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第十八話 現場の帳簿


 特別会議室に、加湿器のシューというかすかな音が再び響いていた。


 長い会議机の末席で、真壁は開いた帳簿を両手で押さえていた。


 そこに並んでいるのは、反論ではなかった。


 工事契約。


 鋼材発注。


 補償協議。


 現場で起きてしまった事実だけが、冷たい数字として並んでいた。


 真壁は視線を帳簿に落としたまま、声を響かせた。


 声を張る必要はなかった。


 部屋の静けさが、彼の言葉の輪郭をはっきりと浮かび上がらせていた。


「本四備讃線事業を今期で凍結した場合、即座に発生する未払い債務、ならびに確定損失の試算です」


 真壁の指が、帳簿の端を静かに押さえる。


「第一に、施工中工区の全面中断に伴う、ゼネコン各社への違約金。ならびに、機材撤去および現場穴埋めにかかる暫定工事費」


 本省幹部の一人が、わずかに手元の資料を動かした。


 真壁は構わず、淡々と続けた。


「第二に、すでに特注で製造が開始されている主塔用鋼材の製造ライン停止補償。ならびに、現存する鋼材の廃棄処分費、および長期保管に伴う維持コスト」


 真壁の声には、怒りも哀しみもなかった。


 ただ、児島のプレハブで、緑色の光を放つ電卓の液晶画面と向き合い続けたあの夜の、極限まで研ぎ澄まされた正確さだけがあった。



「第三に――」


 真壁が、次のページをめくろうとした。


 地方自治体がすでに発行してしまった地方債への補償。


 そして、海を譲る決断をしてくれた漁師たちとの間で結ばれた、漁業補償の白紙撤回に伴う賠償金のページだった。


 その時、中央に座る宗像が、静かに右手を上げた。


「もういい」


 宗像の声は小さかった。


 しかし、真壁の指の動きを完全に止めるだけの鋭さを持っていた。


 真壁はページをめくる手を止め、顔を上げた。


 宗像の視線が、帳簿の端をなぞる。


 それだけだった。


 だが、真壁には分かった。


 宗像はもう、最後まで聞く気がない。


 真壁が提示した二つの項目だけで、残りのページに何が書かれているかを見抜いていた。


 本省の査定担当として、宗像は数字のプロだった。


 数字の並び。


 計算の緻密さ。


 その裏付け。


 それらを一瞬で理解していた。



 宗像は真壁の帳簿からゆっくりと視線を外し、手元に置いていた万年筆へと目を落とした。


 壁に掛けられた時計の秒針だけが、チク、チク、と静かに進んでいた。


 宗像は深く息を吐いた。


 真壁は初めて、その男の疲労を見た。


 宗像は磨き上げられた指先で、万年筆のキャップをカチリと閉めた。


 その小さな金属音が、会議室の空気をわずかに震わせる。


 宗像は顔を上げ、真壁の目を真っ向から見据えた。


「真壁君。君の数字は正しい」


 一拍、沈黙が流れた。


 宗像の目は、相変わらず冷徹だった。


「だが私の数字も正しい。だから厄介なんだ」


 三十七兆円。


 真壁は何も言えなかった。



 宗像は手元の書類をトントンと机の上で揃え、静かにまとめた。


「私の査定意見は変わらん。本四備讃線事業の一時凍結、および無期延期。これを本省の結論として上申する」


 宗像はそこで言葉を区切り、真壁を見た。


「だが、君の持ってきたこの帳簿は、査定意見書にそのまま添付して上へと送る。決めるのは私ではない」


 宗像は帳簿を閉じた。


 真壁も何も言わなかった。


 もう、互いに説明を重ねる段階は終わっていた。


 勝敗を競うための議論でもなかった。


 凍結案。


 現場の帳簿。


 二つの書類は、並べられたまま上へ送られた。


 誰も席を立たなかった。


 加湿器の音だけが、部屋に続いていた。

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