退職勧奨。
海斗は、自分の名前を見つけた。
その隣にある文字を見た。
保線区。
もう一度、上から下まで視線を走らせる。
保線区。
駅務。
退職勧奨。
どこにもなかった。
船員。
その二文字だけが。
通りかかる他の乗組員たちが、海斗の背後で足を止める。
無言で紙を見つめる。
そして、去っていく。
誰も声を上げなかった。
ただ、濡れた傘の先から床のコンクリートへ滴る水の音だけが、等間隔で静かに響いていた。
2
乗組員用のロッカー室は、薄暗かった。
海斗は一人、壁際に置かれた木製の長いベンチに腰掛けていた。
身につけているのは、四月一日に支給された新しい紺色の制服だった。
一ヶ月が経ち、毎日袖を通しているはずなのに、生地はまだ硬いままだった。
人間の体温も、瀬戸内の潮風も、何一つ吸い込んでいない布地からは、撥水加工のツンとした匂いがかすかに漂っている。
海斗が深く息を吐き出すたび、上着のナイロン混紡の生地が、カサ、と小さく鳴った。
自分の身体を拒絶するような、冷たい異物の音だった。
ポケットの中に、右手を深く突っ込む。
ふと身体を傾けた瞬間、ポケットの奥で重い金属音が鳴った。
チャリ。
指先が、丸い真鍮の輪郭に触れた。
国鉄の「工」の紋章が入った古いボタンだった。
裏側には、引きちぎられた太い縫い糸がまだ絡みついている。
指先で表面をなぞる。
固着した緑青の粉が、爪の間に薄く入り込んでくる。
壁を隔てた廊下からは、まだ乗組員たちの低い足音が聞こえていた。
3
叫びは出なかった。
涙もなかった。
ただ、消された人間の行き場のない重さが、逃げ場を失って、海斗の右拳へと集まっていった。
海斗はベンチから立ち上がった。
ポケットから右手を引き抜く。
そのまま、目の前のスチール製ロッカーの扉へ向かって、拳を真っ直ぐに叩きつけた。
ドォン。
狭いロッカー室の空気が、爆発したように震えた。
鉄板の震動音が、壁に跳ね返る。
グレーの塗装が数ミリ四方、パキッと音を立てて剥がれ落ち、コンクリートの床に微かな塵となって散った。
ロッカーの扉には、海斗の拳の形に歪んだ、鈍く深い凹みが刻まれていた。
海斗は拳を引かなかった。
鉄板に肉を押し付けたまま、二度、三度と、さらに激しく拳を打ち付けた。
ガン。
ガァン。
鉄の凹みはさらに深く、歪んでいった。
海斗の指の関節の皮膚が裂け、赤い血が滲みだす。
血はグレーの塗装の斜面に沿って、一筋の細い線となってゆっくりと垂れていった。
それでも、海斗が身にまとう新しい紺色の制服は、カサカサと乾いた音を立てるだけだった。
海斗の血も、汗も、その硬い生地は何一つ吸い込まなかった。
4
背後で、ロッカー室の重い鉄扉が静かに開いた。
入ってきたのは、岩崎だった。
岩崎は、血の滴る海斗の拳を見なかった。
歪んで凹んだロッカーの鉄板も見なかった。
ただ、激しい呼吸のまま肩を上下させて立ち尽くす海斗の正面へ、無言で歩を進めた。
岩崎は声を荒らげなかった。
ゆっくりと右手を伸ばす。
数々の荒海で、三十年間にわたり重い舵を握り続けてきた、分厚い、傷だらけの右手だった。
岩崎のガサついた指先が、海斗の頭に触れた。
殴打の衝撃で、横に大きく傾いていた「JR」の帽子。
岩崎はその鍔を指先で挟むと、海斗の眉間の中心に合わせて、真っ直ぐに直した。
指先が帽子の硬い生地を擦る、わずかな音だけがした。
岩崎は静かに手を引くと、海斗の目を正面から見据えた。
職責の重さそのものを乗せた、低く、揺るぎない声だった。
「次の便の客が待っとる。持ち場へ戻れ」
海斗は拳を握りしめたまま、奥歯をギリ、と鳴らした。
「あんたは……悔しくないんかよ」
岩崎は答えなかった。
ただ、もう一度だけ、同じ声で告げた。
「持ち場へ戻れ」
岩崎はそれ以上、何も言わなかった。
先に回れ、と促すように、海斗に背中を向けて出口へと歩き出す。
廊下へ続く扉が開いた瞬間、外の激しい雨音と、遠い港の岸壁から響いてくる連絡船の低いディーゼル音が、ロッカー室の中に滑り込んできた。
5
誰もいなくなったロッカー室に、トタン屋根を叩く雨音だけが戻ってきた。
木製の長いベンチの上には、海斗の拳から落ちた血が、赤く丸くにじんでいた。
そのすぐ隣で、衝撃の拍子にポケットからこぼれ落ちた国鉄の真鍮ボタンが、ベンチの板の上で小さく跳ねた。
チャリ。
硬い音が一つ、取り残されるように響いた。
誰も、拾わなかった。




