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第四章 結 ―― 畳まれる時代      第二十話 新しい制服


 一九八七年、四月一日。


 決定はすでに下されていた。


 それでも朝は、いつも通りに来た。


 朝霧が薄く残る高松駅の構内は、刺すように冷たかった。


 薄暗い天井の下で、夜明け前から同じ音が響き続けている。


 ガリガリ、ガリガリ。


 金属が金属を強引に削り取る、乾いた音だった。


 その音は波のように途切れることなく、コンクリートの床を伝って足裏へ響いてくる。


 始発列車を待つ乗客たちが、外套の襟を立てたまま首をすくめ、その様子を遠巻きに眺めていた。


「もう国鉄やないんか」


 首に手ぬぐいを巻いた年配の男が、吐く息を白く尖らせて呟く。


「今日からJRらしいで」


 隣の荷物を抱えた男が、眠そうな目で作業員の手元を見つめた。


「名前が変わっても、船は出るんやろ」


 男たちはそれだけ言うと、何事もなかったかのように改札の奥へ歩いていった。


 駅の看板の前では、作業服を着た男たちが鉄製のスクレーパーを両手で握り、体重をかけていた。


 赤錆びた「工」の鉄のプレートだった。


 下の小さな文字は煤で黒ずみ、「日本国有鉄道」の一部だけが、かろうじて読めた。


 何十年分もの煤煙と潮風を吸って、駅の骨組みにこびりついている。


 ガリガリ、と鈍い音が上がる。


 バールがプレートの裏側に抉り込まれ、テコの力で押し上げられた。


 ガラン、と重い音を立てて、歪んだ鉄の塊がコンクリートの床に転がる。


 剥がされた跡には、四角く古びた色が残っていた。


 周囲の壁が煤と油で黒ずんでいるのに対し、長年プレートに隠されていたその部分だけが、かつての白い塗装のまま、取り残された傷跡のように露出している。


 昨日までの輪郭が、消えない白さとしてそこに残されていた。


 作業員は床のプレートを一蹴りで隅に寄せると、納品されたばかりの真新しいステッカーを台紙から剥がした。


 ビッと、プラスチックが裂ける音がする。


 同時に、ツンと鼻を突く化学的な糊の匂いが、冷たい空気の中に広がった。


 白い傷跡を覆い隠すように、緑色の「JR」の文字が貼られていく。


 糊の粘着剤はまだ乾いていない。


 湿った匂いだけが、新しく変わった看板の周りに漂っていた。


 船のタラップへ続く通路でも、同じ音が響いていた。


 ガリガリ、ガリガリ。


 船壁に取り付けられていた「工」のマークが、次々と削り落とされていく。


 海に浮かぶ宇高連絡船の白い船体からも、昨日までの皮膚が強引に剥ぎ取られようとしていた。



 乗組員用のロッカー室は、静まり返っていた。


 出港前の慌ただしさから切り離されたその狭い空間で、海斗は一人、木製のベンチに腰掛けていた。


 手元に広げられているのは、昨日まで着ていた青い制服だった。


 肘のあたりは布地が薄くなり、袖口は擦り切れて細い糸が何本もほつれている。


 数年前、この船に乗る際に先輩から回された、あの青い制服だった。


 肩の内側には、もう辞めた先輩の名前が薄く残っている。


 その上から自分の名前を書いた。


 海斗は、制服の胸元に並ぶ金色のボタンに手を伸ばした。


 丸い真鍮の表面には、国鉄を示す「工」の紋章が刻まれている。


 長年、瀬戸内の潮を吸い続けたせいで、ボタンの裏側には青緑色の緑青が固着していた。


 それを留めている太い縫い糸は、ガチガチに強張っている。


 海斗は、ハサミを使わなかった。


 親指と人差し指をボタンの裏側へ無理やり滑り込ませる。


 爪の間に硬い緑青の粉が入り込み、肉に食い込むほどの力を込めて、強引に真鍮をねじり上げた。


 ブチ、と鈍い音がして、ロッカー室の壁に跳ね返った。


 糸が一本、限界を迎えて弾ける。


 海斗は手を止めず、さらに指先をひねった。


 ブチ、ブチ、ツ。


 太い縫い糸が次々と引きちぎられ、布地が小さく裂ける感触が、指の腹に直接伝わってきた。


 ボタンのなくなった青い制服が、胸元に丸い穴をあけたまま、ベンチの上に取り残された。


 海斗は、新しく支給されたJRの上着に袖を通した。


 深い紺色。


 驚くほど軽かった。


 だが、まだ一度も潮風を吸っていない生地は、身体の線に馴染まなかった。


 腕を動かすたびに、カサカサと乾いた音が鳴る。


 表面は滑らかで、海斗の身体を拒絶するように硬く突っ張っていた。


 海斗はベンチから四つの真鍮のボタンを拾い上げ、新しい紺色の上着の右ポケットへ静かに滑り込ませた。


 ロッカー室を出て、ブリッジへと続く狭い通路を歩き出す。


 チャリ、……チリ。


 海斗は歩く。


 チャリ。


 右のポケットで鳴る。


 チャリ、……チリ。


 通路の奥で誰かが呼んだ。


 海斗は返事をした。


 チャリ。


 新しい制服の胸元には、まだ何も付いていなかった。



 同じ夕方。


 岩崎家の居間には、まだ明かりがついていなかった。


 障子越しの西日だけが、座卓の上を薄く照らしている。


 岩崎は一人、座卓の前に座っていた。


 目の前には、古い国鉄の船長服が広げられている。


 何十年も潮風を吸い、エンジンの油の匂いをまとった布地だった。


 岩崎は不自由な左腕を膝の上に置いたまま、右手だけでゆっくりと襟を整えた。


 布は重かった。


 新しい服のようには、簡単に形を変えなかった。


 袖口の金筋には、細いほつれがいくつも出ている。


 岩崎はその一本を指先でつまんだ。


 けれど、ちぎらなかった。


 胸元には、取り外された「工」のボタンの跡が四つ残っていた。


 丸い跡。


 そこだけが、周囲より濃い紺色を保っている。


 岩崎はしばらく視線を落とした。


 やがて、船長服を畳み始めた。


 肩を合わせる。


 袖を折る。


 金筋が内側へ隠れる。


 もう一度、端を揃える。


 畳まれた服は、座卓の上で四角い塊になった。


 岩崎はそれを、しばらく見下ろしていた。


 そのとき、二階で床板が小さく鳴った。



 瀬戸内海を染める光は、黄色を帯びて岩崎家の二階へ差し込んでいた。


 結の自室のベッドの上には、公団から支給されたばかりの、折り目の白い真新しい紙袋が置かれていた。


 結は静かに手を伸ばし、袋の中から新しいJRの制服を取り出した。


 まだ誰も袖を通していない上着は、袋の形に四角くプレスされたままだった。


 結はそれを広げ、ゆっくりと腕を通した。


 生地が硬い。


 まだ人間の体温を知らない布地は、冷たくて薄かった。


 前ボタンを留めて、鏡の前に立つ。


 結は肩を押さえた。


 生地は動かなかった。


 鏡の中の制服だけが、きれいな形を保っている。


 結はもう一度、肩を押さえた。


 やはり動かなかった。


 カサカサと硬い布地の音を響かせながら、結は一階の居間へと階段を降りていった。


 薄暗い居間の座卓の上には、父・岩崎の船長服が四角く畳まれていた。


 何十年ものあいだ、潮風とエンジンの油に晒されてきた布地だった。


 袖口の金筋は、内側へ隠れている。


 胸元の丸い跡だけが見えていた。


 岩崎は座卓の前に腰掛けたまま、その丸い跡を、分厚い指先で静かになぞっていた。


 ガサついた指の腹が、布地の段差を確かめるように動く。


 結が部屋に入ってきても、岩崎はすぐには顔を上げなかった。


 親子に言葉はなかった。


 岩崎はゆっくりと顔を上げ、結を見た。


 まだ一度も潮の匂いを吸っていない制服。


 肩の折り目だけが、きれいに残っていた。


 岩崎はしばらく娘を見つめたあと、畳まれた船長服の上の、ボタンの跡へ視線を戻した。


「……悪くねぇな」


 結は何も答えなかった。


 ただ、新しい制服の裾を整えた。


 折り目は、まだ残っていた。

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