第十九話 決裁印
1
東京。
夜。
重い扉の向こうにある執務室は、静まり返っていた。
窓の外には、冬の街の灯りが小さく滲んでいる。
机の上には、二つの書類が並んでいた。
一つは、本四備讃線事業の一時凍結、および無期延期を求める査定意見書。
もう一つは、それに添付された分厚い帳簿だった。
男は黙ってページをめくった。
施工中工区。
主塔用鋼材。
地方債。
漁業補償。
違約金。
補償費。
廃棄費。
数字。
数字。
数字。
そのどれもが、もう動いてしまった現実だった。
机の脇には、一人の秘書が立っていた。
若くはない。
しかし老いてもいない。
感情を表に出さない、静かな顔をした男だった。
書類を読んでいた男が、ふと視線を上げる。
「君は、香川だったな」
秘書は、わずかに頭を下げた。
「はい」
「どう思う」
部屋に沈黙が落ちた。
秘書はすぐには答えなかった。
机の上に置かれた帳簿を見つめる。
そこに並ぶ数字を見ているのか。
その向こうにある海を見ているのか。
表情だけでは分からなかった。
やがて、秘書は静かに言った。
「……もう遅すぎました」
それだけだった。
男は何も言わなかった。
もう一度、書類へ視線を落とす。
査定意見書。
現場の帳簿。
二つの紙の束が、机の上に並んでいる。
しばらくして、男の手が朱肉へ伸びた。
印鑑が持ち上がる。
紙の上へ落ちる。
――コン。
乾いた音が、静かな部屋に小さく響いた。
赤い決裁印が、白い紙に滲んだ。
そこには、簡潔な文字が並んでいた。
本四備讃線事業
建設継続
2
児島・坂出の公団推進室プレハブ。
夕方。
FAXが短い駆動音を立てた。
ガガガ、と紙が吐き出される。
そして、静かに止まった。
室内にいる誰も動かなかった。
やがて真壁が立ち上がる。
トレイに残された紙を手に取った。
視線が文字を追う。
決裁印。
建設継続。
それだけだった。
歓声はなかった。
万歳もなかった。
拍手もなかった。
誰も何も言わない。
プレハブの窓を叩く風の音だけが続いていた。
3
夕暮れ。
窓の外で、瀬戸内の海がゆっくりと色を失っていく。
連絡船が入港してきた。
甲板の灯りが海面に揺れている。
乗客たちの姿が見える。
船はいつも通りだった。
昨日と同じように。
今日と同じように。
何も知らないまま。
真壁は窓際に立ち、その光を見つめていた。
背後で足音が止まる。
石山だった。
石山は何も言わない。
ただ、泥の染みついた大きな手を、真壁の肩に置いた。
真壁は振り返らなかった。
石山も何も言わなかった。
二人は黙ったまま、暮れゆく海の上の灯りを見つめ続けた。
4
夜。
推進室は静まり返っていた。
蛍光灯の白い光が、机の上を照らしている。
結はプレハブの隅で、黒い日誌を開いた。
ページをめくる。
ペンを握る。
紙の上に、静かに文字を書きつける。
インクが乾いていく。
そこには、一行だけ残されていた。
「二三時 汽笛一回」




